「ヴァイオリニストの潮田益子の訃報が出た」と、友人からメールをもらったのは先週の金曜日、5月31日のことです。その時、私はすぐさま、「彼女には格別の思いがあるので、さまざまな感慨が過ぎていく。淋しい」と返信したのですが、それ以上のことは何もせず、そのままにしていました。すると、つい先ほど、「追悼」を書かないのか、と言われてしまったので、とりあえず、これまの数十年の間に私が書いたことを振り返ってみることにしました。私はもともと、何か事が起こるたびに短文を書く、という趣味も技もありませんが、私の「格別の思い」の一端をメモ書きしておく必要はあるかな、と思いましたので、とりあえず、以下にいくつかの文章を再録しながら、「自註」を試みます。いずれ、もっとまとまった文章を書かなくてはならないと思っていますが、本日は、そのための整理ということでお読みいただければ幸いです。
【自註①】
思えば、潮田益子のヴァイオリンは、日本人が西洋音楽を演奏することの意味について、私が考え始めた最初の演奏家のひとりでした。そして、そのことがうまくまとめられた、と思っている文章が、以下のものです。もう20年以上昔のものですから、文中の「20年前」は「40年前」になるわけですが、もう、この当時の感慨を表現することは出来ません。そのくらい、現在は私自身が、日本人が西洋音楽を演奏することが当たり前の時代に慣れてしまっているのです。しかし、そのことによって忘れてしまったことが、この古い文章では表現されています。1994年発行の拙著『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』(洋泉社)に収録されたものです。
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■小澤征爾と潮田益子、そして日本人の「西洋音楽演奏」
潮田益子と小澤征爾/日本フィルハーモニーによるシベリウスとブルッフの「ヴァイオリン協奏曲」のレコードは、いわゆる通常の意味での国内制作盤ではない。世界のメジャーレーベルの手による日本国内でのレコーディングとして、おそらく最初のものだろうと思う。この盤は、英EMIからプロデューサーとしてピーター・アンドリーが来日し、ミキサーもカーソン・タイラーがおなじく来日して直接行っている。録音会場は、当時頻繁に録音用に使われていた東京・荻窪の杉並公会堂だ。当時既に小澤征爾は、「世界のセイジ・オザワ」として活躍しており、「幻想交響曲」(トロント響)、「運命」「未完成」、「シェエラザード」、「春の祭典」(いずれもシカゴ響)、「火の鳥」/「ペトルーシュカ」(ボストン響)、といった具合で、世界をマーケットにしたレコードを次々と送り出していた頃だ。EMIとも、パリ管を振ってのチャイコフスキーの「交響曲第四番」が前年に録音されている。
この二つの協奏曲録音は、小澤が「日本のオーケストラとの録音を行いたい」と強く希望して、試験的に行われたものだと言われている。オケは分裂前の「日本フィル」だ。ソロを弾いているのは小澤の桐朋学園時代からの後輩である潮田益子で、この二人は既にニューヨーク・フィルを舞台にして、バルトークの協奏曲での協演で成功を収めるなど、再三にわたりコンビを組んでいた。潮田の朗々とした造形感の確かな熱っぽい音楽は、特にブルッフの協奏曲では、聴き手の前面に大きく迫って来るスケールの大きな演奏となっている。ソリストと、指揮者とオーケストラが一体となっての豊かで充実したこの演奏には、一種のこぶしを効かせるといった趣きさえあって、疑いもなく〈日本人の感性〉が息づいており、それを自分達のものとして、世界に向けて強くアピールしてゆく確信に満ちた、自在で自発性あふれる演奏に私は共感を覚えた。もう二〇年ほど前のことだ。
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数年前から小澤は、国際的な活動のかたわら、桐朋学園での恩師斎藤秀雄を記念して同窓生が毎年集うフェスティバル的なサイトウ・キネン・オーケストラを指揮して、長野県松本市でコンサートを行っている。最近ではこのオーケストラの活動そのものも録音活動も含めて国際的になってきた。この活動については様々な見方があるようだが、私は、小澤の行動の基本は、前記のEMI録音以来、一貫して大切にしているものが変っていないと思っている。
