森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

優雅に生きるってなんだろう

2008-05-30 01:49:27 | ’08/12/7までの未整理日記

チミに足りないものカード
kiriyの足りないものカード
(C)チミに足りないもの (C)フリーゲームふりーむ (C)オンラインゲームまとめ

 

かなり以前だけど、こんなゲームをやってみました。出てきた結果にちょっと吃驚。どうして、私の事そんなにわかってくれちゃうわけ?

 

要所要所でこんなカードを切ってみたいものです。いや、日々毎日かな。気持ちの余裕、時間の余裕、お金の余裕。そして現状に耐えうる忍耐力を持つ。かなりの「あたし」が出来上がりそうです。

 

ところで、この記事は朝の「バタバタとバタッの狭間の日々」の続きです、一応。

今朝からの雨は思ったより長引いて、夕方近くまで降り続いてしまいましたね。

今日の雨を楽しむ事ができましたか?

そんな風に書くと、とっても余裕があるみたいですよね。そこがブログの世界のまやかしですよ。同じ行動でも書き方一つで変わってしまいます。

雨が止まないかとギリギリまで待ちましたが、止みそうもないので買い物に出かけました。斜めに降る細い雨は、雨量はそうでも無くても、体をかなり濡らします。その帰り道、車を避けて端に寄ったら、はみ出ていた生垣に傘を取られてしまいました。パッと引っ張ったら肩がぐっしょり濡れてしまいました。

「雨の日なんか楽しめるか、濡れたぞ、ボケ~★」と書いてしまっては終了。

「この日は部屋では半袖、買い物に行くのに長袖、帰ってきてからまた着替えて、大河ドラマの篤姫のようにお着替えタイムがいっぱいでした。」と書いたらかなり印象が違うでしょう。

 

でも、私だからこうかな。

 

シャリシャリ雨の降る日は寂しいと、ポーチの花がそう言った。
どうして、何で寂しいの。
みんな同じに濡れているじゃないと私は答える。

その傘貸してくれよと、さかきの生垣手を伸ばす。
どうして、いやよ返してよ。
引っ張ったらパシャッと肩を叩かれた。

シャリシャリ雨のその向こう、森の木々たちが囁いた。
本当だ、みんな同じに濡れているんだね。
それじゃあ、僕らは仲間だね。

今日は素敵な雨の日と、彼らはそう言い微笑んだ。

 

こんな風に書くと、今日の雨の日もなかなか楽しかったような気に成ってしまいました。家に入る時傘を畳みながら、ふと森の緑を見て、気持ち良さそうだなと思ったから、こんな言葉が浮かんできたわけなんです。

ブログの世界のまやかしと言うのは「いんちき」と言うのとは違います。マジックみたいなものですか。

ここで、ようやくタイトルの「優雅に生きる」なのですが、近頃の私のスローガンっぽい言葉なんです。でも、自分でもどんな生活の事を指していっているのかよく分かっていないような気がするのですね。

確かに余裕のある気持ち、時間、お金があれば、その「優雅な生活」に簡単に結びついていくのかも知れません。でも、この先お金に関してはちょっとアレなんですが、(書き言葉でも、この言い方通用する?)余裕ある気持ち、時間を作ると言う事は、やっぱり私の目標です。だけど、それだけではなくて、上で書いてきたようなマジックを施して、日々の暮らしを確認したり、見方を修正したりしていくことが大切なんじゃないかなと思うのです。「優雅な生活」は、その積み重ねのその先にあるのかもしれません。

 

やっぱり今日も、疲れていてグータラしていた時間が多くて、動き出したらバタバタと生活してしまいました。でも、そのバタバタしていた時間の記憶はほとんど残りません。残っていくのは、その生活で得た一握りの結果のみです。ある時は人との触れ合い、ある時は映画の感動、またある時は子供たちの良い成績だったり・・・

(ある時は、あまりよろしくない成績だったり・・・

 

ところで、この文は上の数行書いたがために漂流し始めてしまいました。行き着きたい港は想定していましたが、今日のところは「深夜の小島」と言う所に結んでおきましょう。

 

 

 

 

 

 
 
 
 
