既に13日も2018年は過ぎてしまいました。そうなってくると確かに昨年の大河の話なんかどうでも良いような気もしないではありません。それでも私的に書き留めておきたいような気がするのですね。
その時感じた記憶、考えた記憶は、その人だけの財産。しかしその財産は「時間」と言う魔女に奪われていくものでもあるのですね。自分の考えたことなんだから忘れないだろうって、私は昔は思っていました。
そう思っていたから、時々お芝居や映画などの感想で、ネタバレにもなることを恐れて外郭しか書かなかった記事も結構あるのですが、今読み返して、「あえて書きませんが、私はある事を感じしみじみと・・・」のような文に出くわすと、いったいその時私は何を感じたのだろうと、自分の脳内をどんなに探っても、その欠片すら出てこない事もあるのです。
私の友人の半分以上は年上。
凄く失礼な事ではありますが、彼女たちと話をしていると、この忘却は「興味のない事は忘れる技術」どころの問題ではなく、無自覚にも加齢による失われつつある能力に他ならないような気もするのです。
あな恐ろしや。
それは同じように私に迫って来る恐怖。
いや、既に・・・・。
だけど歳を取って失っていくものの補う事が出来るものは補えばいいのです。歯を失ったら入れ歯にして、老眼になりクリアな視界を失ったらシニアグラスをかけて、聴力には補聴器の力を借りて、そして杖をつき・・・・(ああ・・)
そして記憶の喪失にはメモと記録。
と言うわけで、またも長い前置きになりましたが、「おんな城主直虎」の話です。
このお話、毎回ジンワリとした涙を友にして見ていました。
こんな感想を書くのは私ぐらいなものだと思うのですが、直虎が城主をやめて百姓として土を耕す生活を選んだ時、私は本当に脳内で「天空の城ラピュタ」の前日譚の様な気持ちになりましたよ。
そしてあのジブリの映画が、もっと好きになりました。
戦いの選択をやめて、土と共に生きる道を選ぶー。
それは口で言うほどの簡単なものではなかったのですよね。
良く戦国時代をテーマにしたドラマなどは、すぐに「この戦国の世を終わらせるために・・」とか言うじゃないですか。私、あれ、いつも一番のフィクッション部分だなと感じています。言うなれば一番の戦国ドラマの嘘部分。いや、真実は分かりませんよ。本当は本当にそのような事を考えて、敵の一族郎党を皆殺しにしていたのかも知れません・・・なんちゃって。
私が思うには、生まれた時から戦国の世しか知らなかったら、戦国じゃない世界をそうそうは想像なんかできないと思います。それが簡単に言葉になって出てくるのはかなり難しい事だと思います。
だけどこの物語は、自分たちの弱小の国を守るために、不戦の道を画策し努力するのですよね。逃げるために知恵を使いまくると言うか。最初は守るためでも、戦のない世界を思いめぐらす土壌が育っていっているような気がして、ラストに直虎が戦嫌いの家康に肩入れしようと思う事に説得力を感じました。
話題になっったサブタイトルは、面白い発想で楽しめましたね。
前にも書いたことですが、「綿毛の案」には本当に笑わせてもらいました。
そしていつか「風と共に去りぬ」の番が来ると思っていました。私の予想では政次の最後の時。でもそれは見事に外れて彼の壮絶な最後の時は、「嫌われ政次の一生」って、もう素晴らし過ぎましたよね。
で、それは龍雲丸との別れの時に使われたのです。「井伊を共に去りぬ」
そうだわ。それで良いんだわ~、って思いましたよ。だって元ネタの方の物語を思ったら、二人は不仲ではないですが、どちらかと言うと龍雲丸の野性的な男っぽさはレッドバトラーに近かったかもしれませんから。
村は焼かれてしまいました。でもあの村を焼くシーンはシナリオが出来る前に、きっと書いてくれると信じて、先に焼いてしまったのですってね。だったらってちょっと思ってしまったのは、それなら直虎にその村の中を走らせて・・って、先に撮影してたから無理だったのかな・・・。
またその村壊滅時の村人たちの物わかりの良さも、良すぎでしょうと思いました。やっぱり直虎にはちょっと戦の無常さを出して、土塊を握りしめて天に向かって手を差し出して欲しかったかもしれません。
まあ、言いたい放題なのは分かって言っています(^_^;)
登場人物は皆魅力的でしたね。
その中で意外なほど好感度を上げたのは、今川氏真だったのではないでしょうか。私のように戦国の世に疎い人は、今川は桶狭間で滅びてしまったかのような錯覚すら感じていたのです。まさかあのようにしぶとかったとは。
大河ドラマはだいたい一回ぐらいは幽霊が出てくることになっているのですが、その幽霊も寿桂尼で武田信玄を迎えに来ると言う演出は、なんて言うか私好み。
「おババ様、助けてくれないかなあ。」なんて言っていた孫を助けに来てくれたのですよね。
途中で感想を書かなかったので、このように細かいエピソードを拾って行ったらキリがありません。
とにかく登場人物は皆魅力的。最初はキャンキャンと煩く感じた中野直之もいろいろな場面でカッコ良かったです。
物語も井伊万千代中心になってからも、面白さが増したように思います。
そして彼が元服し井伊直政になったところで最終回を迎えます。
直親と直虎は実はイコール。高瀬の存在で、直親の人気は急降下だったと思うのですが、きっとそこにも見えないドラマがあったのですよ、きっと。とにかく直親への気持ちがなかったら直虎は誕生しなかったのです。そんな二人の「直」と政次の「政」。
私は、本当にジーンと感動しました。
ライターの森下さんは、この直政の名前をじっと見て、そこからこの物語を作ったのかとさえ想像してしまいました。本当は小野政次なんて言う名前じゃないんだよなんて事は関係のない事なのですよね。だってこれは「物語」なのですから。
あっ、そうだった。
あと一つだけ書いておきたいエピソードがあったのでした。
この大河は、ツイッターからの情報で二倍楽しい大河ドラマになっていました。
第44回は「井伊谷のばら」。
そんなに派手な回ではありませんでしたが、それでも直虎と祐椿尼との会話に思わず涙がこぼれました。
「あなたにこのような生き方をさせてしまった。」と思い煩う母に
「このような人生を与えてくださって、感謝しています。」と直虎は言いました。
真ん中の良いセリフの所を省いて申し訳ないのですが、母の気持ち子の気持ちが伝わって来て、またも感動しました。
そして実はそのシーンは後からツイッター情報で、なんと「ベルサイユのばら」のあるシーンから作られていたことが分かりました。
オスカルが父親と同じような会話をするのですよね。
だからそのタイトルだったなんて、凄いなと思うのと同時に、やっぱり人からの情報って大事だななどと、そんな所からも思ったのでした。
このドラマは総集編も見ました。総集編だったので録画もしなかったのですが、後からものすごく後悔しました。と言うのも、ラストが本編とは違ったのです。
本編では顔が出てこなかった直親と政次。皆笑いあって出てきました。
そしてやはり本編では回想シーンがなくて、ちょっと寂しいような気がしたものが、なんと柴崎コウさんの歌でそのシーンが入りました。
もうそこだけでも欲しい。
一年間、彼らとともに毎週日曜日を楽しみに過ごしてきた共有の時間は本当に幸せでした。
途中で感想を書かなかったのは、もう何も考えずに物語に浸りたかったからかも知れませんが、今は逆にちょっとだけ後悔しているかもしれません。
出来る限り忘れませんように。
そして今年も、そんな風に思えるドラマに出会う事が出来ますように。