”自我”とは部分関数である。
―いきなり、何のこっちゃである・・。
前回、苫米地さんの講演のCDから、スコトーマを中心に、いくつかのキーワードを取り上げてまとめてみた。
(カテゴリー/人生覚書き:「スコトーマ」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/86adeec5e8d460c72b19b574f2f2aa95)
今回もその続き。
部分関数とは「分ける関数」のコトで、たとえば、イーブン(偶数)という関数は自然数nを通ると、2、4、6、8、・・・と出力する。
つまり、偶数とは2、4、6、8・・とゆーコトである。
ここで、”人間”という概念を見てみる。
「人間とは何か?」
―という問いに対する答えが、「宇宙を入力して全ての”人間”を出力する部分関数」なのだそうだ。
これが”人間”という概念の定義である・・とのコト。
この場合、宇宙とは”全ての要素”というほどのイミであろう。
仮に、「人間」の部分を「太郎」さんに置き換えてみる。
宇宙を入力して、「太郎001」「太郎002」「太郎003」・・とゆーよーに、M78星雲にウルトラマン「タロウ」がいれば、それも含め、宇宙中のすべての「太郎」さんが出力される部分関数―それが「太郎」さんの定義である。
ここで、”自我”とは、自分を定義するもの。
”自我”という部分関数に、宇宙を入力すると、すべての自分の属性、自分を構成する要素が出力されるワケで、これが「”自我”とは部分関数である」―とゆ-タイトルのイミなのである。
自分を構成するすべての要素―当然、これは自分にとって「重要度」が高い、慣れ親しんだものであり、それが”自我”を作り上げている。
何が重要かは、人それぞれ。 それが”自我”である、と・・。
逆にいうと、自分を構成するすべての要素を入力すると、逆関数として宇宙が出てくる。
存在の価値は、宇宙と等価である。
宇宙は、自分によって変わるのである。
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