森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

ちゃんと、捨てましょう。2013〈その1〉

2013-04-29 16:10:39 | 梢は歌う(日記)
 
ちゃんと、捨てましょう。

夫殿と喧嘩になると、彼の攻撃パターンの一つに「お前は、本当にお前の父親に似ているな。」というのがありました。これは自慢になってしまいますが、マイ父は実際の年齢より常に若く見え、...
 

 

毎年、同じ事をしている、この季節。そうです。ゴールデンウィークは毎年お片づけ&掃除です。

今年は夫殿が張り切ってるので、なんだか私、やる気が起きなくて・・・・

 

だってさあ、ベランダが彼に占拠されちゃったんだよ。

いや正確に言うと、彼のやりたかった水生植物と生物の水槽に。

私の花達が。・゜・(ノД`)・゜・。

 

もうブログを書いている場合じゃない・・・・なんちゃって。

自分の場所を確保するために頑張るぞー。

 

※     ※      ※

 

昨年の記事を読むと、他の人には分からないことだと思いますが、最初の数行は私にはかなり切ない内容です。

言葉というものはアルバムのように、時間を過去に引き戻すものなのかもしれません。

 

―今年の「ちゃんと、捨てましょう。」1月―

 

  長い間使っていたこのテーブルは食卓兼私のパソコン机でもあり仕事のための机。気に入って使ってはいたけれど、机の上がペタペタするようになって、椅子が壊れた事をきっかけに買い直したのです。

このテーブルは似たようなやつで買いやすいものもあるけれど、買った時はこの大きさの割りにはちょっとだけ高くて、見た感じも美しかったのです。

でも買ったばかりの頃、この上で小学3年生か4年生だったラッタくんが私へのメモを書き、その後がしっかり残ってしまったのでした。

「ああ」と思う反面、胸がきゅーんとなりました。

学校から帰ってきても私はいなかったのです。

彼はゲームを始めて・・・そしてしばらくしてからメモを書いたのです。

「ママへ。ちょっとコンビニに行ってきます。」

私が帰ってきた時に自分がいなかったら心配すると思ったからです。それなのに、そのメモを私が読むこともなく、彼はまた一人の家に帰ってきたのです。テーブルに残っていた尖った鉛筆でついてしまった跡がなければ気が付かなかった事なのです。

私はその文字の跡をさすりながら、いつかきっと懐かしく想い出すに違いないと思いました。

今では共働きの家など当たり前のことですが、そんな事が凄く切なく感じた昔の出来事でした。

 

捨てる前にその傷を探してみたけれど、流石に見つかりません。

だって、このテーブル・・・

 普通の大きさで載せようと思ったけれど、あまりに酷いので止めました。はっきり言いますが、うちの子供がつけたものはその後は皆無です。木の風合いを大事にしたいのでカバーをある時まで掛けずに使っていたのです。

コンパス・・・

ああ、恐ろしい。

でもこの傷も滅茶苦茶仕事が忙しかった時代の勲章のようなものって言えるのかも。

 

※      ※       ※

 

 

新しいテーブルはルート君が家に入れてくれたお金で買いました♪


 


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若葉の頃

2013-04-26 11:19:24 | お散歩&写真日記

なんだか春先からずっと風が吹き、天候は相変わらず不安定です。今日も出掛けに夫殿が、夕方ゲリラ豪雨が来るかもしれないから外出には気をつけるようにと申しておりました。当たらないことを祈りますが、気をつけるに越したことはありません。

毎日飽きもせずに吹く風は、今の日本の世相に自然が呼応してるのでしょうか。

 

テレビのニュースを見ていると、時々イライラしませんか。

時々じゃないかも・・・

人間の進歩は科学ばかりではなく、その思考や精神、哲学の学問にもあるはず。

なのに・・・。

 

風は毎日止まないが、それでも季節は巡ってきて、桜が花びらを散らすと新緑の季節がやって来るのでした。

美しい、大好きな季節です。

疲れたら、自然からの贈り物である緑を見ましょう。

そして癒され、また元気をもらいましょう。

 

 

そして花からも・・・。

 

 

次の束の間の主役は、この花でしょうか。↓

 


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「水の手紙」

2013-04-24 16:35:33 | ユーモレスクを聴きながら(book)

 

