広島市東区山根町にある國善寺。
日蓮の弟子・日像に師事した暁忍により、暁忍寺として開かれた。
明暦2年(1656)、浅野家2代藩主・光晟の妻、満姫(自昌院)の菩提所となり、國前寺と改号し、伽藍を整えた。
当時の建物はこの本堂と・・
本堂横にあるこの庫裏(くり)が残っているが、本堂は寛文11年(1671)、庫裏はそれよりわずか前に完成したもので、ともに国指定の重要文化財。
境内には大黒天の像が・・。
ここ、國善寺は二葉山山麓七福神めぐりという二葉山の7つの寺社をまわる観光コースにおいて、大黒天が祀られている場所でもあるのだ。
さて、大黒天といえば、打ち出の小槌。
実はこの國善寺、寺宝の”如意宝・ばけもの槌”というものを毎年1月7日の稲生祭で開帳するコトで知られる。
このばけもの槌とは、『稲生物怪録』に登場する平太郎(稲生武太夫)が魔王・山本(さんもと)五郎左衛門からもらった木槌のコト。
(カテゴリー/広島のオススメ!:「山本五郎左衛門~広島の妖怪⑪~」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/6b7002ea0c938d9904ff9df8778db653)
実在の三次藩藩士・稲生武太夫(1734~1803)は、16歳の時、30日間にわたって現れた様々な妖怪を恐れるコトなく退け、最後に妖怪の親玉・山本五郎左衛門という魔王からその勇気をたたえられ、魔王を呼べる木槌をもらったという。
この武勇伝を聞いた広島浅野家が1758年、武太夫を召し抱え、武太夫は5年間武者修行して三次に戻る。
現在、稲生武太夫は、南区にある稲生神社の祭神として祀られているが、この5年間の広島在住の間に祭神になったのだという。
(カテゴリー/広島のオススメ!:「稲生神社」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/c27bd7f4b006c59039b09ea3e2ce874f)
なんと、この國善寺には、武太夫が魔王からもらったその木槌が現存しているのであるっ
今日がその年に1度の稲生祭とゆーコトで見物に。
午後1時から約1時間、お経があげられ、その後、お話が・・。
実際に木槌が見れるのはその後になる。
祭壇にあるたくさんの木槌は、事前に申し込むことで檀家さんなどに配られるものだそう。
しかし、なぜ稲生武太夫が祀られている稲生神社でなく、國善寺に木槌があるのか?
魔王・山本五郎左衛門は武太夫に木槌を渡した際、
「もう一人、ワシより悪い魔王(真野悪五郎)がいて、必ずお前のところに来るだろう。
そのときはこの木槌で北の柱を3回叩けば助けにくる。
ただし、この話は50年間、誰に言ってもいけない」
・・と言い残す。
武太夫は槌が傷むと思って、槌を比熊山に埋める。
広島藩に召し抱えられた武太夫は50年経って、比熊山から槌を掘り起こし、主君である浅野家の菩提寺・國善寺に納めたという。
武太夫本人が記したとされる『三次実録物語』には、享和2年(1802)に國善寺に預けたとあり、武太夫が広島に移るとき、持ってきたようである。
しかし、別の文献では同じ年に國善寺に納められている・・というように経緯が違う・・。
屋敷の土の中に埋めておいた槌を、稲生家の墓がある三次・妙栄寺に預け、妙栄寺の住職が國善寺に移るとき槌を持ってきた・・云々。
『稲生物怪録』には多くの種類があり、しかも微妙に内容が異なる。
小槌ひとつとっても、初期の物語には槌が出てこないのだが、それがどこかの時点で出てくる。
槌は魔王を呼ぶ手段として授けられるが、後には槌を持っていることで幸せになる、と変遷していく・・。
http://omatsuri-club.jugem.jp/?eid=13
こうした非日常的な怪異を語った怪談だけに、どこかで都市伝説的に尾ひれがついていくのだろーか・・?
さて、問題のばけもの槌は・・
祭壇中央のこの箱の中。
窓の奥に黒光りする木槌がおさめられているのが肉眼では確認できたが、写真はNGとゆーコトで、ここまでが限度・・。
見えるだろうか・・?
意外と小さい・・。
ぜひ興味がある人は、来年の1月7日、見に行ってみては・・?
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