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河治和香『命毛』のことなど――山田俊幸氏の「病院日記」(第11回)

2011年10月26日 11時48分39秒 | 山田俊幸氏の入院日記




 本日は、遅れている掲載を少しでも消化するためもあって、話が関連している2本を同時掲載します。もっとも、内容的には「書物探偵」というより、「交友録」風です。執筆は9月26日および27日です。ただ、山田氏らしい「創作論」も展開されています。これは、2本続けて読まないと、うまく真意が伝わらないものでもあります。

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寝たまま書物探偵所(10)・・・河治和香の『命毛』 by 山田俊幸


 日曜の昼過ぎ、小学館の矢沢さんがわざわわざ堺の病院まで、河治さんの本を持って見舞いに来てくれた。
 ちょうど千野隆司さんから送ってもらった新刊の『寺侍市之丞』(光文社時代小説文庫)を読み終わって、さあ今度は何を読もう、というときのことだ。河治和香さんの本は『命毛』(小学館文庫)。歌川国芳の娘を主人公にした時代小説である。
 『命毛』は、新刊というよりも八月発行だから、ちょっと前の発行となる。河治さんからは八月の発行と同時にもらっているのだが、それを読めなかったのには理由がある。まず八月初めの小火さわぎがあり、その後、途中まで読んでいたら今度は階段からの転落事故で入院。それで本は行方不明となった。手元に本がなく、絶対安静で買いに出ることもできず、さすがに河治さんには話せずにいた。すると今度は、河治和香担当の矢沢さんが必要なものがあれば持って行きますと言ってくれたので、今回は甘えることにした。
 シリーズ名は、[国芳一門浮世絵草紙]。『侠風(きゃんふう)むすめ』『あだ惚れ』『鬼振袖』『浮世袋』『命毛』の五冊で完結した。構想から完結までは四年かかったという。客観的な批評は誰かやるだろうから、ここではちょっとインサイダーな感想を書いておくことにする。
 国芳一門とは、言うまでもなく有名な浮世絵師歌川国芳、つまり武者絵の一勇斎国芳とその弟子たちである。門弟八十人以上という大所帯の上、門下に列なる有名絵師も十人では収まらない。そんな一門をどう書くのか、というのがこの本の興味の持ちどころだろう。一つには、オムニバスという手法がある。狂言廻しを話の中心におき、魅力的な弟子たちの逸話を並べていく。戦後すぐの映画に『舞踏会の手帳』や『輪舞』というのがあったが、あの手法である。これならば過不足なく門弟の逸話を描くことができる。便利な方法なのだ。だが、河治さんはその手法を採らなかった。
 狂言廻し以上に魅力的な主人公を見つけたからだ。それが国芳の娘の「登鯉(とり)」である。話は登鯉を中心に進んでゆく。
 この主人公の選択は、おそらく著者の思惑を越えて、もうひとつ興味深い事象を小説の中でもたらした。主人公登鯉に、教養小説で言うところの「成長」がないのだ。これは面白い。登鯉は、恋でも、男でも、人格としても、成長しない。一般論だが、主人公ものの連作シリーズの場合、若いときから歳を重ねるにしたがって、主人公は成長する。失敗を克服するという「教養小説」つまり「自己形成小説(ビルドゥングス・ロマーン)」となるのだ。中里介山の『大菩薩峠』や吉川英治の『宮本武蔵』などもそうだ。だが、この主人公登鯉は違う。自分を磨きはするが、つぎのステップには向かえない。何かにしがみつこうと心が思うと、体がそれから限りなく逃げ出すのだ。だが、この場合、そんな登鯉の性格が、国芳始め一門の皆を等しく照らすことになる。こんな小説はめったにない。
 構想から完結まで四年かかったという小説だが、主人公はスキゾ的に成長しない。だが、作者は違う。作者の自己形成には、夫の死という大きな出来事があった。その影を、わたしたちはこの連作の途中から読み取ることができる。そして、本としてはその時期から、登場する人々がより深みを増してきた。河治さんには、『秋の金魚』という前作があり、そこでは巧みなストーリー・テラーの側面が出ている。最初の『侠風むすめ』も、多少それを引き継いで、話し上手である。うまく導かれてしまうのだ。あれあれ、だ。これがいいという人もいる。だが、わたしには馴染めない。それが連作三巻目の『鬼振袖』で、話がぐずぐずになる。この小説、いったいどこに行くのだろう。方向が見定まらなくなった、と言ってよい。破綻と言う言い方も出来る。ストーリー・テラーの予定調和がこの時期、崩れてしまったのではないか。
 ところで、多くの作者が、この「破綻」が「チャンス」であることを忘れている。作者としては予定調和を崩す破綻を幸いと思わなければならない。魔の時を好機に変える。そこにクリエイティブな新しい物語が始まって行く。
 この小説は、夫の死という事実に揺れながら、新しい登鯉の話へと舵を切ることになった。中身に関しては触れないというのが常道だからここでやめておくが、終わりに近づくにつれて、一門の連中がそれぞれ生き生きとしてくる。まだまだ続いてもよさそうだ。
 タイトルの『命毛』とは、聞き慣れない言葉だが、その謎解きは巻末に出てくる。山下耕作監督から教えられたという。河治さんはこういう言葉を見つける名人だ。それも、聞き上手なのだろう。
 作り事とはいえ、本人の勉強が並ではなかったことは、わたしもよく知っている。だけれど、実現には、イサオさんの協力と、編集の矢沢さんの人柄が大きいことは、傍目からも言っておこう。

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寝たまま書物探偵所(11)・・・・喫茶店での会話 by 山田俊幸

 『命毛』(小学館文庫)は連作[国芳一門浮世絵草紙]の最終巻であるので、「あとがきにかえて」の一文がある。そこに、わたしが河治さんに声をかけた時のことが書かれている。
 人の記憶というのは面白いもので、同じことであっても、微妙に互いの記憶は異なっているものだ。河治さんの記憶とわたしの記憶も、異なっている。それは、話し掛ける必然性をわたしが持ってしまったことと、話し掛けられる必然性のないところに話し掛けられた河治さんとの、立場の違いと言ったらよいのだろう。妙に哲学めいた言い方だが、立場が変わったら、その理解も理由付けも変わる、と言うことなのだ。
 四年前の夏だったろうか、イサオさんのグループ展風土展(ふどてん)の開催前のことだ。渋谷の松濤美術館で館員の瀬尾さんと話したあと、東急本店、109を通って渋谷まで出たわたしは、持ち歩いていた絵葉書の整理をしようと、駅近くの雑居ビル地下に行き、渋谷トップスというコーヒー店に入った。ここは時々寄る喫茶店で、けっこう一人で来る人も多く、ざわついてなく、静かなのがよい喫茶店だ。絵葉書の発行年、出版元、画家名、印刷の種類、コメントなどを専用のカードに書き込んでゆく。そんな作業をしていた。ほとんどデータらしい記載のない絵葉書からすると、けっこうな難事業で、慌ただしい中ではできない仕事である。だから、ある程度の時間と、環境が必要なのだ。
 渋谷という町は、高校時代は通り道、大学では地元だ。だから旧知の場所なのだが、全く様変わりして、昔人(むかしひと)の知るところではない。ただ、トップスのある雑居ビルの一角だけは大学の頃の渋谷を残している。そんなこともあってのトップスだった。
 その日の喫茶店内も人はまばらだった。定席があるわけではないが、だいたい行くといつも腰掛ける場所がある。入口左手の奥のベンチ風の長椅子だ。その時もそこに腰掛けた。本来ならばはじの席がいいのだが、そこには人がいたので、この日は真ん中の席となった。
 そこからは店の内部のおおよそが見渡せるのだが、わたしの前の通路を隔てた席に人が座ったのがいつだったか、その記憶がない。珍しく絵葉書に集中していたのだろう。するとそこから、わりと通る声で「今、クニヨシを調べているんです」という女性の言葉が聞こえてきた。今のような歌川国芳ブームの前のことだ。クニヨシと言ったって、クニヨシ・ヤスオのことだろうと聞き流していたら、話が井上和雄の『浮世絵師伝』のこととなった。おやおや、だ。浮世絵研究でもしているのかな、と思って岩切由里子さんのことなど思い出し、さらにある出版社に岩切さんの編集で国芳画集を出さないだろうかと交渉に行ったことまで思い出した。そんなことから、絵葉書の手も休みがちとなり、けっこう周りにも聞こえる通路向こうの老紳士と若い女性の二人の会話をなんとなく聞くことになってしまった。
 それが河治さんだった。女性は、国芳の娘の小説を書こうと思うのだけど、資料がなくて、と連れの老紳士に言う。このあたりからわたしの方は、当たり前だよ、と、どうやら、いらいらし始めたらしい。国芳のことならいざしらず、国芳の娘なんかはイサオさんに聞くしかないじゃないか、そう簡単に分かるものか、である。こうした時、いつもなら相当いらいらしても、「まあ、いいや」で、無関係に済ますのだが、この時はちょっと事情が違った。小説を書くということから、千野隆司さんとしばらく前にした話を思い出してしまったのである。それが、時代小説の資料調べの大変さについてだった。「たいへんなんですよ」。それが千野さんの言葉だった。これがいけなかった。しかも、手がかりのあまりないはずの国芳の娘を調べたいと熱心にしゃべっているのだ。そんな姿と、それを包み込むように聞いている老紳士の姿を見ていると、二人とも悪い人とも思われない。そう言えば来週、セントラル美術館での風土展が始まるではないか。イサオさんはそこにいる。それだけでも教えておいてあげよう、と思い付いた。
 そうこうしている内に、その二人は話が終わったらしく、テーブルを立ち、出口に向かう。わたしは仕方なく出口まで追いかけて行って、声をかけた。「すみません。国芳をお調べならば、イサオさんをご存知ですか」と。河治さんの記憶では、声が大きいと言われるのかもしれないと思ったらしいから、最初は何を言われたのか分からないようで、怪訝な顔をしていた。だがやがて、「イサオさんのものなら、読んでいます」との返事。「国芳のことなら、来週セントラル美術館でやる風土展にイサオさんは詰めているから、そこでお聞きなさい」。わたしの役割はそれで止めとなるはずだった。
 ところで、河治さんの記憶では、そこで、「怪しい」と思ったらしい。たしかによれよれのズボンと派手な色の色あせたTシャツ姿だから、怪しいと思われても仕方ないかもしれない。そんな時に、お名刺をいただいたら?という老紳士の声があった。こちらとしては、セントラル美術館でイサオさんと会うきっかけを作ってあげただけでよかったので、名乗るつもりもなかった。妙に勘ぐられるのは嫌だなと思ったのだ。だけれども、老紳士の言葉には抗えないような気がして、しかたなく持ち歩いていた両面コッピーで作ったぺらぺらの名刺を渡した。この名刺の方がもっと怪しいなと思いながら。
 そのあと、来週と思っていた風土展は再来週の勘違いだと分かったりしたので、名刺を渡した手前、イサオさんにことの顛末を電話した。「話している相手の紳士がニコニコと聞いていて、悪い人ではないと思ったので」ということと、「国芳の娘なんて、なかなか調べられませんよね」ということを付け加えた。イサオさんには、ちょっと怒られるかなと思ったら、面白がってくれたのが幸いだった。小説を書くと言ったって、どういう雑誌に書くのかも知らない、さらにその小説を読んだこともないのだから、無責任この上ないことだった。いい歳して、愚かな話である。熱心な話しぶりと、千野さんの大変さを思い出したばかりに迂闊なことをしたと、その後は反省しきりだった。それからしばらくして、風土展の会場で、イサオさんとお会いした。申し訳なく、反省してますと、平身低頭。するとイサオさんは、おもしろかったよ、と助け舟を出してくれた。
 その後のことは、河治さんの書いたとおりである。ただ、自分のことだから書いていないことがある。立ち会ったわけではないから想像に過ぎないが、河治さんの国芳猛勉強だ。わたしなどはイサオさんのおかげで、門前の小僧的には国芳を知っている。だが、浅いものだ。ただ、河治さんにもこの浅い耳学問をまず薦めた。環境に自分を沈めておくためにだ。そこに身を置いてみると、研究者とは違った感覚が生まれてくる。物書きにはそれが必要と思ったからだ。これも実践してくれたようだが、イサオさんのところからさまざまな浮世絵雑誌を借り出して読んでいた。大変な苦労だったろう。
 迂闊な声掛けから、結果はよかったものの、だけど今でも反省しています。イサオさん、ごめんなさい。これが偽らざる気持ちである。
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