京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

元号が寺名のお寺 仁和寺を訪ねる

2019年01月19日 09時15分39秒 | 日記
今日、1月13日は「そうだ 京都、行こう。」のイベントで表題の企画に参加しました。



いよいよ今年4月30日に今の明仁天皇陛下が退位され、翌5月1日に徳仁皇太子殿下が即位されます。そこで、天皇自ら住持を務めた仁和寺を訪ね、元号を考える企画です。



講師は京都産業大学の久禮旦雄先生です。

昭和54年に元号法が公布、施行され、元号は政令で定められ、一世一元制が定められました。

①日本年号の歴史
中国年号に習い「大宝」から「平成」まで実に247もの年号が連綿と続いています。

②改元の理由
即位改元、祥端改元、革年改元、災異改元があります。

③年号の決め方(前近代)
天皇による改元の詔→召勘文宣旨(候補年号調査報告書作成命令)→年号勘文勘申(候補年号調査報告書提出)→御所→陣座・仗座(審議会)→御所→施行

少し写真で休憩です。
昨年の台風21号に被害は、ここ仁和寺でも、大きな爪痕を残しています。宸殿の檜皮が剥がれたり、勅使門の閂(かんぬき)が風で破損したりの被害があり、現在修復工事が行われています。







④年号の決め方(現近代)
岩倉具視により、慶応4年を改元し、明治元年とする。即位の日に改元を実施し、一代に一元号とする。
明治42年の登極令では、天皇践祚の後は直ちに元号を改める。元号は枢密顧問に諮問した後に勅定する。
元号は詔書により公布する。とあります。

「大正」改元(明治42年=1912) 総理大臣 西園寺公望が中心となり国府種徳の提出案

「昭和」改元(大正15年=1926) 宮内大臣 一木喜徳郎が中心となり、吉田増蔵の提出案

戦後はGHQ占領下で旧皇室典範廃止、しかし、新皇室典範では元号について規定なし。

「平成」改元(昭和64年=1989)1月7日に政令の公表。出典は「史記」、「書経」より採用。
しかし、この平成も過去に候補に上がり採用されなかった経緯があります。
よって、5月1日(一か月前に公表)の改元も、過去に候補に上がったものになる可能性もあります。

ところで「元号寺院」の仁和寺は、光孝天皇が発願され、次の宇多天皇の仁和4年(888)に金堂が落慶し、年号により仁和寺と名付けられました。
宇多天皇は、仁和寺で出家され、門跡となられた由緒ある門跡寺院です。

日本が太平洋戦後で敗戦し、その戦争責任が天皇に及ぶ可能性があった際、時の総理大臣 近衛文麿は、天皇を仁和寺で出家させようと考えていたようです。

その他に「年号寺院」は、建仁寺、建長寺があります。天龍寺は当初、暦応寺と称する予定でしたが当時の仏教界最大勢力の延暦寺が反対し、天龍寺となりました。その他、南蛮寺も当初は永楽寺と称する予定が同じく延暦寺の反対で南蛮寺になりました。現在、存続している寺院は、こちら仁和寺と延暦寺など数少ないです。

講義の後は、お坊さまによる境内諸堂の案内がありました。まずは、江戸時代初期に御所の紫宸殿を移築した国宝の金堂です。紫宸殿は御所にある当時は檜皮葺きの屋根でしたが移築時に瓦屋根に変えられています。ご本尊は阿弥陀如来で、脇侍に観音、勢至菩薩を従えた三尊仏です。柱、壁、天井の絵の彩色がよく残っています。昨年11月に裏堂の五大明王の壁画が公開されました。







この日は、サプライズで観音堂の内部を見学する事が出来ました。5年に及ぶ解体修理が終わり、ご本尊の観音菩薩像はじめ諸仏がこの春に戻られます。その際、公開されるそうです。
観音堂は今まで内部を拝観した事がなかったので貴重な機会でした。