3月17日 土曜日 14:00。
細野さんが制作協力したチャクラのアルバム「さてこそ」から、「これから死んでゆくすべての生命体に捧げる詩」を聴いている。
静かなピアノに、小川美潮のハイトーンのヴォーカルのみの曲。
外は晴れているようだ。
こういう時間の停止したウィークエンドの土曜の午後らしい曲。
チャクラは、P-MODEL、プラスチックス、一風堂と共に、日本のテクノ、ニューウェイヴの中、1980年に、テレビではじめて「柿の種」という曲を聴いた時の印象が強烈にあるが、
この2枚目のアルバム「さてこそ」は、細野さんが参加しながらも、聴く機会を逸していた。
去年、CDで入手した。当時の日本のテクノ、ニューウェイヴの風を感じる。
こういう音楽を聴くと、つい今の日本の音楽は、表面だけ流麗で、しょせんは「キレイゴト」の世界で、中身は無いように思ってしまう。要は「白々しい」のだ。
人間は、飯を食い、ウンコやションベンやオナラをし、「日々の生活」を送っていく存在だというのに、それ自体を、あたかも無いかのように無に化すあたりが、実に不愉快である。
近時、こういうチャクラみたいな音楽というのは、日本の何処に存在するのだろうか?
表面ばかり気にしているうちに、闇にまぎれていった日本の音楽たち・・。
***
まあ、テクノ、ニューウェイヴ自体が、アフター・パンクから派生して、既存の音楽への?(クエスチョン)から始まっているから、それらは、音楽の「骨格」自体の破壊や解体、新しい骨格の創造などの要素を含んでいる。
しかし、今の日本の音楽は、「既に在る」ものへの接近や模倣、「既に在る」ものの組み合わせ処理でしか無い。
自分も矢野顕子さんと同様、「YMOを越えた日本のミュージシャンは、YMO以降存在しない。」という意見の持ち主だから仕方が無い。
まあ、彼ら若いミュージシャンは「新しい音楽」など作る気も、能力も無いのだから、仕方が無いが。
***
チャクラを聴いていると色んな別の音楽を想起させる。
「これから死んでゆくすべての生命体に捧げる詩」には、坂本龍一も曲を作りバックアップした演劇家 如月小春さんの「都会の生活」や名12インチ・シングル「Neo-Plants」のB面の曲たちを思い出す。(如月さんは、残念ながら2000年に44歳でくも膜下出血で急死した。)
また、大好きな女性4人の唯一の女性ニューウェイヴ・バンド「ゼルダ」の初期の音楽とも、底通している気がする。
***
3月の年度末の中、毎日、野蛮な企業の中で、脳をフルスロットルで酷使されている。
昨夜は、さすがに、タモリ倶楽部さえ見れずに、珍しく12時には、死んだように眠ってしまった。
そして、起きたのは13時。13時間睡眠である。
鏡を見れば、病んだ蒼白い顔、目の下にはクマ。
さてさて、久々の休み、これから何をするかな・・・。
ビッコを引きずり、髪を逆立て、ヒゲボーボーの不完全人間「かたちんば」は、お茶を煎れに、台所に向かうのであった。