夜,必死に走る人,異常な速度,体勢で歩く人とすれ違う。
寄り道・迷い道も時に愉し、と写真を撮り街をあてども無く放浪する自分には「あんな苦行をしていたら風景の瞬間の輝きも味わえんだろうに」と気の毒に思う。
ジムではラットの如く室内のベルトコンベア上を歩く人。
昔「紅茶茸」がブームになったが,絶え間無い「あれが健康に良い,これは健康に悪い」。
ジョギング提唱者自身が,その最中に心臓発作で死んだように「予測の域」を出ないのに迷信に躍らされ続ける一部の人々。
「今」の直後に死ぬかもしれないのに。
そんな人の隣で,コーヒーとタバコで一服し,音楽を聴き・本を読み・浮遊するCUEと漂い,街を撮りつつ歩く。
今夜は,DIP IN THE POOL『オーロリー』を聴いている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/5f/fc77ab8eec4a05315f2cb5fa9b572f6b.jpg)
寄り道・迷い道も時に愉し、と写真を撮り街をあてども無く放浪する自分には「あんな苦行をしていたら風景の瞬間の輝きも味わえんだろうに」と気の毒に思う。
ジムではラットの如く室内のベルトコンベア上を歩く人。
昔「紅茶茸」がブームになったが,絶え間無い「あれが健康に良い,これは健康に悪い」。
ジョギング提唱者自身が,その最中に心臓発作で死んだように「予測の域」を出ないのに迷信に躍らされ続ける一部の人々。
「今」の直後に死ぬかもしれないのに。
そんな人の隣で,コーヒーとタバコで一服し,音楽を聴き・本を読み・浮遊するCUEと漂い,街を撮りつつ歩く。
今夜は,DIP IN THE POOL『オーロリー』を聴いている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/5f/fc77ab8eec4a05315f2cb5fa9b572f6b.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/ec/d96097ad7ef02f9ac39a9b0120900c5e.png)
「○○の来週のテーマはこれ」というファックスが送られてくると、
それに従って関連商品を発注…という仕組みがありました。
その番組は後にデータ捏造がバレて打ち切りになりましたが、今でもその仕組みと躍らされる人々は変わりませんね。
昼に「アロエが良い」と放送されれば、夕方のスーパーには、生まれてこのかた一度も見たことがないアロエコーナーが登場する。
コーヒー豆が高騰している今、
誰か「コーヒーは○○の救世主」とか言って
文字通りうちの店を救って欲しいところ(笑)
お向いさんに手が届きそうな路地裏で、現役の井戸を発見したり
微かな沈丁花の香りで春を感じたり。
(私は雨の夜に道路を渡るザリガニ!を見つけて連れ帰ったことがあります)
根拠のない情報に右往左往するのを横目に、
自分で入り込む寄り道・迷い道の、ちょっと怪我もするかもしれないけれど、自分で歩く開放=健康。
苦行を信じる人々には、異端で不健康に映るのでしょうね。
「信じる」ことは歪みに繋がることが多い。
私も、投げた直球がイレギュラーで怪我をしたことがあるので思うのですが…適当な言葉が見つかりませんが
かたちんばさん、どうかご無事でいて下さい。
予測はできても、避けられないこともあるかもしれません。
「根拠なく」ですが、今夜は特に、心配になりました。
『蓮を食べると先が見通せる』なんて。
蓮の穴が永く通っているからでしょうが。
こんな「伝承」には、いにしえとの繋がりやユーモアを感じて好きですが。。。
「○○のテーマはこれ」は『ある2』ですね。
まあ、これも一種の宗教と変わり無い。
ありとあらゆる所で、色んな食材等々が良い良い良いの嵐。
一方で槍玉に今挙がってカルト的な事象がタバコ刈り。
昔、大長老の泉シゲチヨさんにインタビューしたのも懐かしい。
「おじいちゃん、長生きの秘訣は何ですか?」
『夜の晩酌と一服(タバコ)ですわ』
***
コーヒー豆、ブラジルは注目の的らしいですね。
自分は、生粋の日本人のせいか?
コーヒーより緑茶がダイスキですが、だからといってコーヒーも好きです。
元来の胃潰瘍持ちから、どこに行ってもアメリカンコーヒーを頼むのが癖で、染み付いてしまいましたが。
路地裏・井戸・沈丁花・ザリガニ…
そういう「暮らし」の優しいことばに囲まれることはしあわせそのものです。
麻生久美子ちゃんは、ザリガニは御馳走と思って育ったそうです。
と、その結果、あのようなステキな人として輝く存在でいる。
「信じることは歪みに繋がることが多い」
悩む所ですが、今読んでいる養老先生「無思想の発見」にも似たようなことあり。
同意しかねる箇所あり、微妙な問題です。
さくりんさんの気になること・言わんとすること分かります。。。
それが上記の本、並びに、「狂いのすすめ」にもあります、というより「それ」が2冊の本の核心です。
風見鶏のように風に同じてベクトル合わせ、意志は表明しないが賢明という思想。
それが無思想という思想。
じゃあそれでええんかい、という私の意志。
頭の中でぶつかり合い・ひしめき合っています。
意志を表明する、そのスタイルが好きでありながら、
私は好きなものをなくしたくないだけなのかもしれませんね。
私も、頭の中で勝手な想いがぶつかっています。
対照的に、空は雲ひとつありません。
目的地で降りたくない気分(笑)
今日もどうかご無事で。
「意志」とは本当に存在しうるのか?
私には解らない。
「自分」とは制約された条件下で突き上げてくるリビドーの思うがまま、とも言えなくもない。
「自分」など有るのか無いのか?
これも解らない。
養老先生の唯脳論を読まずとも、実は全部解っている。
例えば、本屋を巡り歩きピピッと来る本を買った時点で、実は8割方中身をその人は既に理解していたりする。
そうも思います。
DNAがエンジンならば、私が今こうして書いていることすら、全て筋書き通りなのかもしれません。
私は無神論者とかつて言いましたが、神があるとしたら、シェイクスピアが言った、こういう筋書きを俯瞰的に見える「なにがしか」のことを指すのでしょう。
しかしニーチェじゃないですが、現代の幸か不幸は、この神が死んだ/見えなくなった事に寄って個人への負担が重くのしかかっている事。
それゆえ引きこもったり、暴発するリスキーな危うい状態。
三島由紀夫が語った「天皇を中心とした国家」「戦前の死と隣り合わせだった時の幸福」の意味も、仮に天皇なる装置を設定することによるリスク回避を意味したもので、イコール軍国主義ではない。
いずれにしても、今、外的な力によって、国家崩壊・家族解散、そして「孤」となってしまった個人が漂流・浮遊させられる羽目に陥った。
そんな日本の自殺大国、精神破綻、定める指標の無さ。
私のブログも、DNA+カオティックな状況次第に揺られた中での暴発された瞬間的な反応に過ぎないのかもしれません。
まさにコンフュージョン・ウィル・ビー・マイ・エピタフ。
それだけにしか帰依出来ないように思います。