こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2015年9月17日 木曜日 むずかゆい「社会的価値」と無意味

2015-09-17 00:48:36 | 雑記帳
タマの夜に外呑みに数杯だけ付き合い、地面に光が乱反射する雨の夜。
ふらふら酔いながら、それでも脳は回転していた。朝は弱いが、過去肝臓を壊せる程度に酒には強いほうである。

帰路の電車で、さらりーまん(給料生活者)的社畜2人が、ぐだくだ酔ってごたくを並べている。車内には人が居ない。観客は自分以外居ない。

2人ともとらわれの身を自ら忘我し、システムの一部として刷り込みされた「なにがしか」に夢中。囚人のように。それが意味のない会話に聞こえる。極めて狭い世界。

今さら言うまでもない、化かし合い世界の、よく見慣れた風景。
そうやって、数十年しか生きられないのにも関わらず、人はそこに沼のようにずぶずぶ浸かって行く。

聞きながら想いをめぐらせると、浮かぶはいつもどおり好きな人たちにぷかぷかと辿り付く。
じゃあ”誰ならこうだ”ということ。

好きな人たちはいつも、社会的価値なんか、大した意味なんか無いんだよ、ということを証明すべく、一個人として自らの粗暴なありさまを真実として具現化しようとしてきた事実。

***

捉え方は人それぞれだろうけれども、私にとっての大竹伸朗とは0を100にしようとする、そのアナーキーなさま自体に刺激と生きていく希望を抱く。
「画家」「非画家」という区切りを超えようとする、その情熱に胸を撃たれる。感情論ではない。
作品がどうこうより、そんな概念そのものを0にしてでも、今・ここに居る自分を基準にしていることにおいて。

坂本龍一は、かつてはそういった文脈とコードを引きずった人だったが、次第に社会的価値に引き寄せられていった。だからといって、未だ坂本龍一は大事な此の世の財産と思っている。
だが、まるで我慢比べみたいになるのも良くはないし、教授の稀有な才能も重々承知の上、俯瞰的に引いて見ればそう思う。

「そういう、お前自身が、それをまのがれ得ない”給料生活者”じゃねえか」とよく言われる。
まったくその通りである。
しかし、こんな醒めた意識を持って生きるか否かは、きわめて重要な分岐点とも思う。

必死で「社会・人」であろうとして(或いは”あらねばならず”と)「社会」に100寄り掛かるのと、50寄り掛かるでは大いな違いだろう。結局は、兄貴に昔言われた当たり前の言葉が浮かぶ『おまえが言う世界は、もう存在しないし、それは叶わない』。

それでも、0/100ではない場所に、生きるところを見つけるのがにんげんじゃあないのだろうか?。
個人が社会システムの内側に居たって、イコール社会人である必要はない、という当たり前の事実だけが置き去りにされているように思う。
この一点において、おもねり寝技を使い、しけこむ者ばかりのように見える絶望風景を永遠に望まない。

■坂本龍一 「ザットネス&ゼアネス」1980■
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