平日のお昼は、お弁当を買って食べる。
肉食は出来うるだけしないとしたじぶんだが、お弁当は大抵様々なおそうざいが入っているので、いくら選んでも、唐揚げの一個などが入るのは避けようがない。
あるいは、カップ麺を食べようとしたって、そこには動物のエキスが入っていたりする。
または、何かの会食に招かれた際には、もうすでにテーブルにはそんな食材が乗っていたりする。
既に殺されて食材と化してしまった段階では、実は手遅れで、いくらじぶん一人があらがっても、都会の欲望を満たす目的を中心として回る社会システムを止められない限り、じぶんのあらがいは単なる絶望的な妄想に過ぎない。それは重々承知している。
じゃあ、といってシーシェパード等のような団体に属すのか?という選択肢も選んでない。
「すべてのものは、同時代的であらざるを得ない」(坂本龍一)としても、じぶんはじぶんとして、出来うる限り、社会に属しながらも・社会の外の目線を忘れずに半隠遁しつつ行くしかない。(教授がマクロビオティック主義であったのを知った際には、意外であったが、今ではそこに至った道を理解する)
仙人と化して・どこかの地に移動するたくらみや、行方不明になることを、まだ三十代までの元気な頃にはよく出来たものだが。
本来は、そういった同志との繋がりを行動に変換せねば、単なる独りの中の勝手な思い上がりで、結局なにもしないのと同じ・・・というのも理解する。
今、じぶんに出来るのは、街を歩きながら、隙間にまだ残る、生き物たちが休息できる場所で出会った、おなかを減らしたり弱ったネコたちにエサを与えるくらいのことである。
テレビがもたらす「洗脳」効果、あるいは、もっと言えばマスメディアがもたらす「洗脳」効果は、相変わらず日本ではバツグンであるようだ。恣意的誘導を伴うウソとシナリオが付いて回るものに、見事に「乗っかる」。
だが、一方では、地道に真実なり、あるいは真実では無くとも、そこにたどり着こうとするメディアもたくさんある。ネットだけでは無くラジオだったり、本だったり。
そんな中、平日のお昼だけは、同僚と地上波テレビを見る。
なぜかいつも着いているチャンネルは「ひるおび」。今の恵俊彰に興味がある訳では無い。
理由は簡単。枡田絵理奈ちゃんと江藤愛ちゃんが可愛く癒されるだけのこと。
特に、枡田絵理奈ちゃんの「言っていることが難しくて、さっぱりわらないわ」という黙っている困った表情にグッとくる、という人が多い。
「ひるおび」を見ていると、おおよそ、マスメディアが「その日暮らし」を続けるため渇望するネタに飛び付いて、むしゃぶり喰っているさまがよく分かる。
最近では、柔道が暴力だのなんだのかんだの・・・。対象を標的に叩きに叩きながら「暴力で強くなるなんてことはない」などと出る者全員が、懲悪に徹するウソの様は、マインドコントロール的な不可思議な映像に写る。それが、あるときは体罰に関しての盛り上がりだったり。
麹町中学・巣鴨高校と、そんな暴力は日常茶飯事見てきた、同世代の人々も不思議がっていることだろう。
たんなるこれは一例で、マスメディアの捏造にはいとまがない。
「じゃあ、見なければよい」と言われるのは正論。だが、つい色に弱いもので、中身にああだのこうだの、同僚としゃべりながら、枡田絵理奈ちゃんと江藤愛ちゃん見たさに見てしまう。
昨夜、友人のMくんと話していると、この手合いの話も多く出た。
Mくん「ほんとうはやめたいけど、ついパチンコをしてしまう。今まで損した分を取り返そうとして。」
かたちんば「じぶんもやったことあるから、その気持ちは分かるケド、どこかで損切りするしかない。永遠にはまっても、取り戻せないように思えて。」
Mくん「そのパチンコでたまたまAKBの台があって、興味が無かったのだけど、はまってしまって、そこからCD買うまでになった。」
かたちんば「実はじぶんもわからないつもりは無いけど、馬鹿にして避けている。はまるであろう気配から、それが見えないフリをしている。
昔、神戸のMくんのマンションに遊びに行ったとき、ゲームがあって、Mくんが寝る中、朝までそのゲームをやってしまった。そのとき『これはヤバイ』と思って、ゲームは見えないフリして過ごしてきた。」
Mくん「そんなことあったっけ?」
かたちんば「お互いコリ症なのは似ていると思うよ。歯止めが利かない。じぶんはそれがわかったから、そういうモノには近づかない。ブレーキを掛けている。」
かつて、素浪人の頃、おニャン子クラブにはまってしまって、恋をしていたじぶん。AKBにはまる男子の気持ちは分かりつつも、風俗と同じで・流通商品として利用され、お互いの競争心理を煽りながらも、使い捨てされながら、その構図を俯瞰的に見た元締めに利益を収奪される構造。
それは、かつて行った中国に行った先に見聞した光景ともダブるし、それは今の日本の光景ともダブる。
■Bryan Ferry 「This Island Earth」1978■
ファンに、自分の中にあるものを見てしまうからだと思います。
でも、頑張っても握手しかできないのに大金をつぎ込むのは病的です。
秋元康が商売上手なのは認めます。
パチンコは勝ったことがないのが幸いです。
最近は、そーいう団体さんがいろいろあって、何がAKBで・何がどうたらなのかは全く不明。
秋元康は、おニャン子クラブのセルフ二番煎じなので、商売上手とは思いませんでしたが、ここまで経済効果を生むとは思いませんでした。
三ノ輪銀座さんが言うように「頑張っても握手しかできないのに大金をつぎ込む」という意味では、公然キャバクラなのだと思います。
守銭奴が女性を囲ってボロ儲けをしている構図。
パチンコは、昔、三ノ輪の王電向かいにあるパチンコ屋さんに親父にくっ付いて、まだ手で一球一球打つ頃にやった記憶が強いです。
そのギャンブル好きの親父が反面教師だったお陰で、ギャンブルへの嫌悪感が植わったのは、ある意味救いだったのかもしれません。
行き先も見えず、あたりを蹴散らし蹴散らし…
映画館を出る時、ストーリーから抜け出たような奇妙な妄想に襲われることがありますが
今日は、アンニュイそのもののブライアン・フェリーの視線が自分と一部ダブる気がします。
ゆらゆらと緩慢な降下、あるいは転落をスローモーションで見ているように
沈んでゆく感覚にゆっくり添う「This Island Earth」が心地よいです。
いつもさすが!の選曲ですね。
バッチイ。
さすがではないですが、「This Island Earth」も、ブライアン・フェリーも、じぶんの中での存在は大きいです。
フェリーに影響を受けた幸宏が、1983年の名盤「薔薇色の明日」でカバーしていますが、そちらも大好きです。
さくりんさんの感じためまいのような感覚が、極めてより神経質な表現されています。
ビル・ネルソンのギターも素晴らしいカバーですよ。