森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

風の街「あこがれ共同隊」

2018-05-19 02:50:49 | 同じ時代の船に乗る

私は若い時は、テレビ自体をあまり見なかったと言うのもあって、ドラマをそんなには見なかったのです。

そんな中で、この「あこがれ共同体」は特別なドラマでした。

このブログの中ではなかったかもしれませんが、私は時々、このドラマが私に与えてくれた影響について語る事もありました。

西城秀樹さんが演じる青年は陸上をやっていて、二十歳の記念にタイムを更新し、その記録をストップウォッチに留めるシーンは、凄く印象的でした。そして物語の中で郷ひろみさんが、その姿に影響されて、自分も二十歳の記念になるような服の制作に頑張ると言うものだったのではないでしょうか。既にこの先の物語は曖昧ですが、話の流れではストップウォッチの記録は消され、作った服には欠陥があったのではなかったかしら。

だけど20歳前の私は影響されました。

「そうだ、頑張ろう、この二人のように。」と私は思ったのです。

※      ※      ※

トリオだとか御三家だとか言われると、なぜかその中から一番好きな人を選んでファンになると言う傾向が、あったように思うのですがどうでしょうか。

今思うと「みーんな好き。」で良かったような気もしますが、きっとあれは、みんな好きだと公言してしまうと、レコードを買ったり雑誌を買ったり映画に行ったりと、お小遣いがもたなかったからなんじゃないかとも思うのですよね。

私はその頃、野口五郎派。

ええとね、なんか変な映画も(ゴメンね。)見に行っちゃった^^

 

だけどある日、家族で歌番組での「傷だらけのローラ」を聴いていたら・・・・

じっと見入ってしまい、そして胸がキューンとなりました。

「あのさ、今、私思ってしまったんだけど・・。」と、声をちょっと潜めて告白する私。←浮気告白じゃないんだからね(^_^;)

「秀樹って、良いのね~。なんか好きになっちゃった。なんかこの激しい歌い方を見ていると、なんか応援したくなっちゃう。」

「うん、私も。」と姉。

「レコード、買いに行っちゃう?」

かくして、「傷だらけのローラ」のレコードは、我が家のレコードの置いてある棚の仲間入りを果たしたのでした。

 

絶唱、または絶叫型と言われた彼の歌に、当時会場を訪れたファンの人たちの熱狂ぶりはすさまじかったみたいですね。家に居てもその魔法にかかってしまったのは、普通の事だったと思います。

※      ※      ※

西城秀樹さん、63歳。

 

若すぎる死はいつだって悲しい。

ご冥福をお祈りします。どうぞ安らかに。

楽しい想い出をありがとうございます。

 

画質は確かに良くはないのですが、アップして下さっただけでも本当に嬉しいです。

「傷だらけのローラ」じゃなくて、こちらを貼らせていただくのは、やはり私的にはこちらの思い出の方がより深いからなんです。

 

風の街「あこがれ共同隊」

 

 

 

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『Happy!』

2018-04-21 17:55:27 | 同じ時代の船に乗る

いつも母は嘆きながら私たち四人姉妹に言います。

「私の兄弟は、とうとう皆バラバラになってしまった。だからあなたたちは皆仲良くしてね。」

それを聞くたびに

「はいはい母上殿。お任せください。」と私は応えるわけですが、心の中ではなにげに父と母を糾弾していたりするのです。

「仲良く」と言うのは、ボーっとしていても出来る場合もあるけれど、皆それぞれの生活を持っていたりすると、やはりそこにはいろいろな事が生じてくるのが世の常なのですよ、おかあさん。

だけれどそこでまた様々な思考をし、それぞれを思いやり時には悟りあるいは許したりするから、ずっと仲良くして居られる場合もあるってものなのですよね。

だけどそれは誰かが一方的に頑張ることではないのです。

そしてまたそこには「仲良くしていたい。」と言う意思がなければできない事なのですよね。

 

母の兄弟は、皆ある意味タイミングが悪かったのだと思います。

彼らの母が生きていた間は、皆それぞれに繋がりがあって、私は従妹たちとも遊んだし親戚づきあいもあったのでした。

男の兄弟のリーダーと言うのは、実は母親なのではないかと思う時があります。夫の家族を見ていてもそう思えるのです。

みんなを結び付けていた母親が死んだ後、様々な風が吹きました。

私にとっての祖母が亡くなってから、40年以上たった今、母と付き合いがあるのは、すぐ下の弟の家族だけになってしまいました。

 

2011年の3・11は、母たちの一族にとっては、震災のダイレクトな衝撃以外にも大きいものがありました。

母の長男は、死ぬまで事業家だったと思います。津波で建てたばかり(買ったばかり?)のビルが持って行かれ、既に高齢だったので、それがショックで亡くなったのだと聞きました。

事業家だったかもしれませんが、父と母が若い時に彼に受けた金銭的迷惑はかなりなもので、それゆえに両親は彼を嫌っていました。だけど私が結婚式の時には(その頃の私は親戚は大事にしたいという気持ちが勝っていたのです。)、そのおじさんに親戚代表の挨拶をしてもらいました。今ではうんざりな結婚式スピーチの代表のように言われている「三つの袋」の話を、彼はしたのですが、私は初めて聞いたのでそれなりに感動したのです。

私の両親は彼から実害を受けていたので、彼を嫌うのも当たり前だと思います。だけど、私自身はそうでもないのです。

おじさんは煙たい感じがする人だったので、あいさつ程度でその他の口も利かなかったのですが、私と姉は夏休みにはわざわざ泊りがけで遊びに行ったりもして、楽しい想い出がいっぱいです。やはり祖母が生きていた頃の話です。

 

2011年の3月11日ー。

信じられない事に、次男の妻の命日です。あとから聞いてあまりに驚いたので、忘れる事が出来ません。

その事は、2011年3月14日に「逝く人へ」と言う記事の中で書いています。

頭が凄く良かったのに自分の人生の試練を乗り越える事が出来なくて、お酒におぼれて行ったおじさんを、それでも「パパは愉快な人だから」と支えて行った人。それがおばさんだったと思います。

そしてそのおじさんはそれから数年は生きていつの間にかなくなっていたと言う事を、先日母の弟がお墓参りに行った時に墓碑に刻まれていて分かったのだと教えてくれたのです。

 

でも私はその話を聞いて、思わず首をかしげてしまいました。

だって、昨年私たちもそのお墓参りをしたのです。→「祖母の墓参り

亡くなったのは数年前でも、納骨は昨年とかかしら。

それともあの時に墓参りに行ったのは、それの虫の知らせだったとか・・・・。

姉上様、もっと根掘り葉掘り聞いてくださいよ~、と言う所なのですが、きっとこの謎はずっといい加減なままだと思います。

はっきり分かっているのは、もう彼は居ないと言う事だけなのですよね。

 

「逝く人へ」の記事の中で

>私は次女と言うポジションゆえに、あまり両親に愛されていると自覚が持てない子供でしたので、自分のことを好きになってくれた人の事はやはり嫌いになれないのかもしれません。

と書きました。

伯父さんだけが、私の事を「Happy!」と呼んだのです。

「『Happy』はね、幸せとか嬉しいって言う意味だよ。」と幼い私に教えてくれました。

今でもその単語を聞くたびに、やはり自分が呼ばれたような懐かしい気持ちになるのです。

 

夜などに突然やって来た伯父さんは、いつも真っ先に

「Happy!、起きているか。」と、もうベッドに入っている私の所にやってくるのでしたが、いつだって酔っぱらっているような伯父さんを、子供ながらに面倒くさいような感じがして寝たふりをしていました。

「なんだ、もう寝ちゃったのか。」と、がっかりしたような伯父さん。きっと何か自慢したいような話を仕込んで来ていたのかもしれません。

あの時は、ゴメンね、伯父さん。

 

だけど伯父さんは、本当は母にお金を借りに来ていたのかもしれません。

母はバラバラになってしまった兄弟の事を嘆くけれど、そこにはやはり「仲良くしたかった。」と言う意思がなければ、何も意味がなかったことだと思うのです。

 

それでもそんな伯父さんと、ささやかながら素敵な想い出を持っている私は、やっぱり「Happy!」な人なのかも知れません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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見届けて欲しかったね(/_;)

2018-03-18 09:59:20 | 同じ時代の船に乗る

昨年の3月22日に、「浅見光彦、未完小説「孤道」の刊行は!」と言う記事を書きました。

それから一年が経とうとしている今日、内田康夫さんが13日に敗血症のために亡くなっていることが分かりました。

病気のために掲載中の「孤道」を中断し、その解決編を公募すると言う「『孤道』未完プロジェクト」のその締め切りは4月末日です。

そのお知らせは再びのリンクですが→こちらです。

 

このプロジェクトにチャレンジなさっている方は、きっと内田康夫先生に、目を通してもらいたいとか、その結末の感想を聞きたいと思っていたと思います。

でもきっと、どこかで見守ってくれていると思います。

締め切りは間近。

頑張ってください。

私は、あまり間が空くと前の話を忘れそうと思って(最近は、そう。悲しい事に。)、ずっと後から続けて読む予定でいたのですが・・・・・・・。

(アガサの「カーテン」も相当後から読んだ私なので・・・・。)

 

でも・・・・・・。

孤道
内田 康夫
毎日新聞出版

 

お別れの会は行われずに、3月23日~4月23日、長野県軽井沢町の浅見光彦記念館に献花台が設けられるそうです。

内田康夫先生、今まで魅力的な浅見光彦にたくさん会わせてくださってありがとうございました。

 

 

内田康夫氏関連の、このブログ内の記事は

好きなものがある幸せ6【「浅見光彦シリーズ」が好きです】

↑ この記事に、私が今まで読んで気に入っている本をなにげにリンクしてあります。

 

唯一、読んだ本の感想は、2011年に入院中に買った本で(やっぱり病院の売店でも、彼の本を選んだ私^^)

「ユタが愛した探偵」」です。あまり良い事を書いてないのですが、私はこれを少し重いキャストで映像で見てみたいです。

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「ありがとう」と言う言葉は二度とこの瞬間は来ないと言う想いを噛みしめる為に・・

2017-12-03 21:04:59 | 同じ時代の船に乗る

また一つの時代が終わってしまいました。

坂崎さんの名前を聞くと、なんでだか連想ゲームのように彼の事を思い出していました。

あの人はどうしているんだろう・・・・と。

72歳は若すぎますよね。

その記事は→はしだのりひこさん死去 フォーク歌手、72歳 「帰って来たヨッパライ」「花嫁」などヒット

 

 

安らかにお眠りください。

そして、これをyoutubeにアップして下さりありがとうございました。

涙が溢れました。

 

 

京都フォークデイズ・ライブ 「はしだのりひこ・北山修」

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思い出を語っても良いですか。

2017-08-02 01:33:12 | 同じ時代の船に乗る

7月28日、ツイッターでケメこと佐藤公彦さんが6月24日に亡くなっていた事を知りました。

ショックでした・・・・・。

吉田拓郎氏の音楽が好きになった頃、世間でも空前のフォークブームが起きました。いろいろな方が出てきましたが、皆それぞれに個性豊かでひきつけられる音楽ばかりだったと思います。もちろん異色な方もたくさんいましたが。

私は拓郎氏以外にも古井戸とかも好きで、そしてこのケメさんも凄く好きだった一人なのです。

 

もちろん好きだったのは彼の歌と声でした。

だけどその頃は彼の事を、「美しい人」だとか「中性的な魅力」みたいな表現をする雑誌もあったように思うのですが、私も彼の着ているものの自由さには憧れのようなものを感じていました。だって彼は可愛いブラウスなんかをよく着ていたのですよね。もちろんいつもではなかったと思いますが、何かの写真では、赤い花柄のブラウスを着ていたと思うのです。

フォークブームは(ブームなどと書くと、ちょっと叱られてしまうかもしれませんが)、男性であっても髪を長く伸ばし、似合えばブラウスを着る、そんな自由を教えてくれたようにも思うのです。

 

私は結婚をし子供を持って数年、ずっと好きだった人や事などから離れていた時代がありました。あまり器用ではないのです。その数年は映画館でどんな映画が上映され、吉田拓郎氏がどんな新曲を歌っていたかも知りません。代わりに脳内には映画は「ドラえもん」音楽は童謡にすり替わって行ったのです。

だから好きでファンだった人がその後何をしているのかとかどうなって行ったのか、ある時まで知る由もなかったのです。

2005年に自分専用のパソコンを買った時に、数か月は検索ばっかりして遊んでいました。その時に好きだった人の動向を知る手段も少しずつ分かってきました。だけどその頃音楽活動を休止していた彼のことが分かったかどうかは覚えていません。

ある時テレビで彼が結婚していたことや、音楽活動から遠ざかっていることを知ったのでした。

なんだか不思議な映像でした。

何をどのように感じたのかは言わない事ですが、もう彼は普通の人として生きていくのだと思いました。

その時に歌手のケメとの、私の決別があったのだと思います。

 

それでもやっぱり好きだった方の訃報はショックでした。

その日はずっと彼の音楽の動画を探したり、ネットで彼の事を追ってしまいました。そこには私の知らなかった彼の歴史がありました。

2009年から2014年まで元気に音楽活動を再開していた時代もあったのです。

ずっと彼を応援し続けて、ずっと彼の音楽を追ってくることのできた方たちは幸せだったと思います。

 

そんな時代も知らなかった私ですが、それでも想い出を語らせてほしいと思うのです。

横浜と言う所は東京に準じるような都会なのかも知れません。その頃はまるで当たり前のように感じていたけれど、いろいろな事で恵まれていました。

頻繁にタダかもしくはタダ同然のようなお金で、その頃たくさん出てきたフォーク歌手の人たちの音楽に触れる機会があったのです。

誘ってくれる友達がいたので、私も良く出かけていました。

 

ある時、休憩にその会場をふらりと出てくると、その垣根の所にスタッフの方たちと一緒にケメが焼きそばを食べていました。そしてやはり常連のような女の子と普通に会話して頷いたりしていたのです。あまりにも普通の光景で、私的にも凄く普通に感じました。そして挨拶でもしようかとちょっと待っていたように思います。その距離1メートルの所で。

思い出のシーンはいつも断片的です。

挨拶したのかしなかったのか、または友達がしたのかは覚えてはいません。

 

それから数年がたち、教育実習で母校に戻っていた時、たまたま全国の学校を廻ると言うラジオの番組の収録がありました。その時の進行役がケメだったのです。

なんだかとってもラッキーに感じた楽しい想い出です。

 

だけどこの時も、本当はちょっと違う事も思ってしまいました・・・・・・・。

地味だけれどいい番組だと思いました。

でも透明な声と素敵な曲で、もっと大きな舞台で羽ばたき続けて欲しいと思ったのは、その時の本音です。

 

『あおい君と佐藤君』

いつも楽しみに聴いていました。

二人の掛け合いは最高でしたね。

ある時、その会話の中で彼がぽろぽろと泣いたのです。

そしてやっぱり記憶は断片だけを拾って覚えているものだから、いつも何かが足りないような書き方をしていて申し訳なく思います。

ラジオなので見えるわけもないのに、彼の透き通った涙が見えるように感じました。

「ああ、僕この話ね、泣けちゃうな・・・・」と、ケメは言いました。

まるでガラスのような心を持った人なんだなと、胸がキューンとなりました。

繊細ゆえにきっと彼には彼の闘い続けた人生がありましたね、きっと。

 

 

 

 

時は確かに残酷。

かわいらしかった彼だけが好きだった人には辛い変化かもしれません。

でも、私はこの動画(↓)をアップしてくださった方々に、本当に感謝したいと思います。

65歳と言う人生は短いと、私は思います。

でも楽しそうに語り歌う彼の姿に、私はホッとし思わず微笑んでしまったのでした。

 

 

 

さよなら、そしてありがとう。

そして今は安らかにお眠りください。

 

Keme VOL.1 午後のふれあい
ワーナーミュージック・ジャパン
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・・・・・・

ひとりからふたりへ
KAZEレーベル
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・・・・・・・

ベストアルバム〈2枚組〉
GENEON ENTERTAINMENT,INC(PLC)(M)
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闇を抜けて光の海へ

2017-07-25 15:09:56 | 同じ時代の船に乗る

この「同じ時代の船に乗る」のカテゴリーは、最初は同じ時代を生きている好きな人たちの事を書こうと思っていたのですが、いつの間にか、同じ時代を生きた好きな人が亡くなった時に思い出などを語るレクイエムのような場所になってしまいました。

 

平尾昌晃さんが7月21日に亡くなりました。

本当に彼はヒットメーカーで、彼が世に送り出した曲を知らない人はいないと思います。

「瀬戸の花嫁」「よこはまたそがれ」などは有名なところかもしれませんが、「銀河鉄道999」の主題歌などもそうで、私的には「必殺シリーズ」の音楽も外せないところです。

 

昨日の朝、私はある事が気になってネットで検索していました。

それは彼と某宗教団体の関係です。でももうそれは過去の事になっていました。だから詳しくは書く必要もない事だと思います。ただ私は、テレビでも紹介されていた彼の結核による療養生活が歌手としての未来を断念せざるを得なくて、新しい転機を迎えたのだと言うさわりを、かなり大昔に友人から借りたその団体の体験記から知ったのでした。

本当は声を出せなくなったから方向転換したなどと言う軽いものではなかった絶望の時代だったと思います。なぜなら昔は結核は死に至る病だったからです。

『平尾自身は、この療養期間が作曲家としての活動の原点であることを事あるごとに語っている。』

とありますから、私がその時代の事を知ったのが、たまたまその本だったと言う事なのだと思います。

 

歌手として生きていけるか否かと言う問題ではなく、その時代に向き合っていたのは、生きるか死ぬか。

そう言う時代を乗り越えて生き抜いた彼は、失った物以上のモノを得たのかもしれません。

 

結婚する前は、多くはありませんがコンサートやお芝居に行く機会がちょっとはあった私です。でも結婚した後は、行けるはずもありません。

でもある日、近所の人に「平尾昌晃コンサート」に誘われました。特別なファンではありませんでしたが、その日は土曜日だったのか、夫が小さな二人の子供の面倒を見てくれると言うので行く事にしました。

そう言う場所に行くのは久しぶりでしたから、凄くワクワクしました。

その時の平尾さんの熱心なファンの方は、青春時代がロカビリー全盛だった方々で、私よりちょっと(?)年上の方々だったのです。でも誘ってくれた人が

「平尾さんはサービス満点の舞台を作る人なので、楽しめるよ。」と教えてくれました。

 

たぶん相当楽しい時間だったと思います。残念な事に、そのコンサートのあれやこれやの記憶は、だいぶ前の事なのでほとんどないのです。

ただはっきり覚えていることは、途中でダンスタイムがあって、希望者は皆舞台上に上がって踊れたのです。両隣の若いおばさま方動こうともしません。その頃、もっと若いワタクシ……。本当の事を言うと、ババババと階段を駆け下りて、行きたかったなあ~~。

端っこに座ってさえいれば、、行動力のない人なんか放っておいて行っちゃったかも。だけど座っている人の膝をかき分けてまでは出ていけないでしょう。

きらきら光る舞台の上で平尾さんと楽しく踊る人たちを遠くの席から、羨ましく見ていたのです。

 

無駄な分別と言う花を頭の中にを育て、なおかつかったるいと言う鎖をお尻や太ももに取り付けつつある今の私とは違う過去の私。

後、もう少しの押しの強さがあれば良かったのにと言う所ですね。

遠い昔のささやかな想い出を語ってみました。

 

だけどやっぱり平尾昌晃さんには、たくさんの本当にたくさんの素敵な音楽をありがとうございますと言いたいです。

安らかにお眠りください。

 

ささきいさお/「銀河鉄道999」「青い地球」

 

冷静になって考えてみると、恐ろしい殺し屋さんたちのお話なんですが、この音楽に引きこまれて見続けていたように思いますよ。

↓ (長いです !!)

ー 追悼 平尾昌晃先生 ー 必殺!BGMメドレー いざ、出陣!!!

 

平尾昌晃 / 星は何でも知っている・ミヨちゃん の2曲です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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驚きと悲しみを感じながら

2017-07-07 01:18:37 | 同じ時代の船に乗る

 

私、あのひとの事

最初は好きじゃなかったんだ。

だってガサツな感じがしたんだもの。

遠慮なく、人の心に踏み込んでくる感じがしたんだもん。

 

私、あんまり

自分の心が隠せる人じゃなくってさ、

なんだかツンケンしちゃった。

 

だけど会うたびに

「花子ちゃん」って呼ぶんだよ。

私、もうおばさんなのに、

私より年上のその人は、

いつだって呼ぶんだ、

「花子ちゃん」って。

 

そんなつまらない事なのに

そんなことで・・・

本当にそんなことだったのか分からないけれど、

いつの間にか

その人の事が

好きになっていたんだ。

 

「あっ、こんにちは」なんて

自分から声なんかかけちゃって。

だって

「花子ちゃん」って呼んでもらいたかったんだもの。

「昨日千葉から来ていたの?」って言われると

「そうなの。」ってにっこりほほ笑んじゃったりしていたんだよ。

 

 

昨日、喫茶店にいる時に姉から電話がかかってきて・・・・・。

― あの人、亡くなったのよ。

― えっ、なんで !!?

なんでそんな突然に?

― 詳しい事は、まだ分からないの。具合が悪いって聞いてたけれど、

私も持病がちょっと悪化したのかナぐらいに思っていたので、

ちょっと暗い気持ちになっている。

 

横浜の実家に帰った時の、

ごく稀にしか会わなかった人。

会話した時間なんか合わせたって1時間未満だと思う。

それでももう会えないのかと思うと、

凄く悲しい。

もう

「花子ちゃん」と呼んでくれないんだ。

そう思うと、

凄く寂しい。

 

 

 

この広い世の中で溢れかえるほど人はいるけれど、

縁することが出来るのは、そのうちのわずか。

嫌いでいるより好きでいた方が良い。

その方がきっと幸せだ。

最近そんなことを考えていたんだ。

 

「花子ちゃん、そうだよ。

縁は大事なんだよ。」

とその人は、人生の先輩らしく、

私にそう伝えてくれたような気がしたんだよ。

 

 

 

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オレンジジュース。

2017-06-25 00:15:17 | 同じ時代の船に乗る

(またもノロノロと書いていたら日付が変わってしまいました。24日の気持ちで書いています。)

 

昨日、何気なくツイッターを眺めていたら、

「海老蔵さんのブログ・・・・、きっと、そうなんだ。」と言うツイートが目につきました。

あっ、と思い彼のブログに飛んでみると

「人生で一番泣いた日です。」とありました。

 

思わず、私、変な事ではありますが、夫にメールで知らせたい衝動に駆られました。

「いやいや、待て待て、このような事で仕事中の彼にメールなど送ってはいけないな。」と思いなおし実行には移さなかったのですが、ずっと彼女を見守ってきた人には、それぐらいの衝撃はあったのではないかと思います。

 

私は麻央さんがブログを開設した時に、この若い夫婦が信じる未来を一緒に信じてあげる事が出来ない自分が分かっていたので、彼女の読者には敢えてなりませんでした。だけど海老蔵と言う役者が好きなので、以前から彼のブログの読者ではあり、時々は読んでいたのでした。

加えて私はピグゲームもやっていて、アメブロに登録してるので裏のマイページで、読者に登録していなくても二人のブログの状況が分かるようになっていたのです。

それに私は麻央さんのブログは読んでいませんでしたが、夫殿が逐一

「麻央ちゃんは、また入院しちゃったね。」とか「退院したね。」とか「とうとう家に帰ってきちゃったね。」とその動向を教えてくれたものですから、なんだか見守って来たという気持ちになってしまったのだと思います。

 

「読んでいなかった。」と繰り返し書き込んだ後に言うのもなんですが、なんでだかほんの数日前に、たまたま心が動いて、そのアメブロのマイページの横の欄にある彼女のブログのページをクリックしたのです。

「オレンジジュース」

と言う記事でした。

本当に、そこから生きる喜びが伝わってくるようなそんな気がしました。

今ある命を大切に生きていると思いました。

 

その矢先です。そう。そのブログが更新されたのは20日だったのです。そして亡くなられたのは、その二日後・・・・・。

思わず、その前の数日前まで遡って読んでしまいました。ほんの数日前の16日には息子ちゃんが大歌舞伎に出る事を心配しながらも喜んでいるようにも見え、チケットはこちらと応援していました。

 

病気色には染まりたくないと言っていた麻央さん。

素敵な人でしたね。ブログから発せられた言葉で励まされ続けた人も多かったのではないでしょうか。

 

病と闘うと言うのは、日本人特有な考え方なのだと以前どこかで読んだような気がします。

でも彼女は、ずっと闘い続けた美しき女戦士だったなと私は思いました。

 

可哀想だと思われたくないというのも、彼女の言葉の中にあったように思います。

だけど若すぎて逝く人を想う時、私はやっぱり可哀想だと思ってしまうのでした。

残された若い夫も可哀想だ。母を失った子供たちも可哀想だ。やっぱりそう思ってしまうのでした。

 

でも海老蔵さんの

「子供達のチカラが希望」と言う記事を読んでジーンとしました。

役者としての海老蔵を、今まで通り応援して行こう、好きでいようとそう思ったのでした。

 

麻央さんの最後になってしまった記事の「オレンジジュース」の最後の言葉・・・

「皆様にも、今日 笑顔になれることが

ありますように。」

 

やはり彼女に、可哀想と言う言葉は似つかわしくないのかもしれません。

 

ありがとう、素敵な女戦士。

そして、今は安らかにお眠りください。

ご冥福をお祈りいたします。

 

 

 

 

 

 

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ほんとうに生涯現役だったね。

2017-06-16 13:28:57 | 同じ時代の船に乗る

13日に肺腺癌で亡くなった野際陽子さん。

81歳。

 

81歳と言えば、普通で言ったら十分にお婆さんだと思う。

だけどそんな風になんかまったく思えない。

綺麗でカッコイイ。

 

素敵な人だったな。

憧れるな。

 

あのドラマこのドラマ、今でもたくさんお仕事をしていたのに。

彼女じゃなきゃダメな役ばかりだったのに。

 

「必殺仕事人」の渡辺さんの小うるさいお姑さんが居なくなってしまった。

「9係」の静香おばさんも居なくなっちゃった。

寂しいよ、さみしい・・・・・。

 

来週は「やすらぎの郷」では野際さんの役の人のエピソードが中心なんですって。

見ますね、私。

 

撮影の時にはチューブを付けていたとか。

最後まで現役。

 

素晴らしい人生の終わりだったと思います。私はそう思います。

 

残された者たちの心の動揺はまだまだ収まりません。

だけど最後まで現役で素敵だった野際さん、どうぞ安らかにお眠りください。

 

 

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さよなら係長・・・・・

2017-03-18 14:32:59 | 同じ時代の船に乗る

本当の事を言うと、あまり「さよなら」とは言いたくない。

寂しくてー。

 

※       ※       ※

ある日、「相棒」の後に「9係」の予告が入りました。

「やっぱり、つぎは『9係』。楽しみだなあ♪」と私は言いました。

実はワタクシ、「9係」はそんなには真剣には見ていなかったりするのですが、何気に登場人物がそれぞれの生活を抱えてキャラ立ちしているこのドラマのファンなのです。ちょっと昔のアメリカの刑事ドラマみたいに感じるのですよね。と言いましても、近頃はホームドラマ化しているようなしていないような・・・・・。

でも時々、内緒でしたが「相棒」より面白いなと思う時もあったりして・・・・・ ^^:

ああ、どっかに書いたことがあるから内緒ってわけではなかったですね。

 

だけど私が「楽しみだなあ♪」と言った時に、夫が

「大丈夫なのかなあ。」と言ったのです。

「大丈夫って何が?」

「だって渡瀬さんは病気だろ。継続できるんだろうか。」

役者様の私生活には疎いワタクシは、

「やるって決まったって事は、大丈夫だったって事じゃないの。逆に良かったって事じゃないの。」と呑気に答えたのです。願望の想いも込めて。

 

だけど9係係長、加納倫太郎を演じていた渡瀬さんは14日の日に多臓器不全で亡くなってしまいました。

9係1話のあらすじを読むと、倫太郎の出番はたくさんあります。すでに渡瀬さん抜きで撮影は継続されていたようです。そして渡瀬さんはその「9係」のセリフも覚え意欲も満々だったようです。

だけど・・・・・

いなくなってしまいました。

HPも「9係」のツイッターアカウントも沈黙したままでした。

 

沈黙の中から動揺と混乱、そして悲しみが伝わって来るようでした。

 

HPに意欲溢れる渡瀬さんのコメントが載っています。→ここです。

 

ひとりの方が亡くなったのに、「あのドラマはどうなるのだろう。」と思う―、さながら不謹慎のようですが、私はそうではないと思います。

その人を思うと、その人の出演しているドラマを思う。

役者であった彼の一番の偲び方だと思うのです。

 

ツイッターでドラマブロガー様が、こんなツイートを流してくださいました。

 

3月16日  野辺へ出て参りますと春先のことで 空にはひばりがピーチクパーチク囀っていようか 下にはレンゲタンポポの花盛り 陽炎がこう燃え立ちまして 遠山にはパーっとかすみの帯をひいたよう 麦が青々とのびて菜種の花が彩っていようかという本陽気 喧しゅうゆうてやって参ります その道中の陽気なこと

 

お鼻の先がツーンと痛く感じました。彼の声が聞こえてくるようです。

朝ドラのファンも多かった「ちりとてちん」。

私は渡瀬さんと聞くと「9係」と思ってしまうのですが、この「ちりとてちん」の草若師匠を思い出す方も多かったと思います。

 

「泣ける」と言ったら、そのくうさんが
「でもちりとてのおかげで師匠は楽しく旅立ったのかなって思える」とお返事してくださいました。

本当だなと思いました。

 

・・・・・・ その道中の陽気なこと

 

 

安らかにお眠りください。

(でもやっぱり、ちょっと泣ける。)

 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

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