「山本五郎左衛門」と書いて、「さんもとごろうざえもん」と読む。
上の絵は、『稲生物怪録絵巻』のものだが、左に座ってる裃をつけた武士がそうで、見た目も名前も普通の人間のようである。
「やまもと」ではなく、「さんもと」と読ませるトコロが唯一、妖怪っぽい・・?
しかし、あなどるなかれ、江戸時代中期の寛延2(1749)年、備後三次藩(広島県三次市)の実在の藩士・稲生武太夫(いのうぶだゆう)が体験したという、妖怪にまつわる怪異をまとめた『稲生物怪録』(いのうもののけろく)に出てくる妖怪の頭領、魔王だという。
http://fragezeichen.web.fc2.com/mononoke/03/sanmotogorouzaemon.html
稲生武太夫は、幼名・平太郎といい、相撲取りの権八と比熊山で肝試しに百物語に挑んだ。
百の怪談話を終えた時、怪異が現れる・・という例のやつだが、何事もなく、2ヶ月が過ぎた。
しかし、2ヶ月後の7月1日から30日間、毎夜、怪現象が起こり続けた・・。
それでも平太郎は1ヶ月間、屈するコトなく、これに耐え続けたトコロ、7月30日に裃を着た40歳ほどの武士が姿を現し、
「自分は山本五郎左衛門という魔物である。神野悪五郎(しんの あくごろう)と魔王の頭の座をかけて、勇気ある少年を100人驚かせるという賭けをして、インド、中国、日本と渡り歩いてきた。その86人目として、お前を驚ろかそうとしたが、駄目であった。最初からやり直しである。お前の勇気には恐れいった」
・・と、平太郎の勇気を褒めたたえた。
そして、悪五郎が来た時には、これを使えば自分が助力するといい、木槌を遺し、妖怪たちを引き連れて去って行った・・とゆーのが、その大まかなお話。
現在、稲生武太夫は、南区にある稲生神社の祭神として祀られている。
(カテゴリー/広島のオススメ!:「稲生神社」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/c27bd7f4b006c59039b09ea3e2ce874f)
ちなみにこれは、『稲生物怪録絵巻』より、五郎左衛門と妖怪たちの帰還の場面。
駕籠からはみ出している巨大な毛むくじゃらの脚が、魔王としての五郎左衛門の真の姿と見られている。
根岸鎮衛の随筆、『耳嚢』によれば、芸州(広島県西部)の比熊山に「”三”本五郎左衛門」(さん”ぼん”ごろうざえもん)という妖怪がいたとあり、まるっきり似たような話で、いずれも同じ妖怪と思われる。
同じく『耳嚢』に、また似たような話がある。
文化5(1809)年、五太夫という者が、石川悪四郎という妖怪を見物するために真定山へ登り、山中で夜を過ごした後に帰宅すると、家に頻繁に妖怪が現れるようになった。
しかし、五太夫は決して怯まなかった。
数日後、悪四郎は僧侶に姿を変えて五太夫のもとを訪れ、彼の勇気を称え、山から去ると告げ、その話し合いの証拠に、3尺ほどの”用途不明のねじ棒”(・・・。)を残して姿を消したという・・。
―これなども、細部は違うが、大まかなストーリーはほぼ同じで、この石川悪四郎=山本五郎左衛門・・ととらえて間違いないだろう。
神野悪五郎は五郎左衛門のライバルだし・・はなはだややこしい・・。
ちなみに『稲生物怪録』の主人公・稲生平太郎自身が遺したとされる『三次実録物語』では「山本”太”郎左衛門」、広島県立歴史民俗資料館所蔵の『稲亭物怪録』には「”山ン本”五郎左衛門」・・と表記されている。
名前が長いだけに、聞き間違いや誤字がひどい・・とゆーだけのコトなんだろーか・・?
『稲生物怪録』は、その内容の奇抜さから、多くの文人・研究者の興味を惹き、江戸後期には国学者・平田篤胤によって広く流布され、明治以降も民俗学者の折口信夫や、小説家・泉鏡花の『草迷宮』のモデルになったコトでも知られている。
近年の妖怪ブームで、民俗学者の谷川健一や荒俣宏、作家の京極夏彦らも関連本を発行、三次を舞台にした宇河弘樹のマンガ、『朝霧の巫女』に取り上げられたり、椎橋寛のマンガ、『ぬらりひょんの孫』でも五郎左衛門が登場している。
”御大”水木しげるも『稲生物怪録』をもとに『木槌の誘い』のタイトルで作品化、”水木妖怪漫画の集大成”と呼ばれているとか・・。
ちなみに五郎左衛門が遺したこの槌は、今も広島市東区の国前寺に寺宝として伝えられており、毎年1月7日の稲生祭には、「如意宝ばけもの槌」として公開されているそうだ。
(カテゴリー/広島のオススメ!:「國善寺/二葉山山麓七福神めぐり(大黒天)」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/3936751cb1f6996553d4cc6beb8771dc)
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