森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

金環日食、感激しました。

2012-05-21 08:53:29 | 梢は歌う(日記)

5月21日、東京では7時34分頃、金環日食でしたね。

トップの画像は、一番綺麗な金環の時では無いのです。なぜなら一番綺麗な金環の時は、ひたすら「おお~。」とか「キャアキャア」とかはしゃいでいましたから、その後に、そっか写真かと思いついたのです。練習なしで撮ったたので、記念写真程度ですが、一応満足です。

今朝のお天気は・・・

こんな感じですよ・・・

でも雲が厚くても、フィルターを通してみると太陽はちゃんと見えました。

 

ああ、この写真を見ていたら、今頃欲が出てきました。金環日食を撮りたかったな・・・

と、今頃後悔しても仕方がありません。

次回は300年後なんですってね。

こうなりゃ、頑張るかって・・・それは無理。妖怪かバンパイヤになるしか無いですものね。
いや、バンパイヤになんかなったら、日食なんか見ることは出来ないのでした。ボア~と燃えてしまうかサラサラと砂になってしまうのでした~・・・。

またも戯けたことを言っていますが、まじめに感激しました。

300年後を待たずとも、綺麗な金環日食をリアルで見ることが出来て、今朝はちょっと幸せな気分です。

 

厚い雲に阻まれたりして、見ることが出来なかった地域の方もいらっしゃるのに、はしゃいだ記事になってしまって申し訳ないと思います。
昨日はちょっとだけイラっとすることがありました。だけど、こんな風に100年単位の出来事に巡りあうと「ちっぽけなことに拘るなぃ」と思えるのでした。

そして日食の変化のスピードは、自転の速さなんでしょうか。思わず、意外と太陽は早く動くなと思ってしまったのですが、人によっては月は思っていたより早く動くなと感じるのでしょうか。

とにかく「速い」。

くだらない事に思い煩っている時間など無いのだとお天道さまは言っているのだよ‥‥・と思った朝でもありました。

 

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咲き続ける優しさ

2012-05-13 07:01:09 | お散歩&写真日記

〈またも、途中まで書いて放置していました・・・
なんとはなしに気持が落ち着かないことがいくつかあって、ブログに向かえませんでした。でもその中の一つが昨日終わったので、また少しづつ復活しようと思います。〉

           

思い描いていた春の風景とは違くても、我が家にも徐々に冬の肌寒い季節は過ぎていっているように感じている今日この頃です。

降り続いていた心の中の雨がパッと止み空高く輝く虹がかかるのを夢見ることは、それは幻想なのだと思い知らされても、この徐々に冬が去っていく、この感覚と現実を大切にしたいと思います。

見栄でも強がりでも良いから微笑み続けていれば、やがてそれは顔の輪郭や表情を作り上げ、自分の本当の顔になっていくものだとも思います。

街を歩けば、優しげな顔の人、険しい顔の人、見るから幸せな顔の人、なんとなく不幸顔の人、様々な顔の方がいますが、幸せそうで優しげな顔をしている人の人生が順風満帆であるとは限らないのですね。

あまり深く思慮しない人たちは、時にはそういう顔の人を「お気楽な人」と評価したりもしますが、そう軽く評価する人こそ、自分の人生の浅さを考えるべきなのかも知れません。

 

ベランダにも色が戻って来ました。

上の写真は、我が家のサフィニアです。これは5月4日に撮ったもので今日はもっと花の色も増えて綺麗でした。この花は昨年の夏からずっと咲き続け、冬の間も一度も、その花の姿を見せなかった日はなかったのでした。

信じられないくらいガーデニングが下手です。盛の季節の時にも他の庭にあるように咲き乱れ丸いプランタから溢れるように咲くサフィニアを育てることが出来ません。

でもそんな私の小さなベランダにいるのに、咲き続けてくれたサフィニアです。

そのサフィニアの1月の画像は→ここです

 それからもうひとつ。

こちらはタネがこぼれて、勝手に成長してくれたものなんです。

この花の以前の画像と記事は→ここです

花たちは言葉を持っていなくても、強さやそこに踏ん張って存在し続けることの優しさなんかを私に教えてくれるのでした。

だから緑の指を持っていなくても、ベランダガーデンを止めることが出来ないんだと思います。

 

