「ショウユラーメンヲ 1ツクダサイ」。
深夜のラーメン屋に金髪ガイジンさんの声が違和を持って響く。。。
労働者たちが静かに集まり、お互い会話もせぬまま麺をすすり、ビンビールの一杯目を疲れを背負った体内に流し込む曜日。
高い位置に鎮座したテレビ画面が流れるに任せて。
1983?Or1984?
今でも録音した一部がカセットテープで残っているが、高校時代、“排球部“練習後のカラダを引きずって帰った夜には、ラジオ日本(ニッポン)の深夜番組が、ぎりぎりの心身をいやす重要な時間だった。
今では想像が付かない人も多かろうが、当時のラジオ日本(ニッポン)は、音楽番組がたくさんある貴重な(しかも)AM放送局だった。
平日帰った夜22時からは、「サウンドプロセッサー」(愛称”サンプロ”)を聴いた。(FMとの掛け持ちで、どちらを録音にするか迷う日々)
大貫憲章さんとスヌーピーこと今泉恵子さん、それに曜日に応じたゲスト(特に酒井康さんの曜日が面白かった)。
22時の時報。
その後、もはや時代ずれした”ヴォコーダー”を通した声が「J・O・R・F、J・O・R・F、ラジオはニッポン、サウンド、プロセッサー・・・」と言いテーマ曲が流れ出す。
2人の「こんばんは」で始まり、
お互いのやりとり、読むお便り、新譜に旧譜。。。怪しい訪問者たち。
酒井康さんが来る曜日は、闖入(ちんにゅう)者扱いであった。
憲章さん「今日も。。。言ってもいないのに、ゲストが来ています。
この人は、来たいときに来る、というのがどうも信条らしいですが、ではどうぞ。」
酒井さん「下着。。。付けてます。。。真行寺君枝です。。。」
大貫さんの”評論家業”始まりを振り返りつつ「お前も何か肩書きが必要だから、“クイーンの大貫で行け”と周囲に言われた」話、クイーンで洋楽に目覚めこの世界に入ったというスヌーピーの話など、折々に挟み込まれる会話が楽しかった。
放送の合い間に掛かるCMは、京浜急行グループが協賛しているのもあり、神奈川・湘南方面のものが多く、首都圏におけるローカルな味があって良かった。
異なる文化圏の匂いと、一方では、夏間近は海辺のプール(大磯ロングビーチ)や海水浴客向けCMなど。ほかでは聴いたことのない広告たち。
ラジオ日本そのものが横浜が発信地であり、当時引越先・ダ埼玉に住まされた自分の場所には、電波が入りにくかった。
チューニングに難度を要したが、微妙にダイヤルを回し、カセットテープのRECボタンを押し。。。
小学生の頃通わされていた梅ヶ丘の“塾”がある意味、東京二十三区の西極だった自分でも、この放送は異文化の匂いをはらんでいた。
AMラジオの中でもラジオ日本は、洋楽音楽がちりばめられた異質なラジオ局。
土曜日の深夜には、全米トップ40(ビルボード)、深夜1時からは全英トップ20(レコードミラー)。
前者は湯川れい子さん・後者は憲章さん&今泉さん。
当時、全英の方には、未だ聴いたことの無い音楽が紹介されるので、ノートにメモしつつ聴いた。
途中からは、インディチャートが現れて、インディペンデントレーベル中心のベスト5が紹介された。
ここでよく「耳にした」バンドは、4AD(コクトーツインズ、ディス・モータル・コイル等)、スミスが次々とたたみ掛けるように発表し続けたシングル類の疾走感が素敵だった。
***
話は行きつ戻りつするが、ナツだったように思うが、1983か1984年頃「サウンドプロセッサー」でも掛かったキム・カーンズの愛曲を今夜は聴いていた。
■キム・カーンズ 「ベティ・デイビスの瞳」1981■
当時大ヒットを飛ばし、ラジオで掛かり続けたこの曲。
ハスキーな声も好きだったが、中学生1981年時点では、シンセサイザーを使っているだけで、その音に満足していたフシがある。
実際は、この後1982年に「愛と幻の世界(ボイヤー)」でテクノに影響されたアルバムを発表するのだが、これはその前夜の曲。
「ベティ・デイビスの瞳」を大貫さんがCM前に紹介した時には、もう既に「懐かしい」と思うくらいになっていたが、たかだか2年程度の違いなのである。
憲章さんや今泉さんとは、決して趣味思考が一致しないどころか、かなりなズレを持った自分だったが、それでも楽しき時間だった。
(湯川れい子さんも、ましてや真逆側の酒井康さんなども)
そういった魅力は、肉声で人として伝えるメディア=ラジオならびにディスクジョッキーの魅力ゆえだと思う。