第二次大戦後、音楽は急速に国際化し、かつて録音を通じてさえ感じることが出来たそれぞれの国や都市が育んできた音楽の個性というものが失われつつある。今日、ほとんどのヨーロッパのオーケストラが、ローカルな持ち味を減退させ、インターナショナルな均質化された響きに傾きがちなのは、誰もが認めることだろう。
しかし、それでもなおかつ、それぞれの「らしさ」は、決してなくなってはいない。フランス人はドイツ人の真似はしないし、イギリス人はフランス人の真似をしない。メンバーが多少国際色を増しても、音楽監督を自分たちの中から出せなくても、変らない部分はある。それが歴史と伝統というものなのだ。
私たち日本人が、西洋の音楽を聴くようになって一〇〇年余の年月が経った。その間、演奏にあたって、私たちの先人は、おそらく大変な苦労をして学び、模倣してきたに違いない。それが、私たち日本人の感性を堂々と打ち出し、世界にその真価を問うようになったのは、一九六〇年代からのことだろう。指揮者で言えば、岩城宏之、若杉弘、小澤らの世代からだ。
それぞれが長い歴史を持ったヨーロッパ社会と異なり、私たちの歴史はまだ浅い。今私たちは、やっと、私たちなりの西洋音楽の世界を築きつつあるのだ。小澤/サイトウ・キネンの活動もそのひとつだ。
小澤/サイトウ・キネンには、ウィーン・フィルやスカラ座管が未だに持っているような〈感性の同一性〉があると言ったら言い過ぎだろうか? これは音楽にとって幸福なことだ。彼らの演奏を〈馴れ合い〉と批判するのは、クレメンス・クラウス/ウィーン・フィルや、フルトヴェングラー/ベルリン・フィルを同じ言葉で批判するのと、本質的には何ら変らない。日本人による西洋音楽は、演奏史の流れの中で、そうした段階にあるということだ。
サイトウ・キネンがTOKYOという奇妙な国際都市での演奏を拒否しているのは、その意味で正しいと思う。私にとって実はこれは、今年一九九四年、L特急に飛び乗り、新宿駅をあとに山間を走り続けて一路松本までたどり着いての実感だ。「ここはサントリー・ホールでも東京文化でもない!」。お祭りイベント特有のスノッブな雰囲気で差引かれても、大いに価値のある空間移動だった。
松本文化会館は、まぎれもなく日本の風土の中に建っていた。そしてコンサートの開始。オーケストラの中にはもちろん、この日のために帰国した潮田益子の姿があった。
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【自註②】
文中の「杉並公会堂」は、「旧館」です。現在同じ場所に同じ名称で建っている「杉並公会堂」とは違います。この潮田/小澤の「協奏曲」のLPは、もちろん当時、英EMIにより海外仕様でも発売されています。(潮田益子の表記が「MUSUKO USHIODA」と誤記されていた。)数年前に「山野楽器+新星堂+タワーレコード」の共同企画の復刻CDが限定発売されましたが、その際に表紙に使われていた写真は英盤と同じもので、東芝盤LPでは「ウラ表紙」に使われていました。ブルッフのみは、「英ロイヤル・クラシックス」がEMIのライセンスを得てCD化したことがあります。これはカップリングはジョージ・ウェルドン指揮、ジーナ・バッカウアーのピアノによるグリーグの協奏曲で、こちらがメイン曲扱い。これはコンチェルトなので、以前2枚のCDが発売された東芝EMIの「ウェルドン北欧音楽集」にも収録されていません。
文中の「馴れ合い」は、この原稿執筆当時の音楽評論家仲間Y氏の発言。この頃、小澤/サイトウキネンは、決して好意的に迎えられていたわけではなかったのです。「松本」以外での演奏をせず、もちろん、東京公演もなかったことも、何かと非難されていました。
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【自註③】
以下は、上掲の文章が世に出た頃、つまり1990年代初頭に、私が毎週おしゃべりをしていたCSラジオの実験放送のナレーション用のメモから起こして、当ブログに数年前に掲載したものの一部です。つまり、20年ほど以前の、私の発言です。
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さて、潮田益子のヴァイオリンを好サポートする小沢征爾指揮、日本フィルハー モニーの演奏を聴いたが、この小沢征爾が1935年生まれ。そして、これから聴く岩城 宏之が3つ上の1932年生まれ。もうひとりの若杉弘が小沢と同じ1935年生まれ。私は、このほぼ同世代の3人が、日本人の独自の感性を堂々と世界に披露した最初の世代だと思っ ている。
先日、彼らが生まれた頃の1935年に録音された「山田耕作指揮/新交響楽団」によるベートーヴェンの「運命」を聴いたのだが、このベルリン・フィルも指揮したことのある我々の世代の大先輩にあたる山田のベートーヴェンは、「今、ここで自分たちはベートーヴェンというドイツの偉大な作曲家の作品を体験しているのだ」といった、演奏者たちの感動が伝わってくるような演奏。この後、様々な人たちが西洋音楽に取り組んできたわけだが(例えば、近衛秀磨、斎藤秀雄といった人など)、それは、西洋人の方法論をなぞりながら、彼らの音楽美学を会得して来た歴史だ。その中にしばしば顔を覗かせる「日本的な情緒の流れ」が、居心地悪そうに、けれども、現在の私たちにとっては、ほほえましいほどに愛らしく響いている。
いずれにしても、そうした長い「学習」の期間を経て、岩城、小沢、若杉たちの新しい世代が登場したのだ。
きょうは、若杉、岩城と、小沢と並んで、日本の指揮者の戦後世代をリードしてきた人たちの、若き日の録音を聴いたわけだが、この1960年台から70年台の記録は、同時に、日本の西洋音楽受容の歴史が 、青春時代から、成熟期に入り始めた時代の記録でもある。彼らの若々しい演奏に共通していたのは、音楽のひた押しな畳みかけが、西洋的な積み上げ、昇り詰めていくものではなく、連続的に横へ横へと押し出されていくような感覚への、全面的な信頼、自信の確かさだと思う。 そうした音楽構造は、東洋的な感性の産物と言い切ってよい。例えば、最近では、韓国出身の指揮者チョン・ ミュンフンも、そうした音楽語法を持っている。
例えて言えば、ゴシック建築、天を突き刺すように建つ西洋建築の美学と、桂離宮のような横への広がりとの違いとでも言うか? 五重搭でさえ、屋根が柔らかな弧を描いて、裾へ裾へと折重なっている。あれが、東洋の美学で、それは、西洋と東洋それぞれの、文化そのものの違いなのだ。
クラシック音楽を演奏する上で、西洋をお手本にする時代は、いつの間にか通り過ぎて 、ドイツの伝統とは違う立場での新しい解釈が、フレッシュな魅力を持つようになり始め たのが1960年代。それから、更に30年ほど経って、今では、もっと若い世代が積極的に斬新な解釈を聴かせるようになった。だが、何時までも忘れて欲しくないのは、自分自身の感性のルーツだ。これは、詰め込まれた知識などによって押し出され、消えてしまうよう なものではないはずだが、ルーツを見失うような、頭でっかちの知識だけに頼るようなことも、やめてほしい。 これは、演奏を聴く私たちにも言える。音楽の鑑賞に、こうでなくてはならないという ものは、ひとつもないし、権威のある演奏などといった、偉そうなものもどこにもない。 それぞれの演奏家が、自分の感性、自分の解釈に自信を持って演奏している、そういった 力強さに、素直になりたいと思う。
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【自註④】
最後は、簡単に「紹介」のみですが、近著「クラシック幻盤 偏執譜」(ヤマハミュージックメディア)にも収録した詩誌『孔雀船』に寄せた文章です。
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■潮田益子の青春の記録、バルトークとチャイコフスキー
潮田益子については、何回か前のこの欄で、小沢征爾指揮~日本フィルハーモニーとのシベリウスとブルッフについて書いたことがあるが、このチャイコフスキーとバルトークの協奏曲も、潮田の極く初期の録音。一九六八年三月に録音されて発売された日本コロムビアのLPレコードの初CD化だ。伴奏は森正の指揮する日本フィルハーモニー交響楽団。このレコードの二曲では、チャイコフスキーももちろん堂々たる名演だが、実はB面のバルトーク『協奏曲第二番』に驚かされる。アメリカでのデビューでもこの曲を選んだ潮田だけに、一九六八年という時点で、これほどに確信に満ちたバルトークを弾いていた人は少ない。ハンガリー的なイディオムは、しばしば西欧よりも東洋的な感覚に通底するものがあるが、そのことを、久しぶりに聴き直して、改めて確信した。
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【自註⑤】
このCDはコロムビア・ミュージック・エンターテインメントから発売されています。