同じように存在しているように見えていても、実は常に変化して、ある時は最盛である時は貧弱で、そして復活したり、でもその株は徐々に弱っていき、滅んでいくことは誰にもとめられるものではありません。それでも花たちは咲き続け、私の心を和ませてくれるというのに、ベランダから去った花たちが後の記憶に残ることは極稀なことだと思います。

まるで市井の人の人生のようです。

「それでも私はここにいます。限りの時まで。」

朝日に輝いた花たちが、そう私にささやく時、私も頷いてそっと言うのです。

「Me too.」と。

 

 

 

 

 

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ちゃんと、捨てましょう。その4

2012-05-06 18:49:37 | 梢は歌う(日記)

 

ラッタ君が旅行から帰って来た日。

いつものように夜、コタツでうたた寝していたら、彼の
「‥‥・というわけで、まんじゅうなどの食べ物系は無いんだ。」と、夫殿と話している声で

ああ、帰ってきたんだな。土産はナシか・・・・と、ぼんやりと目が覚めました。

「おかえり~~・・」と寝ぼけた声で言うと、

「はい、コレ。」と言ってくれたのが、上の画像のサボテンです。

うふふ。

こっちの方が、嬉しい♡

タイトルは「ちゃんと、捨てましょう。その4」・・・

いやいや、これは捨てちゃいけませんよ。

ちゃんと、大切に育てます。

※       ※        ※   

連休後半は、いったい何をしているのやら・・・。

普通の家事をヤルだけでフゥフゥ言っているような気がします。

小さな出来事ややったこともあるのですが、なんとなく毎日が過ぎて行ってるように思います。こういう時ほどゲームなどで遊んでいないで日記などを書き、日々の生活を見つめるべきなんだと思います。

だけれども書いた日記は、一体いつ処分するのが妥当と言えるのでしょうか。

ルート君の部屋の魔境のクローゼットの話の続きですが、そこでワタクシ、恐ろしいものを見つけてしまいました。

さすがに魔窟の奥の魔境です。

奥に「開ける必要なし」と書かれたダンボール。

別に「開けるべからず」と書いてあるわけではありません。

これは、こんな風に整理などをした時に、開けて中を確認する必要がなく、このまま仕舞っておけという指示なのだと思いました。でも中に何が入っているのかすっかり忘れてしまっていた私は、そのメモ書きを無視して、開けてみました。すると中に入っていたのは夫殿の子供時代のアルバムでした。

‥‥‥ああ、何だ。それで「開ける必要なし」なのね、と思いました。

が、その下にあったものは・・・

それは私の日記帳やサイン帳でした。

中学生時代、高校時代、大学生の頃・・・・・。

あるときまで、それらは私の原点でもあり大事なものだったのだと思います。

だけど今パラパラとめくってみると、・・・・。

馬鹿らしくて読んじゃあいられませんて・・・・。

しかも・・・・

ああ・・・

なんで・・・

日記帳にみんな名前が付いているんだよ!!

思わず、

「おみゃーは日記帳しか友達がいなかったのかよぅ」とどこの地方の言葉かわからない言葉で、ラップ調で突っ込んでしまいましたよ。

今もですが、昔から影響され易かったのです。

モンゴメリの影響で10年後の自分に手紙を書いたりしていた私ですものね、このぐらいのことはやっていても可笑しくはないのですよ。

「いとしいロリィ、私の気持はあなたしか分かってもらえないと思います。」

って、あなた止めなさいよ、もおぉぅ。

こんなのが、ある日私に突然残念な事が起きて、息子たちの目に止まったらですね、
「ああ、オラっちの母ちゃん、ちょっとビミューな人だと思っていたけれど、やっぱし思い切り変な人だったんだ。」などと思うことまちがいなしですよ。

なんたって、私は男子ばかりの親なので、こういう事を理解してはもらえないと思うのです。もしも私に娘がいて、少女時代をモンゴメリやオルコット、そしてその後はサガンやヘッセ、大島弓子や萩尾望都で育てたら、少しは私と被る子供にもなったかも知れませんが・・・・、いやいや、考えてみるとラッタ君は大島弓子や萩尾望都は読んでいるので、やっぱり‥‥むにゃむにゃ‥‥もういいや、過去とは訪ねて行きたくても行くことの出来ない遠い都。

さあ、早く捨てるのだ。

いや、待て私。

このようなものを捨てるには、それなりの儀式がいるんじゃないかなと、私は思いました。なんたって中学なんて私にとっては既に大昔。大学生時代と言えどもかなりの昔です。最後にちゃんと読んであげなくちゃいけないんじゃないかなと思ったりもしたのです。

そんなこんなで、それらは元の箱に戻されました。

そして「ちゃんと捨てる日」を持たなくちゃと思いました。

ところが数日経つと、ちょっとだけ考えが変わってきてしまったのです。

 

もしも私が80過ぎまで生きることが出来たなら、それらの馬鹿馬鹿しい日記は、およそ70年前の過去への鍵になるわけです。

80まで待たなくても、1年後にはまた開けて、3年後にもまた開けて、一人で顔を赤くしながら笑い転げるというのも、なかなかのもんかもねなどと思い始めたのです。それに今の今まで持ち続けていたのですから、何も「今」捨てなくてもいいんじゃないかと思えてきたわけです。

それで、なんとなくですが、前にそれらを箱詰めし「開ける必要なし」と書いた自分の気持が分かるような気がしたのです。

必要でないもの、だけど捨てる必要も無いもの。ただそこに存在させておきたいもの。それらはまさにそんなモノたちだったのですね。
(・・・・旦那の子供時代の写真もそうだったのか・・・?)

その時は、自分だけに向けて書き込んだメモでしたが、今、新たに意味が加わったと思います。

もしも私に突然何かがあって、私以外の人が整理しなくてはならなくなった時には、それらは「開ける必要もなく捨ててくれ」という意味だと思います。

だけどゴミ捨てって、かなりのエネルギーを使いますよね。
「迷惑をかけない」という事を考えると、やっぱり、「ちゃんと捨てる日」というのを、いつか持たなくてはいけないのかも知れませんね。

 

※     ※      ※

 ラッタ君が言いました。

「サボテンの育て方というパンフも貰ったが、いらないよな。サボテンを枯らすやつなんかいないだろ。」

思わず夫と私は顔を見合わせて、微かに微笑み合う・・・^^

「いいや、そんな奴もいる。」と夫。

私の耳には「お前の近くに」とまで聞こえてきました。

サボテンの育て方を知らないで、水をやりすぎて、サボテンの色が変わってしまいました。友人からは、この先に中がどろどろになっていきもう駄目だと言われました。

サボテンは人の気持ちがわかる植物だと聞いていたので、事あるごとに
「ごめんね、ごめんね」と刺のないところをさすっていました。そして自分が悪いことは棚に上げて
「頑張れ、頑張れ」とも言って来ました。

激励がなくても、きっと勝手に頑張っているんだと思う我が家の別のサボテンです。

 ナンカ、ボケテイルシ・・・汗

「ロリィ、私は思うの。あの花の蕾は、彼女、もしくは彼の『許してあげる』ってサインじゃないかと・・」
って、もう、ヤメレ。

 

 

 

 

 

 

 

  

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ちゃんと、捨てましょう。その3

2012-05-01 09:20:45 | 梢は歌う(日記)

GWの前半のお休みといったところで、実は私にはなんにも関係がなかったのでした。

単なる土曜日と日曜日と月曜日。

月曜日はだいたいパソコンで、チラチラ遊びながら明日の仕事の準備をするのが常です。いつもはツイッター・・・。最近はピグライフです。でも、今週の後半はお仕事がお休みなので、今日の準備はいつもより大変だったのです。

いつもよりきついスケジュールの月曜日。家事と仕事。

加えてルート君の部屋の片付け、真横ではのんびり顔の夫殿。

なーんかイライラしちゃうな、私。

もうすぐ夕飯の支度だし。(実はこれは昨日の夕方、書いていたのです。)

もう毎日ご飯なんか食べなくても良いんじゃないの。

ご飯がないなら、お菓子でもお食べって言ってやりたいわよねえ。

なんてボヤいていても仕方がないので、ちょっとだけ休憩したらやりますわよ、ワタクシ。

ルート君も帰ってくるし。

だけれど、今日はラッタ君が旅行でいないのです。

だんだん家族四人で御食事というのも、難しくなっていく過渡期の我が家なのかも知れませんね。

 

ところで、ルート君の部屋の魔窟の奥の魔境だったクローゼットの中には、思っていたとおり、子供たちの様々な作品が残っていました。今回は時間がありませんでしたので、
「いつかちゃんと整理するもの。」と思いを込めて、また仕舞い直しました。

これは「いつかちゃんと整理しなくてはならないもの」だと思います。

こういうものの整理って、ほんとうに難しいものがありますよね。

だけど難しく感じるのは親ばかりで、子供たち本人に整理させたら、明日には全部ゴミ袋に入っているに違いありません。

 

昨年の或る日、ふとゴミ箱を見たら、こんなものが入っていました。

ラッタ君が机の周りを片付けていた時です。

 これは彼が中学の時の作品で、今はノリが落ちちゃって中の物が剥がれちゃっているので、なんだこれはって感じですが、最初はもっと綿が薄く散りばめてあったのです。そしておはじきとかが見えるけれど、実は砕いて、もっとキラキラしたおはじきと言うかガラス片が、その綿の奥で光っていました。ガラスを砕くという大胆さが新鮮で画期的だなと思ったら、先生の評価も同じだったようで、評にそう書き込んでありました。と、まるっきり子供の作品自慢・・・テヘッ・・ ^^:

これは本人が捨てたのだからゴミなんです。だけど、私はそっと拾ってきて、既に元の姿でもないものを写真に収めました。

私がこの作品を好きだったのです。

もちろんその後、ちゃんと捨てました。
解体して、分別して・・・・。

 

子供の作品の捨て方、もしくは保存には「画像保存」という事がよく言われていますが、私も思い浮かぶのはそれしかありません。

「ううん、ちゃーんと、みんなファイルして取ってあるのよ。」という方もいらっしゃるかも知れませんが、それを見て楽しむのは親なんだと思います。他所様がそんなファイルを見せられたら、拷問レベルの苦痛だと思います。余程の傑作なら、子供たちが親になった時に、それが出てきたら感謝するかも知れませんが、我家の場合はビミョーです。

ビミョーでもまだ捨てられないものもあります。
いつかこれも、「まあ、もういいか」と思える瞬間が来るのだと思います。

 

そう言えば、私は「画像保存」しか思い浮かばないのは、既に子供たちが、子供といっても、それは立場の話で、実際には青年だからです。リアル子供の場合は、額に入れて飾るという保存方法も素敵ですよね。今、私がそんな事をしたら、家族全員に張っ倒されます。いや、実際に張っ倒されるわけではありませんが(それじゃ、家庭内暴力)、精神的にまずいものがあると思いますよ。

家というものは変化していくものなんだと思います。

やっぱり、「徐々に捨てていく」と言うのが正解だと思います。

しかし、画像を残して捨てていく・・・

なんだか、‥‥‥ハア、ため息・・・時間が・・・・なんか無駄じゃ・・・

思うに、特に女は、人生の半分は何かを生産し、そして膨大な時間を費やして、その人生の半分はもろもろの処分や後片付けに費やしているような気がしてきました。

「女の一生その2分の1、それは「ゴミステ」の人生・・・・」

あっ、私、なんか今、上手いことを言ったなあ、と自己満足。

という訳で、この記事、後半は火曜日の朝書いています。今日はゴミの日。そこから頑張ります!!!

 

 

 

 

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