以下の一文は、洋泉社ムック『指揮者120人のコレを聴け!』(1998年6月発行/絶版)に掲載したものの再録です。ページの右・左を調整するための「埋め草コラム」でしたが、私の持論を好き勝手に書かせてもらいました。
もう、これを書いてから10年も経ってしまったのですね。感慨無量です。これを書いた頃に既に感じていたCDの制作現場に押し寄せている「いやな感じ」が、もう抜き差しならない所にまで来てしまいました。ここで書いているEMIのレッグ、RCAのジョン・ファイファー、DGのオットー・ゲルデス、デッカのカルショー、そうそう、忘れてはならないのが、「ようがす、やりやしょう」のキングレコード長田暁二さん。この人がいたからこの録音ができた、残された……。そうした仕事が、今、メジャーレーベルの中からどれほど生まれているでしょうか?
そうです。「音楽ビジネスにこそ、独裁者の出現が必要」なのです。インディーズ、マイナーレーベル、頑張れ! です。
そういえば、詩誌『孔雀船』に寄稿している半年ごとの「新譜雑感」が、そろそろ次回の原稿執筆の時期になりました。この私のブログでも何回か再掲載しているので、お読みいただいているかも知れませんが、どうしても、復刻モノやマイナーレーベルが多くなっています。次回原稿のために、そろそろ本腰を入れてネタさがしをしなくてはなりません。書き終えましたら、なるべく早く、このブログにもUPしますのでお待ちください。
●音楽に民主主義はいらない?
EMIのプロデューサーとして名高いウォルター・レッグの残した言葉に、こんな名言がある。「芸術の創造に民主主義はいらない。ひとりの偉大な独裁者がいればいい。」 これは、自信家のレッグのことだから、おそらく、レコード制作の現場での自分自身のことを、半分以上言っているに違いないが、指揮者とオーケストラの関係で言った場合にも、この言葉は当てはまるのではないだろうか。少なくとも、かつてはそうだった。癇癪持ちのトスカニーニがオーケストラの楽員と行なったやりとりは、しばしば暴君にさえも喩えられていた。
だが、とくに日本では戦後民主主義の蔓延するなかで、最近は「よい演奏」とされているものを賞賛するときに、「オーケストラの自発性がある」という言葉がキーワードになってきた。そして、和気あいあいとリハーサルをする気配り指揮者もずいぶん増えてきた。
もちろん、自発性があることが悪いと言っているのではない。しかし、自発的に演奏できるということは、独裁者ではなく、話のわかるアニキのような人が指揮台に立っているということなのだろうか? 楽団員が、それぞれ自発的に好きなことができれば、それで演奏が生き生きとしてくるというのだろうか? それは、おそらく大ウソだ。例えば、件の大トスカニーニが死んだ後、残された彼のために創設されたNBC交響楽団のメンバーたちが、シンフォニー・オブ・ジ・エアと名前を変えて活動した。「指揮者なし」と記載された録音に《新世界》や《くるみ割り人形》などがあるが、暴君のいなくなったそれらの演奏に、果たしてどれほどの「自発性」があり、素晴らしい演奏になっているというのだろう。実際には、強い意志の明確な方向性を欠いた、魅力に乏しい演奏でしかなかった。
かつてベルリン・フィルが来日したときに、楽団員たちの指揮者評が雑誌に紹介されたことがある。確かポスト・カラヤンが話題になっていた頃だったと思う。大勢の指揮者がその俎上に乗ったが、憶えているのは残念ながら二人だけだ。
ひとりはマゼール。「彼は凄い指揮者だ、われわれは感心している。だが、彼はわれわれのためにではなく、自分のために指揮している」。
もうひとりは小澤征爾。「彼はとってもいい奴だ、われわれはみんなオザワが大好きだ。だが、彼の音楽は底が浅い」。このふたつの下馬評、指揮者とオーケストラの関係の取り方のむずかしさを象徴しているように思う。
もうひとつ、来日オケの団員の言葉で印象に残っているものがある。今は亡きミュンシュがボストン響と来日したときのものだ。「僕らのミュンシュ先生は大きな音が好きだから、僕らは一生懸命に大きい音を出すのです」。その結果が、日比谷公会堂をブルブルと震わせた、戦後の来日オーケストラ史に残る演奏会になったのだ。
オーケストラの自発性とは、おそらくそうしたなかから生まれるのだと思う。愛する独裁者のために、自らの意志で全員が一丸となる。「こいつは凄い」という演奏は、やはり、偉大な独裁者なしには生まれ得ないのだ。