 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バタバタとバタッの狭間の日々

2008-05-29 12:20:28 | ’08/12/7までの未整理日記
 今朝は北海道以外は、全国的に雨模様ですか。
 昨日の夕方から空は既に薄暗く、冷たい涼しい風が吹き始めていましたね。洗濯物を遅めに取り込んで、目の前の風に揺れる木々を見たとき、なんて緑が綺麗なんだろうと思いました。晴れていないので、緑が輝いているわけではありません。特別に美しい風景と言うわけでもありません。でも、日々の暮らしの中でそういう何気なく傍らにあるものに、改めて気付くということはないですか。

 いつもと同じようにそこにあるもの、そこにあったもの、変わらずに私を見守っていてくれたもの。そういうものに気付く、向き合ってみると言う事が「余裕ある生活」なのかもしれませんね。

 先週の私は、少し忙しかったですよ。お仕事を頑張っていました。日々毎日バタバタと暮らしていました。そして夜にはバタッと倒れこんでいました。でも、そう書くと、どれだけ働き者なんだと言う感じですよね。

確かに昔の私は働き者でしたよ。仕事が趣味だったのです。今の私には真夜中はPC時間ですが、PCのために真夜中まで起きているわけではなく、昔から真夜中まで起きていたのです。でも、その時していたことは仕事です。でも、ある時家族が寝静まった部屋で、いつものようにやるべき事をしていました。その時、ふと「何やっているんだろ、私。」と、私は思いました。
仕事が順調なら精神衛生的にも良い事ですし、人には褒められ、お金も入ってきますよね。でも、これをおばあさんに成るまで止まらずに、走り続けてしまったら私はその時笑っていられるのだろうかと、思ってしまったのですよ。

私はそんなときトルストイの「人にはどれだけの土地が必要か」という話を思い出すのです。子供のときに読んだ本です。読んだときには自分の事を欲深だとは思っても見ないことなので、愚かな男の話だと思いました。だけど記憶の中にあるそのストーリーは、大人になった私に警鐘の鐘を鳴らすのです。

 その本のお話は、興味のある方は読んでみて下さいね。その内容に触れると、この文がまた延々と長くなってしまいますので、機会がありましたらまたと言うことで。


 その後もいろいろ迷いながら、今の私はそんなに多忙ではありません。それなのになぜちょっと忙しくなると、バタバタ暮らすようになってしまうのかと言うと、それは只管「体力不足」なんだと思います。

バタッと倒れて復活までに時間がかかってしまうのです。そして、ギリギリに復活して、なんと言ってもギリギリなのでバタバタになるという悪循環・・・


<おっと、またこんな時間だよ。またも大変なことになってしまうので続きは、また夜ね。>

 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おせん♯6

2008-05-28 01:13:45 | テレビ・ラジオ

 はっきり言いましょう。

気が付く、気が利く、まとも、正論、頑張る江崎は、何時方向転換をしたのでしょう。でもうざくなくなったので、まあいいか。

いったいどんないきさつで、おせんはお見合いなんかをしてしまうのやらと思っていましたら、名前は忘れてしまいましたが、近所の「お見合いおばば」の引き合わせでした。

「お見合いオババ」なんて言葉はありませんが、昔は本当に仲人を半分仕事にしていた人がいたらしいです。まあ、仕事と言うか趣味でしょうか。今の結婚相談所の個人経営みたいなものかもしれませんが、その違いは独身男女の所に勝手に写真を持っていくことです。話がまとまれば、感謝のみではなくて、御礼がされるでしょ。それで、収入になっていくというわけです。

でも、私は時々思うのですよ。今でもそういうおせっかいオババはいて欲しいなあなんて。日本の少子化問題は生む生まない以前に、出会いと結婚だって!