水の手紙: 群読のために
井上 ひさし,萩尾 望都
平凡社

先日、「木の上の軍隊」を観にコクーンに訪れた時、そのシナリオが載っている「すばる」と共に買い求めてきました。

子供の頃から大大大好きなおモー様と井上先生のコラボの本が、まさか時を経て私の目の前に登場するなんて思ってもみなかったことです。

もっちろん、買うでしょう。

― 私たちは水です。

おモー様の絵は本当に美しくそして分かり易い。

地球と私達との水の関係が興味深く、そしてすんなり頭に入ってくるのでした。

 

このお話、子供たちに読み聞かせたら良いんじゃないかなと思ったら、萩尾望都様の後書きにも
「この物語はぜひ、子供たちに読んでほしい。」と全く同じ事が書いてあって嬉しく思ったのでした。

 ちょっと試しに、家にきていた小学5年生の子供に冒頭の部分を読み聞かせました。

「―からだの60%は水。
血液の80%が水。
脳の80%が水。ー」

少年なので、そんなところから食らいついてきました。

そこで私はろくでもないことを言う・・・

「頭をフルとちゃっぽんちゃぽんと音がするんじゃないの。」

「しないよ。そっちこそお腹絞ると水が出てくるんじゃないの。」

って、反論できないぞ、そこ・・(/_;)

 

だけど
「川がなくなった。海がなくなった。水を遠い所に汲みに行く。」

みんな子供の知りたいことばかりだったのでした。

夏の読書感想文、この本がいいんじゃないかなって私は思いました。

ちっとも難しくはないけれど、お母さんが最初に一緒に読み聞かせたらもっと分かりやすくなると思うのです。

 

そう言えばこの本は、群読のためのシナリオです。井上先生の追悼で公演されて、ゲストに藤原竜也くんも呼ばれたのですよね。どんな感じだったのかなと、ネットを徘徊してみました。藤原くんの井上先生への感謝の手紙にも心打たれたのですが、この群読劇を観た人が、子どもとくれば良かったと書いてあったことが印象的でした。

 

「木の上の軍隊」もそうですが、この「水の手紙」も子供たち、または青年たちに観て貰いたい作品だと思います。

 


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ルーベンス「栄光のアントワープ工房と原点のイタリア」展

2013-04-23 13:03:29 | お出掛け日記

ああ。しまった。

この絵画展、どんなに良くてもオススメ出来ません。なぜなら21日に終了していました。

まあ、私のお出かけ日記ということでお許し下さい。

先日、「木の上の軍隊」を観るためにbunkamuraシアターコクーンに行ったので、一石二鳥狙いの私はミュージアムの方も訪れたのでした。

 

ルーベンスと聞くと、「フランダースの犬」を思い出す方も多いのではないでしょうか。少年ネロが死ぬ前にもう一度観たいと最後の力を振り絞って訪れた教会の天井絵・・・だったかな・・・。

またまた横道にそれてしまうのですが、私、「フランダースの犬」って子供の時に、母が本を買ってくれて読んだのですが、お話が好きじゃないんです。「マッチ売りの少女」もそうですが、現実の厳しい世界から解き放された時、ちょっと太った天使ちゃんたちが現れて彼らを導きアノヨーってところで幸せになるっていうのが、子供心にも好みではなかったのですね。

で、アニメもほとんど見ていなかったのですが、どのようなラストなのかと最終回だけ見たように思います。泣き虫の私のことですから、自分の予想通り泣きました。才能が満ち溢れていたのに、なんの花も咲かすこともなく散っていく―「フランダースの犬」はやっぱり厳しいお話です。

今思うとそして視点をちょっと遠目にして眺めてみると、あまたの多くの人達が、実はこのネロと50歩100歩の人生なんじゃないかなとも思うのです。

ただ読んだ本の中ではどうだったかは忘れましたが、アニメの中では、ネロは最後までルーベンスという、絵を描くと言う自分ワールドの中の大きな力を見続けていたのですよね、その最後の時まで。そのブレなかった人生が何故か救いのような気がしてしまうのでした。

 

ルーベンスは1577年~1640年の人で17世紀バロック時代にヨーロッパにその名をとどろかせた画家でした。

じゃあ、このバロックと言うのはと言うとわけがわからなくなると思うので次のところを参照して下さい→バロック

それからルーベンスの説明もドウゾ→ルーベンス

私的には、「工房」という発想が斬新でなおかつ驚きだったのですが、その事については上記の「ルーベンス」の説明の「工房について」を読んでいただきたいと思います、

「作品」と言うと、一人の芸術家の丸抱えのように思っていましたが、ルーベンスの「アントワープ工房」では違いました。ルーベンスは親方画家で優秀な弟子を何人も取っていました。

下書きと要の部分と仕上げをルーベンス本人が描き、この工房は多作をしたのです。時には静物画のまたは風景画のスペシャリストに外部発注などもしたようです。

世界の歴史にその名を刻んだのはたった一人の男の名前でしたが、その名の向こう側には多くの名もない人たちが大勢いたのだとしみじみもしたのでした。

 

 ←音声ガイドチラシ

以下はチラシから

   

これらのちゃんとしたのも上記リンク先にあると思います。

↓以下は絵葉書

 

 

 


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「木の上の軍隊」を観てきました

2013-04-20 11:02:13 | 観劇・コンサート日記

4月10日、渋谷のシアターコクーンにて「木の上の軍隊」を観てきました。〈最後の部分は加筆しました。〉

近頃、プチ予知的な事が結構あって、このお芝居の上演もまさにそんな感じの出来事だったのでした。この事は「『木の上の軍隊』は来年上演決定」という記事の中にも書いたことですが、「日の浦姫物語」を観た後、この「木の上の軍隊」という作品が幻で終ってしまったことが残念でならず、誰か残っているプロットなどを引き継いで書いてくれないかしらと思った翌日辺りに上演決定のニュースを知ったのです。

プチ予知などと書きましたが、きっと誰もがこの作品が幻になってしまったことを残念に思っていたのだと思います。

でもいざ上演が決まったとなると、どんなお話になるんだろうかとワクワクするのと同時に微かな心配のようなものも感じたりもしたのです。この部分は余計なお世話の無用な心配ってものですが、アレコレ思うということは、お芝居を愛する者のそこも楽しみな部分なのかと思います。

私が感じた微かな心配というのは、当初のキャストさんと違っていた点から来たのだと思います。

毎度おなじみの舞台の人から、どちらかと言うとテレビのドラマの中で見知っている人。

私にとっては、片平なぎささん=「赤い霊柩車」の人。サスペンスの女王がいかなるお芝居を見せてくれるというのだろうか・・・

が、彼女の高い澄んだ声はこのお芝居にぴったりでした。そしてその声は既に若くない。彼女は若さを失ったのではなく歳を重ねてあの落ち着いた澄んだ太い声を手に入れたのだと思いました。

「暇か?」と言わない山西さん、期待していました。期待通り。

藤原竜也君、やっぱり彼は演技が上手い。

私は泣きました。

新兵の「純」なるものに。

上官の悲しいほどの醜さに。

物語に。

 

そしてまたパンフレットを読んでまた泣きました。
井上先生が残していたものは、膨大な沖縄の資料と一枚のメモでした。プロットはなかったみたいです。だけど蓬莱竜太さんがみんなの気持を受けてこの作品を完成させたのですね。

今回のパンフレットは出来たらお買い求めになることをおすすめします。読むべきことがたくさん在るように感じました。

井上先生のこともそうですが、私の場合は、今の自分に響く言葉がありました。
蓬莱さんの原稿に、チャップリンの映画の中のセリフの引用がありました。

「人が逃れられないのは死だけじゃない。生きることからも逃れられない。人生から逃れられない。ライフ!ライフ!ライフ!」

お芝居がとっても良かったので、劇場で「すばる」を買い求めてきました。

全て満足。

唯一難を言うと、・・・

―ぶっちゃけ、こまつ座ってアンコール回数少ないよね。おじさまとかおばさまとか〈私より上の〉直ぐに席を立つんだもの。
後1回ぐらいはやって欲しいなあ―・・・って、思った^^

 

以下はちょっぴりのネタバレ感想です。と言ってもあらすじなどを書いてはいません。全国を回るお芝居ですが、見る機会が当分は無理だなと思われる方は下の「すばる」のシナリオはいかがですか。

 

すばる 2013年 05月号 [雑誌]
集英社
集英社

このお芝居の骨格をなしていたのは、やはり新兵の沖縄方言でいうセリフとラストに繰り返されて言うセリフだと思うのです。

沖縄方言ってイイですよね。時々真似したくなるんだけれど、うまくいきません。

「なんでそういうことをするのかねぇっと。・・・・・・・」
「・・・・」の部分にはその後の台詞が続くわけですが、純粋な青年の心が伝わってくるのです。

どうして命をかけて戦えるのか。愛する人のためなのか。

純粋な青年には、命令されたから動くという人がいるという事がわからないのだと思います。

正義や愛や、守るべき者たちを守るためという大義のない人間。

お芝居では描かれていない日本兵に拠る沖縄の人の大量虐殺は、生きる残るために何度も沸き起こってきた上官の新兵の殺意として描かれていたのかもしれません。

「守られているものに怯え、怯えながらすがり、すがりながら憎み、憎みながら信じる」

このセリフを聞いて、今の自分達に当てはめない人はかえって少ないと思いました。

 

信じるしかないのですよね。

だけど信じるに値する「国」で有って欲しいと切に切に願います。

 

私がそれ以外で「おおお」と思い泣けたシーン。

青年が自分の気持を吐露するシーンで、彼は叫びます。その叫びは時折木から聞こえてきた奇妙な音と一緒だった・・・というのは、私が感じただけみたいです。シナリオを読んでもそういうシーンにはなっていませんでした。でも彼が最後に高笑いというか叫んだのは木の出す音の高さと一緒だったような気がしました。偶然なのか、役者の感なのか演出なのか、凄い効果がありました。

木はただ見続けているだけ。

感情もなく淡々としています。

でも人間どもが吐き出す矛盾の叫びを、木は知っていたかのようでした。

 

感想を書くのならば、やはり作家様がココゾと思った部分をスルーしては行けないような気がします。

二人が木から降りた後の女のセリフ
「しかし、二人はいまだにこの木の上にいる。そこから占領されてゆく世界を眺めているだけでどこにも行けない。」

この後も心に残る台詞が続くのですが、戦闘機や爆音の音やプロペラ機の風の演出が、「今」という時代を不安にもさせ、そして切なく余韻を残します。

まるで新兵が上官が自分たちであるかのように・・・

 

 

下の本も買って来ました。後日感想を載せると思います。

水の手紙: 群読のために
井上 ひさし,萩尾 望都
平凡社
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あの時ね

2013-04-18 23:31:00 | 詩、小説

あの時ね、約束したよね

いつだって一緒だよって

 

あの時に、共に見た海は

穏やかな春の海だった

 

空の青さも

風の音も

変わらないのに

私はひとり

 

この悲しみを

忘れたくない

この悲しみを

忘れはしない

 

あの時ね、約束したよね

いつだって

強く生き抜くと


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相棒シーズン1#5「目撃者」

2013-04-17 16:08:59 | ドラマ(相棒)

シーズン1をテレビで夜に見ていた頃は、ブログをやっていなかったのでもちろん感想はないのですが、この頃、そんなに「相棒」が好きってほどではなかったので、リアルタイムで見ていたかも記憶が無いのです。このお話、多分前も再放送で見ました。

そして凄くオモシロイと思ったのでした。
今日、4月17日も再放送でやっていたので感想を書いてみたいと思います。

冒頭、官房長のお孫さんの軽犯罪から死体が見つかるくだりから上手く出来ていますよね。この時のお孫さんの話し方が「千と千尋の神隠し」に出てきそうな話し方で妙な可笑しさがあったのでした。

と、この先に出てくる手塚少年の話し方が、超棒読み。だけどまたそれがこの優秀でありながら周りから浮いてしまっている少年の摩訶不思議さにピッタリだったのです。

今は芸達者な子役が多い中、なぜこの子を使ったのと思いながら次第に納得してしまいました。

この少年、前に再放送で見た時は分かるはずもない事ですが、今、なんとなく誰かに似ているなと思ったら、この手塚少年は染谷将太君だったのですね。

 

お話の感想ですが、10歳の手塚少年はほんとうに怖い。
自分が万が一捕まっても刑事罰で裁かれることがないことすら熟知していたのでした。

だけれどそんな少年を薫は平成の切り裂きジャック朝倉に会わせ、今なら引き返す事ができると諭すのでした。
そのラストは、慕われていた女教師が彼を引き取って田舎に行って暮らすという事でまとまるのですが、なんか短いそのラストは大きな又別の物語の幕開けのようなそんなイメージがしてしまいました。

女教師は
「ゆっくり考えていきたい。」と言いますが、ある意味爆弾を引き取ったようなもの。そしてその爆弾は女教師を心の底から、例えば彼女のためなら殺人も厭わない程慕っているのです。この先ドラマがないわけはありません。

「相棒」がどっしりした底辺を感じさせるのは、単発ドラマで終わらせないで前の話のゲストがまた出てきたり、お話をリンクさせたりしてきたこともあると思うのです。

 

ちょっとそう思うと、この手塚少年は超天才の雰囲気なのですから、この辺で二回目の登場があっても良いような気もしたのですがいかがでしょうか。もちろん悪か正義か、それもライターさんの味付け次第というところだと思います。

 

相棒-01HP→ここ

染谷将太君については→ここ


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今年の桜を・・

2013-04-16 11:22:27 | 梢は歌う(日記)

父は病気―。

週末、父の顔を見に父の家を訪ねました。

父の家と言うのは、すなわち私の実家です。そして二世帯住宅でもあるその家は姉の家でもあります。

姉が心を砕き心をこめて、あれやこれやと面倒を見てくれているので、私は事務的なことや看護のことを考えずに父と向き合える幸せな娘だと言えると思います。

それでも姉妹たちには、それなりの役割分担があると思うのですよね。多分私の役割は「息子だったら」という部分を担っていると思うのです。この部分は男っぽいということとはまるで違う部分でもあり、ほかの姉妹では出来ない役割だと思っています。

でも実際には男ではないので、逆に「息子だったら」では出来ないだろうと思う会話を重ねることが出来るのでした。

頬が痛くなるほどお喋りをして帰って来ました。

後で姉から父が
「ほんとうに楽しかったなあ。」と言っていたという言葉を聞いて、嬉しくも思いました。

 

私が物を大切にし過ぎると言う傾向は、この父の遺伝子によるものだと思う時がありますが、父は自分の病気の事を知って、自分の部屋にぎゅうぎゅう詰まっていた物たちとお別れしました。いわゆる生前整理です。もちろんあたり前のことですが全部ではありません。それでも部屋がスッキリしました。

それから父はお墓も買いました。そのお墓には、この先名前の違う私達が自由に入れるように家の名前は入っていません。

父はあちらこちらでリーダーのような事をしていましたが、それも一つ一つ終わらせているようです。

 

その中の何かの主催の花見の会に出かけて行き、父は挨拶をしたそうです。

「今年の桜を見ることが出来ても来年の桜を見ることは出来ないと思います。だけど皆さんは・・・」

もちろんこんな挨拶をされたら、涙を誘わないわけがありません。だけど父の後に挨拶をした人が、父に
「来年の桜だって見られるよー、きっと。」と言って、みんなが拍手をしてまた涙を誘ったらしいのです。

来年の桜を見ることが出来るか否かは、誰にも分からないことだと思います。父だけのことだけではなく、そこで拍手をした、もしかしたら他人ごとのように感じていた人たちだって、実は同じ事なのではないでしょうか。言いたくないことですが、この私もです。〈いやいや、この部分は怖いので、意地でも私は生きると書いておきます。〉

だけど大切な事は、今年の桜は見たのだと言うことなのだと思いました。

―今年の桜は、私は見た。私は生きているのだ。今を。

 

  町内会館の壁一面に飾られていた父が描いたポスター。もちろん描いたのは昨年。

 

※      ※

ちょっと私の事を。まあメモ的日記です。
読みなおしてみたら一つ前の記事にも「異常なほどの疲れ」って書いてありました。

どうもね、調子が悪いみたいなんです、私←ノンキ。

先々週の6日の土曜日は定期健診。「だるい」と言う事も伝えましたが、血液検査もしたので数字が全く悪くないことを知りました。それはそれで良かったのですが、なんとなく疲れは復活しないまま、バタバタと出かけたりいろいろなことをしていました。そしたらヤッてしまいましたよ。

