こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

音盤日誌:ケイト・ブッシュ「ザ・ドリーミング」 1982年10月

2020-10-09 21:00:00 | 音楽帳


1982年10月1日(金)日本発売となったケイト・ブッシュの「ザ・ドリーミング」。
このアルバムを初めて聴いたのは、たぶん10月10日(日)の「サンデー・ミュージック」。FM東京で、日曜昼12時からの2時間番組だった。
当時録音したカセットテープは上書きしてしまい、もうこの世に無いが、やはりB面1曲目のタイトル曲「ザ・ドリーミング」が初めて聴いた1曲目だった、と思う。記憶のイメージの中では確かそうだった。あと、他のラジオ番組でもこの曲と「サット・イン・ユア・ラップ」がよく掛かった。

A面
1/サット・イン・ユア・ラップ(Sat in Your Lap)
2/10ポンド紙幣が1枚(There Goes a Tenner)
3/ピンを引き抜け(Pull Out the Pin)
4/ガッファにて(Suspended in Gaffa)
5/リーヴ・イット・オープン(Leave It Open)
B面
1/ドリーミング(The Dreaming)
2/夜舞うつばめ(Night of the Swallow)
3/オール・ザ・ラヴ(All the Love)
4/フーディニ(Houdini)
5/狂気の家(Get Out of My House)

「ザ・ドリーミング」は、じぶんが初めてケイト・ブッシュをリアルタイムで聴いたアルバムだった。
1979年中学1年生から隔週FM雑誌を買って以来、ケイト・ブッシュのポートレイトやレコード広告は何度も見ていたが、聴く余裕と機会を得ないまま1982年10月に至った。当時、ケイト・ブッシュを見て驚いたのが、こんなキレイなお姉さんが全ての音楽をゼロから創っていることだった。



レコード広告にも雑誌のレコード評にも、このアルバムは「初めての72チャンネル録音!」とうたわれている。
小嶋さちほさんのレコード評によれば、レコーディングに1年半、トラックダウンに1年近くかかったという。神経を使いすぎた疲れからノイローゼになり、製作途中でいくらかの中断もあったようだ。

音楽の制作過程はおおよそ下記の通り。
1981年3月 自宅でレコーディングのリハーサル開始。
1981年5月 アビーロードスタジオでレコーディング開始。
1981年12月 レコーディング中断。最初からやり直す。
1982年4月 再度レコーディングのやり直し。
1982年9月 「ザ・ドリーミング」やっとこさ完成、発表へ。


わたしが上記の番組「サンデー・ミュージック」をエアチェックしたのは、実はモノラルのラジカセだった。「ステレオですらない状態で聴いている者に、72チャンネルと言われてもねえ・・・」という貧乏学生の実態。だが、一方では、そのラジカセとマイクとテープループなどを使って、愚にもつかない奇妙なデモテープの実験を日々ひそかに行っていた。そんな身には多チャンネルの多重録音と聞くだけで興味津々、ヨダレが出てくる、という面もあった。
しかしアルバム全体は暗いデモテープ少年の期待を裏切って、いくら72チャンネルでもきちんと整っていた。多重録音によって偶発的に出来上がる奇妙な世界、誰も知りえない、聴いてはいけないような世界、そういった曲はこのアルバム10曲にはない。残念ながらキャバレー・ヴォルテールのような部分はなかった。

多チャンネルを強く感じるのは、やはりタイトル曲「ザ・ドリーミング」。
様々なSE・効果音が出てくるのもあるが、手前と奥が分離したり微妙に音像が崩れる場面があり、不可思議な語り声がいきなり現れたり、聞こえない音もサブリミナルに聴いているのかもしれない。



A面~B面、またA面・・と繰り返し聴くごとに、72チャンネルは単なるネタに過ぎず、このアルバムには極めてまっとうな楽曲が収まっていることに気付く。スルメのような味わいの曲ばかり。
実にヨーロッパ的であること、美的で端正であること、それは決して譲れない、といった彼女の中の「筋(スジ)」の通し方・スタイルがあるのだろう。

小嶋さちほさんは、こんな的確な表現をしている。
「メロディや歌詞など 具体的な部分は もちろんのこと、アルバムの持つ雰囲気がものすごくイギリス的だ。厳格に退廃している、とでも言ったらピッタリくる。暗くはないけれど、パーッと明るいというわけでもない。アメリカ的陽気さラフさとはまったく反対のシリアスさを持っている。
音の中にもアソビがあることはあるのだけれど、大胆なアソビではない。無意識のうちに大胆なアソビ方を体がキョヒしてしまうといったタイプのアーティストではないかと思う。」



2020年秋、久しぶりにこのアルバムを通して何度も聴いた。
まるでピーター・ゲイブリエルか?フィル・コリンズか?と思うようなゲートエコー的ドラム音から始まる「サット・イン・ユア・ラップ」。
一体この美しい繰り返しはいつまで続くんだろうか?と思う「狂気の家」。
かと思えば淡々と進んで、ハイ終わり、とさっさと終わる、幸宏エンディングみたいな「10ポンド紙幣が1枚」。
彼女の叫び声にハッとする「ピンを引き抜け」。。。。

でも、9曲の中で一番好きなのは、当時も今もB面3曲目の「オール・ザ・ラヴ」。
曲中バックで、受話器などを通して「Good Bye」と言う男や女の声が、次々と立ち現れる。そのセリフの背後にある物語を想像させる。美しいメロディと伸びやかな彼女の声・コーラスと「Good Bye」という声が重なり合い、感涙にむせぶ。
そんな夜がかつて何度もあった。


■Kate Bush 「All the Love」'82■

私が最初に死んだのは
仲のいい友人たちの腕の中だった
みんな涙にくれて 私にキスをしたわ
何年も遠くはなれていた連中なのに
なぜ今じゃなけりゃならないの
もうここにはいられないのに 行ってしまうのに?
もっと私たちを愛しつづけてほしかったのに・・・

普段見られない愛と嘆きを
解き放てるのは悲劇だけ
友だちに涙を流すところを見せたくなかったわ
弱気なところを見せたくなかったわ
でも私は見せてきたのよ
門の前にたった一人で立つ姿を・・・
もっとみんなに愛されていたかったのに・・・

愛のすべて 私たちが与えられたはずの愛のすべて
愛のすべて あなたたちが与えるべきだった愛のすべて
愛のすべて 愛のすべて 愛のすべて

この次生まれる時は 私の生涯の作品を
大切な友人たちに捧げましょう
彼らが聞きたがっているものを捧げましょう
彼らは私が何か気味悪いものに夢中だと思ってるわ
私の中で 恐怖がゆっくりと頭をもたげてくるの
彼らがベルを鳴らしても つい機械に頼ってしまう私
それでも あなたたちが愛してくれるのを待ってるの

愛のすべて 私たちが与えられたはずの愛のすべて
愛のすべて あなたたちが与えるべきだった愛のすべて
愛のすべて 愛のすべて 愛のすべて
もっと私たちを愛しつづけてほしかったのに・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする