京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

「佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」京都国立博物館

2019年10月25日 08時33分28秒 | 日記
 10月20日は、京都国立博物館で開催中の「三十六歌仙絵と王朝の美」に来ました。
日曜日で混雑を覚悟していましたが運良く空いていて、ゆったりと鑑賞することが出来ました。



鎌倉時代に制作されたこの佐竹本三十六人歌仙巻は、歌に優れた三十六人の"歌仙"と呼ばれる詠み人の経歴、歌、肖像画が書かれた二本の巻物でした。

それがどういう経緯か旧秋田藩主の佐竹侯爵家に伝わります。
やがて、この「佐竹本三十六歌仙絵」は売りに出されますが、余り高額な金額に単独で購入する者はいませんでした。

そこで、大正8年(1919)に一歌仙ずつに分割され売りに出され、それぞれ別の所有者の元に秘蔵される事になりました。その分割からちょうど100年目に開かれた展覧会で三十六歌仙のうち三十一が展示され、恐らく今後はこれだけの名品が一堂に会する機会の可能性がないと思われる内容です。
美術館や博物館がお持ちの場合には、単独で見れる機会はあるでしょうが、今も多くの歌仙絵が個人の所有になっています。









斎宮女御など5点が今回は出品されていないのが残念です。
個人の考えですが、いずれも国指定の重要文化財ですので、こういう大きな特別展では、是非出して欲しいと思います。

御朱印帳が付いた前売りを購入していたので、引き換え、坂上是則と小大君の絵葉書を購入し、京博を後にしました。



追記
京博に来る際、七条大橋を渡ってきましたが、前回に記事にした様に今年に登録有形文化財に指定され、そのプレートが北側に取り付けられていました。






さかい利晶の杜(与謝野晶子編)

2019年10月24日 06時22分53秒 | 日記
 さかい利晶の杜の2階は"与謝野晶子記念館"になっています。



「みだれ髪」をはじめ多くの詩歌集をしたり、「源氏物語」の現代語訳などで明治・大正・昭和と活躍したのは多くの方が知るところです。





詩歌を通じて寛と出会い、寛の連れ子、実子合わせて12人の子どもの母親になりますが。寛が亡くなるまでの34年間を共に暮らしています。





晶子の生家は羊羹で名高い「駿河屋」です。
2階は和洋折衷で晶子の両親も先端的な考えを持っていたのでしょうか?

晶子の詩歌集の凝った装幀なども展示されていて、当時の著名な画家が描いていて、美術品としての評価も高いそうです。
これには夫寛の「後世に残るものでなければならない」との考えが反映しています。

再び1階に降りて呈茶を頂きました。



南梅菴と名付けられた立礼(りゅうれい)席は明るく解放感のある部屋です。
三千家持ち回りで呈茶をされていて、この日は表千家がご担当でした。
最近、少しだけお抹茶の事がわかるようになってきて、この日のお薄は泡だちがほとんどなく"表"だと分かりました。
表千家は"鏡のように、、"
裏千家は"適度な泡だち、、、"がひとつの特徴ですねー。(それ以外は分かりませんが、、、)











水差は鮮やか青色、釜は富士型と、お道具の拝見も楽しみのひとつです。

向かいには"千利休屋敷跡"があります。





以前はフェイスで囲まれていて中には入れず、しかも井戸の屋根も、周りを囲う塀もなかったように記憶していますが、利晶の杜が出来るのに合わせて整備されたのでしょう!
おふたりのボランティアガイドの方が2名おられ説明して頂けます。

井戸の屋根は、大徳寺三門を修理した際の古材で作られているそうです。

妙国寺や南宗寺を再び訪れたいとの思いを強くした一日でした。

京都地主神社

2019年10月23日 07時02分22秒 | 日記
 京都東山に鎮座される京都地主神社の創建は古く神代(日本建国以前)からと言われています。





実際に境内にある「恋占いの石」が専門家の鑑定で縄文時代の遺物とされています。



清水寺に隣接し、良縁祈願で訪れる若い女性が多く参拝に訪れる神社です。その分、男性には近寄りがたい雰囲気があります。
清水寺だけが世界文化遺産だと思っていましたが京都地主神社も世界文化遺産に登録されているのを最近になって知りました。

そもそも、「ご縁」とは、人と人との出会いの事です。人にとって良い縁と悪い縁とがあり、前者を祈願することを「良縁祈願」と呼んでいます。

ですから良い結婚相手に恵まれるよう祈願することも「良縁祈願」に含まれます。

京都地主神社の主祭神は、縁結びの神さま「大黒主命(おおくにぬしのみこと)」でその父母「素盞嗚尊(すさのおのみこと)」「奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)」さらに奇稲田姫命の父母「足摩乳命(あしなずちのみこと)」「手摩乳命(てなずちのみこと)」を正殿にお祀りされています。
三代にわたる神さまをお祀りしている訳で子授け、子孫繁栄の強力な組合せですね。





また、境内の桜も有名で平安時代の弘仁2年(811)に嵯峨天皇が行幸された際には、お車を三度戻され眺められた桜です。"御車返しの桜"の由来となったと伝えられています。



さかい利晶の杜(千利休編)

2019年10月22日 08時02分23秒 | 日記
 会社の人事転勤で兵庫県加古川市から大阪府堺市に引越ししてから早や14年が経ちました。

数年前に秋の特別公開時にレンタサイクルを借りて妙国寺や南宗寺などをを巡った事、また、仁徳陵古墳を徒歩で一周した以外は、あまり堺の歴史には関心がなかったのが正直なところです。
(千利休や与謝野晶子の出身地であるのは知っていましたが、、、もうひと方 女優の沢口靖子さん)



という訳で、堺が誇るおふたり千利休と与謝野晶子に特化した博物館"さかい利晶の杜"を初めて訪れました。









堺は古くから自治都市として発展し、裕福な町衆からなる会合衆により自治が行われていました。

しかし、戦国時代に入ると織田信長はじめ豊臣秀吉らに多額の戦費の提供を強いられるようになります。和平を選んだ会合衆たちは多額の戦費を提供し、南蛮貿易で当時、最先端の武器鉄砲の輸入にも協力して来ました。

今も"鉄砲町"に名前が残るように、堺では鍛冶職人の専門集団が存在していました。
(今でも堺包丁は名高く、多くの料理人が購入に来るようです。)

やがて、ポルトガル伝来の種子島銃を模倣し、国産の鉄砲生産に成功します。

この時期に台頭してきたのが織田信長です。
信長は茶を好み、堺の今井宗久や津田宗及と交わります。やがて千宗易が出て信長の茶頭になります。







信長が"本能寺の変"で亡なり、後継者となった豊臣秀吉も千宗易は茶頭として使え、その存在感を増して行きます。
秀吉が宮中に参内し、正親町天皇に茶を差し上げる際、無位無冠の宗易が天皇より賜ったのが"利休"と言う名です。





館内では、企画展「生誕120年 立花大亀と茶の湯」がありましたが撮影禁止なのでパンフレットをご覧下さい。










御土居を見て歩き〜洛中洛外のはざまを歩く〜

2019年10月21日 13時33分33秒 | 日記
 10月20日は、京都市考古資料館開館40周年記念 遺跡見て歩き【特別版】で豊臣秀吉が築いた御土居を説明員の方(南さん)と巡りました。







御土居は、豊臣秀吉が天正19年(1591)に京都を囲い込むように築かれた土塁と堀からなる大規模な施設で城郭で言う惣構えでその総延長は22.5kmもあります。
この大土木事業をわずか3ヵ月でやってのけた秀吉の権力の大きさを感じます。

市バスの「玄琢下」近くにある御土居からスタートです。



写真の住宅がある位置がかっての土地の高さです。堀(空堀)を掘り、その土砂で土塁を築いています。崩れにくくする為、土の種類を分け何層にも築かれており、頂上部には土塁の強度を増す為、竹が植えられていたようです。
南さんが大正時代の古写真をA3に拡大したものを見せながら説明して下さいました。

次に西に向かい"京の七口"のひとつ長坂口に残る御土居です。
ブラタモリでタモリさんが歩かれた御土居です。
向かいにある"お土居餅"で有名な光悦堂さんがフェイスの鍵を管理されており、お声を掛けて中に入ることが出来るそうです。









写真に見える山は鷹ヶ峰で、その手前を紙屋川が流れており、川に沿って自然の地形を巧みに利用しているのが分かります。

御土居の役目について
① 京都の街を洛中と洛外に分ける。
② 京都の街を洪水から守る。
③ 京都の街の治安維持。
などが言われています。









御土居史跡公園
公園として整備された御土居です。紙屋川左岸の段丘を利用し、土塁の頂上部まで登る事が出来、その高さ、かっての川幅の広さを感じます。







住宅地の一角にわずかに残る御土居です。地名も西土居町で御土居の名残を感じます。

現在では、史跡に指定されると国がそれを買い上げていますが、法整備がなされていない時代、史跡指定されても所有者が処分してしまう事が多かったようです。





最後は北野天満宮北門前に残る御土居です。
芝生が植えられ、周辺から出土した石仏が集められ、お祀りされています。

今回は御土居のほんの一部の約3kmを歩きました。大正時代までは入る多く残っていたようですが、昭和に入り宅地開発でその多くが失われました。
遺跡の痕跡を探しながらウォークするのも楽しい時間でした。