トッド・ラングレンに出会えたのは、やっぱりサウンドストリートとクロスオーヴァーイレヴンのおかげ。
「ザ・バラード」は、教授がサウンドストリートで「この曲を聴いて、今日は終わりにしましょう。おやすみなさい・・。」と最後にかけた曲。
■Todd Rundgren 「The Ballad (Denny & Jean)」■
「ザ・バラード」が聴きたいがために、この曲の入ったアルバム「RUNT」を買ったのは、90年代以降のこと。
夜想曲としては、ぴったりでしょう。
この休みに、またがさがさとゴミ屋敷を搜索する。
大学時代に描こうとして中座したままの絵が出てきた。
今になって見ると中座したままの方がいいんじゃないか、と思っている。
出来上がる、とは一体何を意味しようか?
中途半端だからいいんじゃないのか。
なにごともコンを詰めすぎては、息苦しくなる。
思えば、日本の過去の先人たちが生み出したわびさびの空間も、墨の世界も、茶の世界も、そのことと繋がる。
なにごとも、やりすぎては、気配や気を失う。
まだ、週は始まったばかりだし。
「ABUSOLUTE EGO DANCE」に狂喜、「GRADATED GRAY」にじんわり、
そして温泉宿のやりとりにくすっ…三人三様、タオルの掛け方が違って、それだけでも十分満たされる貴重な時間でした。
『中途半端だからいいんじゃないのか』
『なにごとも、やりすぎては、気配や気を失う』
この数日は報告書の〆切と個人的な意見書の完成に追われる中、それでも、
かたちんばさんの言葉をお守りに、小さくとも秋を嗅ぐ「気」は温存。
こんな電車で、ごとごと揺られていきたいものです。
「PROMISE NOTHIMG」のCD盤は、ジャニスではありませんが私も神保町で購入しました。
ヴァージニア・アストレイとは不思議なご縁で、
当時、ピート・タウンゼントの奥さんの妹さんがデビューと知ってこれは応援せねばと(笑)
「FROM GARDENS~」聴いたのがきっかけです。
鎮魂にお昼寝にと、病んだ高校生にも優しかった調べは、今も変わらぬ清流です。
今週も、お疲れ様でした。私は、あと一日(^^ゞ
これだけ昼間暖かいと、またかゆみが出ているのではないでしょうか。
首もお大事になさってくださいね。
独白のみの場となりし。
週末ぽっとコメントが入り、ご多忙の折、それでも糸がつながっていたことにホッとしました。
お疲れのことでしょう。
こちらは今日AMに通院。
話された内容とリンクしますが、ヘルニア痛が悪化。
背中まで左側がガチガチです。
しかし、そう言えば、かゆみはいつの間にか消えています。
まだ多少はありますが、乾燥肌程度で、血まみれの頃を思えばラクです。
***
YMOの番組知りませんでした。
残念。兄は録画しているだろうか?
まったく仕事ざんまいでありましたので。
ヴァージニア・アストレイの「過ぎ去りし夏」は83年秋の深夜、音の像にけっこう驚きと喜びないまぜの感がありました。
神秘的でした、当時。
「お昼寝」。
確かにそうですね。
ただ、自分は当時、肉体的にもボロボロに疲れていたので、イーノと同じアンビエントなものがカラダに染み込む感覚がありました。
7インチ、12インチ、CDなどコレクションは増えた今ですが、やっぱり最初に出会った時の印象が強いですね。
世の中が、こんな音楽のように穏やかであればいいのに・・・。
そう思ってやみません。
まあ、まともにとりあわず、隙間を見つけてはお互いゆったり行きましょう。
張り詰めているものが半端ではないのでしょう…
つい最近ですが、首を倒してバキバキ鳴らすあの気持ちよさは、首のヘルニアを進行させると聞き絶句、そしてじっと我慢…く、苦しい。
どうりで「この首、交通事故に遭ったことあるでしょ」と言われる訳です。
スカッと一発で治るものではありませんが、でき得る限りのリペアをなさってくださいね。
YMOのスタジオ・ライヴは8月に撮られたものだそうです。
お兄様が録画していらっしゃるといいですね。
因みに私も間に合ったので、かたちんばさんにお会いできる機会があればコピーはお任せください(笑)
『隙間』に身を寄せる感覚、分かります。
よく、「閉所恐怖症なのに何でそんな隅っこに居るの」と言われますが、
隅っこ≠閉所・閉塞。
(私はど真ん中の席で映画を観るということができません。かたちんばさんは閉所恐怖症ならではの行動パターンなどありますか。)
動物が繁みに身を隠しつつ自分は周りを観察したり、体を預けて休ませるようなもの。
隙間にも、似たようなニュアンスを感じます。
ちょっと入り込めるゆとり。面白み。どこかに抜け道があるから息づける。
夕暮れとともに、涼しく、雨の匂いもしてきました。
小さな生き物たちのようにまあるくなって、静かに休みたいものですね。
親も友人も知らないこと。
実は中学2年のときに、悪い連中から砂場の鉄棒にぶら下がった際に、突き落とされて首から落ちたこと。
これが、それ以降のなりゆきの要因です。
当時はヒビが入っていたのでしょうが、孤独で誰にも言えないまま、病院にも行かずに耐えた。
その後遺症です。
これを言ったのは、30数年目にして、さくりんさんが初めてです。
バキバキは自分も鳴らしていますたが、最近鳴らなくなりました。
マッサージ通いもやめました。
ただリンラキサーはそれなりに効いていて、かきむしるような痛みは抑えられているのが救いです。
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YMO是非コピーお願いします(笑)。
いつかYOUTUBEにもアップされるでしょうか?