まあ、それはともかく、お見合い話を部屋の予約と勘違いして受けてしまう所は面白かったですね。

見合い相手の千堂保は、爽やかでおせんと似合っていたし、ずっとおせんのうきうきとした感じが可愛かったですよね。物語の流れで、見合いの相手とこのまま行かないことが分かってしまうのは悲しい事ですが、どんな風に終わってしまうのだろうと思ったら、完璧な女将だったからという理由だったとは、切ないものです。

 

おせんさんは意外と元気だしと、みんなは言いますが、江崎はそうでないことに気が付いてしまいます。

励ますために作ったまかないハンバーグは美味しそうでした。

 

最後のシーン、台所で何かの後片付けをしているところに来た、おせんに
「あのハンバーグは(おせんが千堂と食べに行きたかったハンバーグ)は、前から俺も食べたかったから、今度一緒に行きましょう。」と誘うところは、大切な人を気遣うさりげない良いシーンだったと思います。家族愛のようなそんな感じがしました。

一升庵の仲間は同じ釜の飯を食べる家族みたいなものかも知れませんね。

詳しいストーリーはHPでチェック→コチラ


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

篤姫「妻の戦」

2008-05-26 00:09:09 | ドラマ (大河)

 今日の篤姫キィワード。
長いコント切ない、だったかな。

 とにかく長かったですよね、あの「篤姫を何とかしよう会議」。しかも言っちゃあ悪いが、詰らなくて退屈でした。まぁ、とにかく「おまたがえし」と言う髪型をすることに決まりました。

だけど、あそこまで長々やる必要があったのかしら。

近頃家族で大河を見る機会があまりなく、今日久し振りに一緒に見ていたというのに、ラッタさんに
「なんじゃ、この昼ドラ大河は・・・?」と言われ、別に私が作っているわけでもないのに肩身が狭くなってしまいました。

 

が、その退屈さを吹き飛ばすかのような、朝のお披露目。

おまたがえしの髪型は確かに似合ってはいたような・・・、だけどそれで終わりではないと、きらびやかな簪を本寿院たちが持って迫ってくるシーンから、大爆笑コントになってしまいました。

 

凄かったですよね、本寿院たちの顔。ホラー映画かと思ってしまいました。

「お、重い。」と簪の重さで頭さえ痛くなってしまう篤姫でしたね。

 

会議ではお渡りの「お願い」をはしたないと幾島はありえないと言っていましたが、そんな幾島の発言をあっさり否定するような、篤姫の「お渡りお願い発言」。

 

その夜の家定と篤姫の会話までは、そのコントの続きでした。
まともな顔とはこんな顔かあんな顔かと言う家定は、志村けんの上手ですよ、きっと。(私は馬鹿殿コントみたいなのは苦手なので、よく分かりませんが。)とにかく笑っていました。

21回目にして初めてワタクシ、「大丈夫なの今年の大河は」とか思ってしまいました。

 

その後の家定の、まともな顔での子ども作らない発言から一転お話はシリアスモードになってしまいました。

幾島は書状を着物の袂に縫いこんでいるし、阿部様は健康に不安がありそうだし、いつも元気な篤姫もまるで元気がありません。

「何時だって篤姫は篤姫」でも、側室なんかに会ってはいけませんね。

いくらなんでも正室の前で「ただ、好きなだけ」と「好き」の連発はないんじゃないかなと思いませんか。言葉を選びましょうよ、とか言ってみても仕方がないか。

自分の気持ちに気が付いていない篤姫。でもその切なさは伝わってきましたね。

 

そう言えば幾島が、家定の気を引くためにお金に糸目はつけない着物に簪に贅をつくせみたいなことを言っていましたが、私はちょっと映画の「マリー。アントワネット」のことを思い出してしまいました。

そう思うと、一番の質素倹約は夫婦の仲の睦まじいことなのかななんてチラリと思ってみたりしました。

 

次回は何か進展ありそうで、胸キュんの予感・・・

 

 

 

 

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ナルニア国物語/第2章:カスピアン王子の角笛

2008-05-25 09:51:38 | 映画

ナルニア国物語/第2章:カスピアン王子の角笛 - goo 映画

 

  本編が始まる直前、ディズニーで作られた映画なのでシンボルのお城に花火が上がる。さあいよいよ始まるんだな思いながら、ふと「ディズニー」の世界はやはり夢の世界なんだと想いが飛んだ。それは映画のことではなく、ディズニーリゾートのことを思ったのだが、そこで働く人々は皆ニコニコ微笑んで、来る者を迎えている。働く者にも訪れる者にも、本当はあまたの日々の重荷があったとしても、迎える者は隠し訪れる者は忘れ、そのひと時は微笑みあうのである。それを「夢」と呼ばずになんと言うのだろう。 これは瞬きする間の思考の横道。 

 

 ファンタジーの幕が開くと場面は出産のシーンで、男の子が誕生する。それは叔父ミラースの子供だった。男子誕生ゆえにドラマは動き出し、カスピアン王子は命からがら城を脱出するのだった。

背後の城の上空に、男子誕生の祝いの花火が上がっている。その中を追っ手から逃れる為に暗い平原から森に向かって馬を走らせていく王子。このオープニングから物語にぐいぐいと引き込まれていってしまう。

 

 本当に危なくなった時に吹けといわれた角笛を、カスピアン王子が吹くことによって、滅んでしまったといわれていたが、ひっそりと隠れ暮らしていたナルニアの民、ロンドンに戻っていたぺペンシー四兄妹(ナルニアの王と女王)が再び集う事になる。

 

 その戦いの迫力と物語の練りこみさは、前作と比較したら数倍以上ではないだろうか。

「前作と比較」と言う言葉を出してしまったので、感じた点をいくつか触れてみる。

 

 前作の「ライオンと魔女」を見たとき、主人公達は無名の子供たちだった。それゆえに質の高い児童文学の映画化という枠から抜け出せていなく、また、前後に公開されているほかのファンタジー映画と比較しても地味だったように感じた。それでは、長いこの物語の映画化を維持できないと反省したのか、今度は王子としての気品と美しさを備えるベン・バーンズを、「カスピアン王子の・・」と言うタイトルにあわせ、ヒーローとして前面に打ち出しているように思われた。ポスターや公式サイト等での扱い方などを見ていると、まさにそれを感じてしまうのは、たぶん私だけではないと思う。

 

 だが物語はカスピアン王子が一人独走と言うわけではない。ぺペンシーの子供たちと彼、要するにナルニアの王たちの物語として見応え充分である。私としては成長著しい次男エドマンドに今後の期待も大きい。

 

 前作の感想の中で、「小さな子供とでも安心してみる事が出来る。」というような内容のことを書いたのだが、今回はそれは書けないだろうと思うところもある。

人間でない者どおしの戦いと違って、今回はナルニアの民vs人間達との戦いである。迫力ある戦いも単純な勧善懲悪の心では見ることは出来ない。

 

 だからと言って、大人の戦士、勇者が戦うのでもなく、先生と言う庇護者がいるのでもなく、子供が王と言うナルニアは冒険少年、夢見る少女達の映画である。それは、実年齢とはあまり関係がない。

 そのためか館内は、実年齢がかつて少年、少女であった人たちで満たされていたように思う。実年齢が少年、少女である人たちは、ほとんど同時刻に上映されている日本語吹き替え版の方に流れているのかも知れない。

そういえば、我が家もだいぶ大昔に少女だったかもしれないと言う、義母を伴っていったのだが、彼女は非常に喜んで、見た直後に以下の感想を述べた。

「単純なファンタジーだけれど、面白かったよね~。
 でも、これは子供に理解できるのかしら。難しくなあい?
 残酷なシーンもあったわよね。ドキドキしちゃったわ。
 あのライオンとかネズミとかはどうやって作っているのかしら。凄いわよね。ライオンの顔が優しいよね。ネズミ(リーピチープ)が可愛かったわ~。見応えがあって、映画を見たという気になったわ。でも長くてトイレに行きたくなっちゃったわ。」

もちろん、合間合間に私も相槌を打っているのだが、今思うと的を得た感想だと思う。この記事に義母の感想だけ書いとけば、スッキリして読みやすかったかもしれないなんて、ふと思う。でも、それでは癪なので最後は私の感想で閉める事にする。

  物語が終わって、ぺペンシー四兄妹が元いた場所に立っている。私は、
「ああ、切ないなあ。」と呟いてしまった。エンドロールでも話しかけることを嫌う小うるさい息子が、その呟きに「何?」と小声で返してきた。なので、どうでもいい事だったが明るくなってから私は言った。

「誰かの気持ちを思って(本当は名前を挙げて)、言ったんじゃないのよ。だって、あれだけの大冒険をしたというのに、何事もなかったようにそこに立っているのって、なんていうか・・ねっ。君には分からないかもね。」
「いや、分かるよ、それ。」と彼は言った。

 

 血沸き立つ思い、逸る心揺れる心、骨まで伝わる痛み、それらを五感の全ては覚えているだろう。だけど、何もなかったかのように現実の次の時が刻まれだす。
夢と現を往復する物語は、実は実に切ないものがある。

 

 関連記事 「ナルニア国物語

       「郵便配達はベルを鳴らす

   

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

郵便配達はベルを鳴らす

2008-05-22 23:12:25 | ’08/12/7までの未整理日記
昨日(5/21)、玄関のドアの前に立っていたら、誰かが急いで階段を上がってくる靴音が聞こえました。正確に言うと、玄関の靴箱の上に生けてあった薔薇の花が枯れていた事を嘆いていたのですが、その靴音が我が家の前で・・・ちょっとこけた様な・・・

― あれ~、転んだ?―と耳を済ませましたら、チャイムが鳴りました。

「書留デース。はんこをご用意下さい。」

ドアを開けかけたら、そう声が掛かりました。チャイムを鳴らした途端にドアが開いたので、郵便配達の方も驚かれたみたいで、一呼吸の意味で「はんこ」とわざわざ言ったように思われました。いつもなら

「サインでいい?」とはんこを出さない私ですが、そう言われてしまっては、ハイハイとはんこを用意して受け取りました。

なんと「ナルニア国物語」の鑑賞券でした。


goo映画のプレゼントで当たりました

週末に家族で見に行く事にしました。

goo様、ありがとうございました。またの機会の時もよろしくお願いいたしますね。


だけどワタクシ、これ、なぜか絶対に当たると思い込んでいて、何時チケットは送られてくるんだろうと最初から楽しみに待っていたのですよ。そういう勘が働く時ってないですか?

誰かがきっと来ると思って、玄関に立っていたりとか・・・・
例えば、はらはら落ちる薔薇の花びらを散らしながらとか・・・


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おせん♯5

2008-05-22 01:59:29 | テレビ・ラジオ

※ いつものようにストーリーチェックはコチラで。

 

私が思いっきり気になったこと。

あの悪徳業者たちは、お食事代15万円を払ったのだろうかということです。

「こんなものに払うか。」といって席を立ったので払わなかったとおもうのですが、また、いくらおせんが
「キッチリ払っていただきます。」と啖呵を切っても、お金をもらってしまっては彼らと同じことになってしまうのでもらうわけはないのですが、なんだかそろばんを弾いて、納得がいかない私です。

スーパーでの購入費や実際にかかっている人件費などの諸経費はどうするんだとか、仕事の話ではなく、おせんの趣味にみんなが付き合った話だなとか感じたり・・・・・

 

 ああ、もう私は浮世と言う世界にどっぷりつかってしまっていて、フェアリーの住む世界の金や銀のキラキラが見えないのよ~・・・なーんちゃってね。

 

 しかしあの悪徳業者の人たちは器に騙されて美味しいと喜んでいたなんて恥ずかしいですよね。如何に彼らの日頃は本物とは縁がなかったかということだと思います。

とは言いながら、実はスーパーの味については美味しいかは別としても偽者と言うわけではありませんね。普通の人の日常はそれで生活しているわけですから。だから生活の面ではなかなかのヒントです。スーパーのお惣菜も器の盛り付け方で、だいぶご馳走に見えるということを実感する事ができました。

  そう書いてしまっては、物語の趣旨に沿っていない内容になってしまうかもしれませんね。

 

 また、もしかしたら利益より損失の方が大きいかも知れないのに(だから私は浮世の・・・以下繰り返し)、あの娘の高飛車な態度が気に入りません。誰の家の事で頑張ったと思っているんでしょう。

高飛車といえば、私は職人気質って言うやつはきっとダメです。もたいさん演じる大工の女棟梁はかっこ良かったのですが、実際にあのような方がいらしたら、私は気を使いすぎてクタクタになってしまいます。古き良きものが衰退していくのには、それにもそれなりに訳があるんだなと、彼女を見ていてふと思ってしまいました。(これも物語の趣旨からは外れていますが、思ってしまったものは仕方がないことでやんす。)

 

 だけど、感心した事四つ。

 江崎は女大工の丁子の話を、しみじみ聞くことのできる男だったんですね。縁側で丁子にお茶を出しながら、彼女の仕立て直しに懸ける情熱に感じ入っていた江崎の姿に感心しました。そうじゃなければ物語は進行しないからかもしれませんが、おばさんとちゃんと会話できる男はカッコイイと思います。

 

 彼らを向かい入れた時、一升庵の看板を外していましたよね。看板出したままでは出来ない行動ですよね。

 

 金継ぎしたお皿が美しかったです。うまい具合に欠けました。

 

 悪徳業者を撃退したあと、気が抜けたように座り込んでしまうおせんでしたが、すっと涙がこぼれます。安心した涙だったとは思うのですが、私には我慢から開放された涙に映ってしまいました。

我慢・・・一升庵で一升庵でない料理を出すと言う、最大の我慢。板長も、盛り付ける手が震えたと言っていたでしょう。それも、物語の上では緊張してという事だと思うのですが、本当は自分の意に反した事をやっていたからなんじゃないかなとか思ってしまうのですよ。

 

―深読みしすぎかもしれないですね。が、ドラマはだから面白い。

 

 

 

 

 

 

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

篤姫「婚礼の夜」

2008-05-20 01:00:56 | ドラマ (大河)

 うつけバージョンの家定にさえも「ええええ~~~」と言わしめた「篤姫は何時だって篤姫」的爆睡。

上様はうつけか否かで頭がいっぱいになりながらも、婚礼の日を迎えた篤姫でしたが、家定の上手だった篤姫。だけど、自覚あるのでしょうか?

 

 ちなみに私も続きが聞きたかったです。
「昔々、夫婦のネズミが居りました。」
いったい、どんな話をするのだろう。ワクワク、・・・・が、篤姫はスヤスヤ。予想外の展開に家定の叫びには、爆笑&共鳴してしまいましたよ。その後、お酒を飲むと言う展開に、私はやっぱり家定はまともなんだなと思ってしまいました。篤姫の寝顔を見ながら、家定は何を考えていたのでしょう。  

 

 ドラマなんだから、そんなに真面目に考える事ないのさと言ってしまっては、こんな感想なんかも書く意味もないので、その真面目に考えるという事で、つい深読みをしてしまうのです。どんな事かというと、篤姫の無意識の計算力の高さです。計算高いというとあまり良い意味ではないような気がしますが、無意識の計算と言うのはその人の勘の様な、または本能のような思考から来る行動なので、大事な部分だと思います。

 

  ああ、そうでした。この「無意識の計算」と言う言葉が世の中に実際にある言葉かどうかは知りません。これは私が普通に使っている私の造語みたいなものですから、あしからず。

 

 家定にとって篤姫は政治によって押し付けられたものであって、決してたった一人の妻ではなく、大奥千人の新しい一人のようなものだったと思います。これといって興味がなければ、その意識はなかなか彼女に向けられないものですよね。でも、婚礼の夜にこのようなインパクトを与えたら、かなり印象深く残るのではないでしょうか。少なくても深酒するほど、篤姫の顔を眺めていたわけですから。

 また、物語の途中で話を止めると言うのも、古来の千夜一夜物語のシュエラザードに習ってかと思いました。続きは、また明日と言うわけです。本来なら上手い作戦です。

が、この物語の中では私の深読みはただの徒労、家定は翌日からちっとも渡ってきません。なんだぁ、つまらないの、それなら「婚礼の夜」と言うタイトルにあまり意味がないじゃんと、ちょっと不満だったりして。

 

 でも、篤姫は渡りがない間も自分の事は棚に上げて家定の暗愚であるか否かばかりが気になっています。 だけどこれは当たり前ですよね。自分の夫はいかなる者か、興味がないほうがおかしいと言うものです。 幾島の話などもありますが、つまらないので省略。

 

  やっぱり今回はこのシーンしかありませんよね。家定がうつけか否かを自分で確かめるべく、共にアヒルを追いかけてひっくり返りそうになったとき、家定の目がキラリ・・・
「危ないではないか。」

 かっこ良かったですよね、まともバージョン家定。ちょっと胸がキューンです。

 

  今週の尚五郎は
―想う人  共に見上げる  遠き月―という感じでしたね。

「だんな様」と声をかけるお近様に違った意味で胸がキューンとしてしまいました。

 

 次回は「篤姫は何時だって篤姫、ストレートに尋ねるの巻」でしょうか?