膀胱炎というやつ。

この病気も私の持病リストに入っていたらしいのです。すっかり鳴りを潜めていたので忘れていました。急いで病院に行きましたが、3時間15分も掛って私はふらふらになってしまいました。

折しも土曜日、妹が私の前で美味しそうに赤ワインを飲んでいました。

私は今はストップが掛かっているので飲みませんが、本当はワインは大好き。

妹が「美味しいぃ」なんて言ってるので、心の中で思ってやりました。

「あなたの飲んでるワインは、昨日の私の☓☓っ☓と同じ色だわ。」って。

と「思ってやった」と言っても、思っただけですから針の先ほどもチクチクもしないと言うオバサン道からは外れた行為。

と言っても、このオバサン道だけは極めたくない道です。

昨日の月曜日は、またまた疲れが抜けず。どちらかと言うと心も疲れているのだと思います。

それで本当に何もしなかった私。
あまりにも何も出来ないので、これって噂の中高年鬱の走りかなと不安に感じるほどでした。

で、私の得意技で乗り切ることにしました。

「まっ、いいか。そういう日もある。」という技。

 

これって、上に書いた事と下に書いた事とは結構な矛盾があると思います。

でも人は水分&矛盾で成り立っているのだ。

頑張りたいときには頑張って、頑張れない時には頑張らない。

―それでイイのだ!

おっと、これはピグ友さんの座右の銘でした。

 

というわけで、今週はの~んびり暮らします。


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ST 警視庁科学特捜班

2013-04-13 01:11:02 | テレビ・ラジオ

※ 前回の記事で「また明日」と書いたのに、すっかりこんこんとまたも間が空いてしまいました。続きは大阪のおばちゃんとアメのお話の予定でしたが、それはいつでも書けることなのでちょっとドラマの感想などを先にと思います。

その10日にやったドラマの感想を今頃書きだしたのは、理由があるんです。

何かと言ったら、それは異常な程の疲れによるものだったのですが、なんたって10日の日は、図らずも私にとっては藤原竜也DAYだったのです。昼間はコクーンに行って「木の上の軍隊」を観てきました。感想はそのうち書くと思います。だけど一言だけ書かせていただくと、このお芝居、お芝居自体が素晴らしかったのです。

テーマは重くメッセージ性も大きかったと思います。〈あっ、一言じゃなくなってしまった^^〉
でもまた間が空きそうなので、さらにもう一言だけ言っちゃうと、演技が、彼、またも上手くなっていたって私は感じてしまったのでした。で、泣きました、私。全国を回るんですよね。皆さま、お楽しみに~。

 

というわけで感想ですが、かなり薄い感想です。

ひきこもりの元科捜研の優秀な分析官赤木に藤原竜也、エリートでありながら経験が浅く自信がないから〈?〉メモ魔になっている百合根に岡田将生。なんだか面白い設定です。

HPの書き方や宣伝から、この二人の相棒的お話かと思ってしまったのでした。

でも、これ俳優の格の序列で藤原くんがトップに来ているだけで、なんだか主に志田未来さんのドラマみたいで、おばちゃまはちょっと最初の方は不満だったよ。おばちゃまって、私のことですが。

しかも「なんじゃ、こりゃ。原作は漫画なのかな。」というノリ。

だけどこれは原作は漫画ではなかったみたいです。

推理部分も実はそんなにはつまらなくなかったです。むしろ後半に行くほど面白くなって来ました。

まあ、私的には後半でようやく彼が活躍し始めたから、そう感じたのかもしれませんね。

キモキャラのガッキーくんがあんな形で活躍するとは。

推理とか犯人は誰かという部分が面白い割には、漫画的と感じたのはSTのメンバーのキャラの凄まじさに目が行ってしまったからだと思います。

まるで連続ドラマの初回みたいな感じでした。

「これ普通に連続ドラマとしてやって欲しいな。」と私が言うと、夫に
「それは無理だろ。この豪華メンバーでは。」と言われました。

確かに・・・。

じゃあ、また、スペシャルで「2」を作って貰いたいと思います。

だけどたとえ万が一レギュラー化があったとしても、水曜日の9時にぶつけるのは止めていただきたい。申し訳ないけれど、「相棒」には勝てないもの。

だけど意外な共通点があるなと思いました。

このドラマをマンガチックにさせたのは、それぞれのキャラの凄まじさだと思うのですが、もう一点は警察の描かれ方だと思うのです。優秀な者が賭けをしたりお願いをしたりして捜査をさせて頂くなんてバカらしいじゃないですか。それに保険金の問題で、警察が真実を沈黙で隠すなんてあり得ないことです。ましてや、真実の追求をした者達が糾弾されるなんて。