TVも雑誌も見ない自分は、出来るだけ「世間」から遠くに行きたい・自由でありたいと想うあまりに、こういう不測の事態もまあまああります。
情報は毒ですから。
単一的な流れに組み込まれるのはもう御免なので。
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「見える世界を信じないこと」というのは、街だったり・日常だったりします。
全てが情報化に依って均質化してしまった。
そういう世界に辟易しているのです。
だからスキマを、自分だけが深呼吸出来る場所と時が必要。
そうしないと窒息死しそうだから。
正直、日本人は「世間」に未だに踊らされて緊張を強いられています。
その外側に、誰にも察知されない地点を見つけることが必須です。
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閉所恐怖症。
自分もMRIに1時間入った際に、久々に経験しました。
長時間の飛行機もダメ。
だから憧れのヨーロッパもくもおさんのように行きたいけれども、無理。
今は、仕事では、目立って発言する連中の黒子に徹しています。
役職の付いた人が如何に悲惨かを目の当たりにしながら、自分は地道に、データや文章などをしたため、本を読みながら思考の深みに入りつつ仕事が出来る。
目立ったり・偉くなるつもりはお断りだし、そういう役者にはなりたくないですからねえ。
アホだなあ、と思いながら黙っていますが。
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「私はど真ん中の席で映画を観るということができません。かたちんばさんは閉所恐怖症ならではの行動パターンなどありますか。」
好きなものはかぶりつきで見ます。
デヴィッド・シルヴィアンの「ブレミッシュ」のライヴを最前列の切符が取れて見たときは「良し!」という感じでした。
ただ、そういうたぐい以外は隅っこや端っこや顕微鏡的世界が好きですね。
電車は一番奥で、群衆を見ないで壁にもたれてラクをする。
街では、よからぬ人々の流れを察知すると、逸脱して裏道にはいり出す。
これは無意識にそうなってます。
仕事場では、部屋でダレて苦しくなると屋上に登って空を見ます。
写真で花や道端の様にぐぐっと迫るのもイイですね。
また、光の加減という些細な機微に反応するのが激しい。
でも、これも逆に疲れてしまいますね。
ほどほどにしないとね。
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今日は早起きして、永六輔さん〜久米宏さんのラジオを聴きつつ、外に出ようかなあ・どうしようと迷っているうち、鬱とダルさが取れずに結写真整理やら・・だらだらです。
黒い雨を浴びるのもどうかと思うし。
とにかく自分の内面の声に従いつつ、出来るだけ自分中心で外と調整していくことしかないですね。
とは持つべきスタンスですね。
何でも信じてしまうから信じられなくなる、という順番のような気がします。
かたちんばさんの告白を伺う度に、自然とドゥルッティ・コラムが流れます。
繊細でありながら芯の燃える強さを感じるヴィニ・ライリーと、かたちんばさんが重なる。
抱える壮絶なものを超えて、淡々とさえ映ります。
今に後遺症をもたらすほどであれば、その瞬間はさぞ痛かったことでしょう。
想像するに、心はもっと。
その罪を覚えていようがいまいが、そんなやつらはロクな人生は送っていないだろうし、畳の上では死なせない。
そう憤ってみても、想像して痛みを感じようとしてみても、
私は当時のかたちんば少年にも、今も何ができるわけでもない。
やはり驕り昂ぶらず伴走あるのみ。
こんなですが(+_+)これからもよろしくお願いします。
そして、どうぞお大事になさってください。
私も、何も言わない子でしたね。
いつか、かたちんばさんに『その1』やら『その2』やら、聴いていただくこともあるかもしれません。
私は淡々とはいかないでしょうし、今でもコールタールのような海を黒々広げていますから(笑)
その日のBGMはジョイ・ディヴィジョンでお願いします。
ママさんも淋しいのでしょう。
ぜひ一緒の時間をゆったりと。
その空気感を大事に。
***
懐疑的なのは生まれつきで、様々な人から「ひねくれ者」と言われながら生きて来ました。
「みんなと一緒」でありたいと願い、よそおいしてみたりしましたが、結果は無理。
そこから自分の持つ資質と如何に付き合うかを模索しだした…
そんな流れでしょうか。
ヴィニ・ライリーに例えられるなど光栄です。
自分はそんな大した存在ではありませんが。
彼の孤独。
その中でもがくように掻き鳴らしたギターに秘めた蒼い熱情には胸を打たれました。
友達だったイアン・カーティスの自殺に哀しみ、送った「リップス・ザット・ウッド・キッス」。
***
なかなか言葉に出せないことはたくさんありますね。
よく精神科医に、かなり自分には勇気ある言えなかったことを言っては、後悔します。
彼女が何をしてくれる訳では無くて処方箋を出すだけ。
そのことに気付いて薬局で順番を待ちながら、言ってしまった言葉は宙に浮き、結果、言ってしまった自分自身に突き付けられる。
ならば、言わなきゃ良かった。
そんなことは何度もありました。
結局、人は孤独。
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さくりんさんにも言うに言えないものがココロの底流にあることでしょう。
言わんとするニュアンスはわかります。
「BGMはジョイ・ディヴィジョンでお願いします」
わかりました。
それを語っても崩れないほどになったら教えてください。