生は寄なり 死は帰なり
『淮南子』精神訓より
「せいはきなり しはきなり」と読む。
人は、仮にこの世に身を寄せて生きているにすぎず、死ぬコトは、本来いた所に帰るコトである・・というイミ。
『淮南子』(えなんじ)は前漢の武帝の頃、淮南王劉安(B.C179~122年)が学者を集めて編纂させた思想書で、道家思想を中心に儒家・法家・陰陽家の思想を交えて書かれており、一般的には雑家の書に分類されるそうだ。
日本へはかなり古い時代に伝わっており、「八紘一宇」の由来となった『日本書紀』の神武天皇の言葉、「掩八紘而爲宇」も『淮南子』から引用されたという。
中学?の頃だったか、ずい分前に、ことわざ辞典か何かで見つけたのが最初だったと思う。
自分の座右の銘であり、こころが楽になる言葉。
結構、小さなコトにクヨクヨ悩んだりしてる時、この言葉を思い出すと、開き直れる・・とゆーか、「所詮、人生も仮住まいだな・・」と、いいイミでリセット出来、気持ちも大きくなる、壮大なスケール感のある言葉である。
人はどこから来て、何の為に生き、どこへ行くのか?
―人生の三大疑問であるが、真摯にこの問いに向きあった時、人はいかなる思いを抱くだろうか?
「死」は必然である。
それは、「生」を享けた瞬間から運命づけられている。
諸行無常。
行雲流水。
流るるままに・・。
「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」
―松尾芭蕉の『奥の細道』の序文であるが、そうした無常感―決して投げやりなニヒリズムではなく、大きな流れの中に身をゆだねて、何事にもとらわれるコトなく、風の吹くまま気の向くまま、自由に、楽に生きる・・。
”天地自由人”とでも言おうか?
・・そんな境地で、いつもいられたらいーのだが・・。
小さなコトにこだわって、とらわれて生きるなんてバカバカしい・・。
所詮、すべては同じ大海に注ぐ、小さな川の流れに生きる群れにすぎないと思うのである。
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