右京さんだったらあり得ないなあと思ったのですが、そこで気がついたのです。

―ああ、そうか。だから、彼も特命係にいるのか・・・・って。

 

あっ、そうそう。もし「2」があるのなら、その時は、もう少し楽しいひきこもりライフを描いて欲しいと思います。

コメント (2)
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4月7日に思ったこと

2013-04-08 01:06:47 | 梢は歌う(日記)

今日から早く寝ようとか思ったので、後15分でブログを書こうと思います。あまりに短い時間なのでテーマにそっては書けないと思うので、思ったことのメモです。

 

でもまずはお知らせです。先日お知らせした「果樹園のティータイム」、更新しました。良かったらお越しください。そちらのブログは少し育てて行きたいと思っているので、暫くの間というかかなりの期間だと思うのですが、更新をお知らせさせていただく予定です。→「三枚の」

今日も〈既に昨日〉天気が悪いと予報が出ていたので、昨日〈既に一昨日〉のうちに買い物を済ませていたので、今日は本当に家でのんびりしていました。

ほとんど何もせずにパソコン三昧・・というかピグのゲーム三昧だったかもしれません。〈ごめんね、goo様〉

こんな日は4月では最後だと思うので、まあいいかという気分です。明日から頑張ります←ってこの言葉ほど意味のない言葉はないかも。だっていつも明日はあるのであって、明日からやるというのは永久にやらないということと同意語だと私は思っているのです。でもまあ、今それを言ってしまっては始まらないわけで、まあとにかく頑張るのだよ、私。

それから目についたブログをウエーブ。

コメントを残さないのはいつものことなので、いわゆる読み逃げで申し訳ないのですが、やっぱりみんなの桜への想いは大きいなと感じたのでした。

で、最後は自分のブログの中の桜を追いかけて過去の記事を読んでみました。「やはり」という言葉の連続ですが、ここでもやはり自分のブログの一番の読者は自分だなと再確認したのです。ブログに限らず記録に残すということは大切なことだと思います。

桜の花の写真は毎年代わり映えがしないようにも思うのですが、それを撮っている自分の変化を思い感じることが出来るのです。特に2011年の桜並木は美しくても何故か悲しかったりもしたのです。でもその前後の記事には、賑やかな我が家のざわめきや社会で起きていることへの感想が私なりに記録されていたのでした。

 

やはり・・・って、またやはりといってしまいましたが、私にとっては書くことは大切な生活のポイントなのだと思ったのでした。

 

でもピグの世界も侮れないのです。

ああ、15分は過ぎちゃった。でももうちょっとだけ。

今日はそのピグのお友達との集会。

ちょっとそれとは関係がないのですが、私は常々「褒めて伸ばす」と言う言葉に違和感を感じていました。この内容はメモでは無理なので、いつかテーマにして行きたいところですが、簡単に言うと、その違和感を払拭する言葉に先日ツイッターで出会ったのです。要するに「認めて伸ばす」。この二つの言葉は似ているようだけれど若干違います。

これは大人のお付き合いにも通用する大事なポイントだと思っているので、いつかちゃんと記事に書きますね。

だけど今日、その「褒めて伸ばす」がドンピシャっと当てはまるお話を、その集会で聞きました。

意外と何でもないお話です。私が「凄いね」と言った意味が他の人には分からなかったかもしれません。

関西のおばちゃんとアメのお話。

だけどもう1時になってしまったので、それは次回ということにします。

 

ちなみにメモのつもりで書き始めたので、本当にメモですが「純と愛」のドラマの感想を書きたいと思っているのです。いまさらなんでと思うのだけれど、ちょっと、あれ、自分の中で整理してみたいのです。

「八重の桜」はイケメンパラダイス。あのドラマは女性ホルモンにもきっと良くて、日本の女性たちを美しくすること間違いないですよ。と一言だけ書くと確のごとく不謹慎な発言に・・・。

 

というわけで、おやすみなさい。また明日。

 


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