 

  ちなみにワタクシ、ホワイト家族のお父さんの次ですが、アフラックダックに胸がキューンとなります。どうせなら白いアヒルでいって欲しかったよなと思ってしまったのは私だけではないはずだ!!

 

ここにブログパーツを貼りたかったけれど、ダメみたいなのでもうひとつのブログに貼ってしまいました。よろしかったら、へえ、見てやっておくんなさいまし。<「おせん」はもう今日ですね・・>

コチラ

 

 

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

英語は勉強した方がいいよ~<SONO3>

2008-05-15 00:24:02 | ’08/12/7までの未整理日記

英語は勉強した方がいいよ~<SONO1>
英語は勉強した方がいいよ~<SONO2> の続きです。堅いお話ではありません。  

 

 日本では英語を使うチャンスが、自分で望まない限りはあまりないということを書きましたが、本当は、一度や二度はそういう場面があったのかもしれません。<SONO2>は、もしかしたらそう言うチャンスだったかも知れないのに、さりげなく逃げてしまった、そんな話だったように思います。  

 

 あなただって、そういうことないですか?

 

 そんな風に言って、人を巻き込んではいけませんね。でも、逃げないこともあったのですよ。前のお話も、自分が迷っていなければ逃げなかったと思うのですよね。なぜなら、私はそそっかしいけれどおせっかいなサザエさんを心の中に住まわせている人だからです。

 

 回りくどい言い方ですね。 私って、おせっかいなのよ~、でも、オチョコチョイでさ~。と、言えばいいものを、ちょっと抵抗あるんです。黙って座っていればそういう人に見えませんからね、私(キッパリ)

 

  で、今日はそんなお話。

 

  ある時若かりし私は、寂れたスーパーのレジに並んでいました。けだるそうに「茶髪ネエちゃん」という雰囲気の人が、レジを打っていました。三台あるレジも必要がないので彼女一人だけで打っていると言う暇な時間帯。今のようにバーコードでピッピッと言う時代ではありません。

 

  突然、茶髪ネエちゃんが
「ああ、どうしよう。」と呟きました。

私の中の「好奇心の強い猫アンテナ」が ピピピと反応しました。前にいた人の脇から覗いてみると、アジア系の女性、多分フィリピンの方だと思いますが、その人とレジの茶髪ネエチャンが、お互いに「エッ、」とか「ああ」とか言い合って、困っていました。

 私の前の人は、おばあさんで苦笑いです。見ると、二個でいくらと言うまとめ売りの物の一つだけを持ってきてしまっていたのです。今なんかだと、そういうものは大概少し割高で、一つだけ売ってくれますが、その時はそうではなかったのですね。

 

 そこで、おせっかい猫の私の登場です。でも、この猫は考えてから歩き出すタイプではなくて、ほとんど歩きながらか、歩いてから考えるタイプなので、その時も何も考えずに、いきなりⅤサインを出して、

何かを言ったのです。内気な(?)私には似つかわしくないような大きな声ではっきり、くっきりと、素早く・・・

あまりに一瞬だったので、なんて言ったのかを忘れてしまいました。後からあれやこれやと後悔したので、かなりいい加減だったことは間違いないわけで、たぶん、

①「Two is this.」  とか
②「This  price is  two.」とか、 または、もしくは、まさかですが・・・日本語ではっきりくっきりと、
③「コレハ~、ニコデェ~、コノネダンデ~スゥ。」といったのじゃないかなと思うのです。

今思うと、③が一番怪しい・・・・   

 

 が、そのアジア女性は
「オウ~!」とかいって頷きました。通じたのですよ。そして急いでそれをもう一つ取りに行ったのです。戻ってきた時、彼女は私に
「アリガトウゴザイマ~ス。」と言いました。挨拶とお礼は最初に覚える言葉かも知れませんね。

 

 アジア女性の彼女は去って、レジで私の番になりました。実はこのとき私はレジの茶髪ネエチャンと同年代だったのです。お金を払い終わると、レジのその彼女は手を合わせ、親しげに
「Thank you!」と言ったのです。

 

ええと、このお話で言いたかった事は、
「情けは人のためならず。人に親切にすると、小ネタが必ず付いてきて、あなたを笑わせてくれます。」と言う事ではなくてですね、言葉と言うのは意思伝達の手段なのだから、正しくなくても、伝えたい気持ちがあれば、伝わる事もあるのだと言いたかったのかも知れません。なんだか他人事のような言い方ですが、別に何か立派な事が言いたかったわけではないんですよ。

「アリガトウ」と「Thank you!」には笑っちゃったなぁ,と言うレベルの事が言いたかっただけなのですよ。

それと繰り返しですが、やはり正しい言葉でも小さくてはっきりしない言い方では伝わりづらく、正しくなくてもはっきりと言う事で、相手が推理することが可能になって伝わる事があると、私はしみじみ思ったのでした。 

ちなみに、今度そういうチャンスがあったならば 

「 It is this price by 2 pieces. 」

間違わないようにしたいと思います。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おせん♯4

2008-05-14 09:18:10 | テレビ・ラジオ

    ワタクシ、近頃、その番組が終わると、
「ああ、はやく来週にならないかなぁ。」と残りの人生の砂時計を無駄にするような願いを、ふと思ってしまうドラマが二つあります。

その一つは「篤姫」ですが、もう一つは、この「おせん」です。だけどよくよく考えてみると、そのストーリーにワクワクするようなものはないのじゃないかなと思います。それなのに、「ああ、はやく来週に・・」と思ってしまう。それはおせんの衣装や出てくるお料理やその住居、人との係わり合いなどを一時間単純に楽しませてくれ、あのマッタリとした時間をドラマと共有する楽しさでしょうか。

 

 でも昨晩、よせばいいのに真夜中に、しばらく読んでいない原作なんかを読んでしまいました。

 

 やっぱり蒼井優さんは原作のおせんさんとはぜんぜん違っていました。江崎は設定はどうでもいいけれど、物語におけるポジションみたいな所から違っていましたね。実は原作の描くおせんは、ドラマの中にはいないと言う事に、私は気が付いてしまいました。

 だからと言って、ドラマを批判する気は毛頭ありません。蒼井さんは蒼井さんの「おせんワールド」を作って、私を楽しませてくれればいいのじゃないかなと思うからです。

 しかもドラマの方には、回数が決まっているから、ただ淡々とと言うわけには行かないので、「新しい時代」とか「古き良きものが新しい時代に生き残っていくと言う事は・・・」的なテーマが見え隠れしています。

 

昨日のドラマは、それがはっきりと前面に出ている内容でした。二号店を出すか出さないかと言う話の顛末でしたが、出さない事は物語の定石で分かってしまっている事ですが、ポイントは理由です。

それも推理すれば、最後の種明かしまで待たずとも分かるのですが、なぜか私は首を傾げてしまいました。

おせんがいないと完成された事にはならない一升庵のお料理。おせんが二人いないから、二号店は出す事が出来ない・・・・

 物語なので妙な説得力がありますが、説得されづらい私です。おせんと言うスーパースターなのでそんな事はないとは思いますが、客が店の者を接客してしまう事が、多々ある日常と言うものを知っている主婦にとって、「人」に存在感があるお店は、行ってみたいお店ではないのです。そんな事どうでもいいことですが、好きなドラマは意外とのめり込んで見てしまっているので、そんな風に感じてしまいました。

 

 台場の最後のセリフ
「この時代に一升庵のような店が今のままのやり方で残っていくのは大変だと
思いますよ。あなたにも、それはわかってるんじゃないですか?」

ドラマが掲げてしまったテーマは、かなり難しいものだったかも知れません。今後の展開が楽しみですね。

 

私的には、経営がどうとかという現実的なことはさておいて、やはりここは、食がわかる昔からの上客を掴んでいるから、そこの所は、「心配後無用」と言う雰囲気を醸し出している原作の方に、心惹かれるものがあります。

 

ストーリーチェックはHPで→ココ

 

 

 

 

おせん 13 (13) (イブニングKC)
きくち 正太
講談社

このアイテムの詳細を見る
おせん 15 (15) (イブニングKC)
きくち 正太
講談社

このアイテムの詳細を見る
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする