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富本憲吉刻・津田青楓画の、謎の版画雑誌を追う――山田俊幸氏の「病院日記」(第18回)

2011年11月17日 11時59分45秒 | 山田俊幸氏の入院日記


 以下は、私の携帯に10月19日に到着したものとその日の夜遅く到着した続編とを合わせて、1本としました。かなり長文のエッセイになってしまいましたが、これは私ごのみの、わくわくさせる内容のエッセイです。久しぶりに、山田氏の底知れぬ「力」を感じました。退院まぢかの快挙だったと言えるかもしれません。山田氏の怪我入院というアクシデントに感謝! と言ったら叱られるでしょうけれど。


寝たまま書物探偵所(18)・・・富本憲吉刻・津田青楓画の、謎の版画雑誌 by 山田俊幸

 九月に入ったばかりのこと。ちょうど入院生活に慣れかけたあたりのことだ。わたしの入院をまったく知らないキュウセイさんから携帯に電話がかかってきた。「富本憲吉の版画表紙の本は、必要ですか?」と。富本憲吉のものが出たら教えてほしいと話していたので、そのための電話だったのだが、その本については怪我の前にすでに聞いていたらしい。思い出すと、その時は、「仕入れが高いので安くはありません」と言い、値段もその時ははっきりしないので、あまりはかばかしい返事をしなかったらしい。頼んでいたのに情けないことだが、「見せてよ」くらいの返事だったろう。それが、即売会の目録が近くなり、見にも来ないが(わたしとしては、見にゆけない)、どうするのか、目録に載せていいのか、ということでの電話だった。
 具体的にいろいろ尋ねると、件の本は版画雑誌なのだと言う。版画雑誌ならば、価格が高いのも仕方がない。とりわけ同人雑誌の版画入りはキュウセイさんが大好きのものだから、山田書店、えびな書店という本屋さんと競り合うためには、市場でだいぶ頑張ったのだろうと推察した。その頑張りが、値段に反映しているのだろう。そして、聞いたことは、「富本憲吉だと思って買ったのだけど、富本刻と書いてあって、原画は津田青楓らしい」とのことだった。
 奇妙な取り合わせの本で、電話ではらちが開かない。富本刻、青楓画のイメージがまったく湧いてこない。見なくては分からないのだが、とりあえず富本憲吉記念館の山本茂雄さんに連絡して、これこれの雑誌があるのだが、と言うと、記念館に送ってみてほしいと言われた。キュウセイさんにはそれを知らせて、もし記念館で不必要であったら、山田が引き受けるとの一言を入れて、送ってもらった。
 その後、キュウセイさんも即売会で忙しかったりしたらしく、記念館に雑誌が着いたのは十月になってから。送られた雑誌は、山本さんにはピンと来なかったらしく、元気になったら一度見てほしいとのことだった。と言われても、外出の許可をとって、さすがに一人で奈良まで行く自信はない。院内は歩けても、東京の病院に変われないのはそれが理由だった。医者からは、寝た生活ばかりでなくそろそろ外出で社会適応を、とも言われている。散歩と車での移動に堪えられるかが、直近の問題となっているのだ。そんな話を山本さんにすると、本も見せたいから車を出して外出の付き添いをしてくれると言う。奈良までは一時間ほど。どれだけ車に堪えられるかという外出の試みを、十二日に行なった。
 結果は、まだまだ脚に痛みが走り十全ではないが、外出にはちょっと自信がついた。まあ、回復には向かっているようではあった。

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 さて、雑誌の話である。誌名は不明。表紙には[版画号]とあるだけ。この雑誌、誌名はおろか、ほとんど出版情報がない。雑誌の発行所は「青丹社」とあるだけで、発行場所も発行年も不記載。手がかりがまったく記されていないのだ。目次には「木版」「歌と詩」が分けられ、誌面にそれがほぼ交互に載せられている。しかも、聞いた名前の歌人も版画家もいない。山本さんが雑誌を見て、あれっと思ってしまう理由は分かる。しかも、その本文版画の出来もいま一つなのだ。富本らしいと言うと、表紙と裏表紙の壺の絵くらいで、どうみても初見で高い評価は付けられないものだ。裏表紙も、壺の絵だから富本らしいというので、表現からは疑問を呈するべきだろう。収載の版画の質も高くはない。何なのだ、これは。である。
 ただ、そんな謎の状態なので、この雑誌、我が書物探偵稼業を刺激するところがおおいにある。山本さんが持っていっていいと言うので、これ幸いと雑誌を借り受けて、また病院で寝たまま探偵と洒落込んだ。
 目次を見ると、「木版」に名が載っているのは、表紙・富本憲吉氏、裏絵・久保田幽花君とあり、後は幽花と胡の人の名が並ぶ。裏表紙の絵は、久保田幽花という人物だったらしい。「歌と詩」には、海老名氏、辻井弓心、幽花(久保田)、南秋、征矢彦(水木)、五十四郎(上村五十四楼)、宮本秋水、松本もみ。いずれも、富本の知友リストには見当たらない人々である。
 そんな中で、発行所が分からないかと雑誌から地名に関わる記載を探すと、「たが為にかくは悶はん我が心生駒が里の夕くれころ」の一首が気になる。目次からすると幽花かもしれないが、作者名はない。歌われた生駒は奈良である。そして、富本の生家のある安堵の町は、生駒郡ではなかったか。そうするなら、奈良での発行かもしれない。とすると、「青丹社」はセイタン社と読むのではなく「アオニ社」と読むとすっきりする。「あおによし奈良の都」である。それを思い浮かべさせるのだ。
 この雑誌を、そのように「青丹よし奈良」発行(発信)と決めつけると、見えてくるものが多少ある。巻頭には胡の人の小版画があり、その下に、「この集をオロして私は岡山に行かねばならぬ何うか此の誌の成長を諸君に願て置く」のメッセージがある。さらに巻末にも、「此の集は売るんじやない 青丹社へ賛成の諸君に頒つんだ 僕等何の位損をしても関はん」と書きつける。こうした熱いもの言いは青年特有だ。それから推測するなら、「胡の人」と称している人物は、相当若い人物、学生ではないかと想像できる。「岡山」に行かなければいけないと言うのは、高校進学か大学進学のことに違いない。と、そこまで見てゆくと、この雑誌、木版画の質が低いとか、絵がつまらないとか言うレベルではない、木版画の歴史においての重要な位置が浮かび上がってくるのである。
 一言で言うと、奈良の中学校あたりで「版画」の制作グループがあったらしい、ということなのだ。しかも、富本憲吉と関わって。
 従来、創作版画の始まりは山本鼎の「刀画」であり、『方寸』だということになっていた。だが、わたしからすると、山本鼎にも『方寸』にも、当時は積極的なオリジナルな「版画」意識が見えず、そうは言えないだろう、と得心が行かなかった。それよりは、イギリス帰りの富本憲吉と南薫造が試みた木版画が、版画でなくては出ないオリジナルな表現を出したと考えていたのだ。とは言え、小野忠重を祖述する近代版画の展覧会は、依然と山本鼎の刀画を始まりとしていた。わたしは富本説をいくつかの場で展開し続けたが、最近ようやく儀礼的に富本憲吉を版画の流れの初期に入れるようになってきた。だが、ほとんどと言っていいのは、富本の史的重要さを考えてではない。単に富本憲吉が「版画を作ってしまった」から、展示せざるを得なかっただけなのだ。この美術館の対応は悲しい。
 木版に関しての富本の重要さは、山本茂雄さんからの示唆と、南薫造の記念館で版木を見てからのことだった。松濤美術館での展覧が先駆けとなっている。松濤の瀬尾さんがやった「創作版画の誕生」展が、唯一、富本、南を遇した展覧会だった。だが、それから富本憲吉の版画の研究が進んだわけではない。すでに言ったが、版画の展覧会と言うと富本版画を並べはするが、それについて論じたり、版画史的に整理したものはほとんどない状態なのだ。版画研究者がたくさんいるにも関わらず、である。
 富本憲吉は、ロンドンの私費留学の帰国後、奈良の自宅を拠点としてさまざまな工芸の発信をする。木版画はその中でも重要な一つだった。その手がかりは、南薫造への手紙に残されている。

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 富本憲吉が版画と取り組んだのは、ロンドンからの帰国後である。南薫造への手紙をたよりにすると、明治44年1月25日に「木版の色づりウマク行つたナー」と言う一文から始まって、美術新報社の展覧会の展示ディスプレイを考え、版画には茶の壁面がいいだろうと提案。4月10日には展覧会の入場券と栞をかねる版画を制作。会期中の4月22日に「展覧会は先ず成功の方だらう。ひつぢの群れ(拾五円)が野の人に売れた」と書く。「野の人」は翻刻者の推測だが、もし野の人ならば高山樗牛の弟、「斎藤野の人」だろうが、残念ながら斎藤野の人は42年に亡くなっている。別人だろう。
 ここで注意すべきは、「ひつぢの群れ」の版画である。展覧会からしばらくたった6月14日に、「僕は此の頃何むにもせずに木版ばかり。それと云ふのは近頃水彩でやるより木版の方が良い様に思はれる。最近のもの御覧に入れる。此れは版を用ふる皿(山田註:「版を用ふる画」ではないか?)。風景を木版にやつた処女作。South Kensingtonにある仏人のやつたヒツヂの木版が目にちらついてやつて見たくて仕方がないのでやつた。ツマラヌものだが望の半分はやれたつもりだ。」と書く。
 この、売れたひつぢの群れと、目にちらついてやったヒツヂが同一作品かどうかは、時期もズレていて不明だが、いずれもフランスの版画家アンリ・リビエールのヒツヂの作品からインスピレーションを受けたものにちがいない。同一作品であるなら、展覧会で野の人に売った一点の他、南用にも摺ったものだろうか。サウス・ケンジントンの美術館つまりV&Aは、富本、南共通の思い出のある場所でもある。リビエール版画の印象も共通の記憶だったかもしれない。
 版画の歴史と言うなら、ここでは富本側からだけでなく、南も同様に作っているのだから、南の側からも見なければ片手落ちだろう。だが、如何せんわたしの手には南の情報が全く入ってこない。広島県美で南の資料の整理を進めたとも聞くが、ネットかなにかで調べられるのだろうか。従ってここでも富本側の一方的情報によることにする。
 さて、富本は同じ6月に、多色摺り木版で「雲」の図を作成している。そして、7月8日に「今朝やつたものを御めにかける。ドローイングを木版にしたもの。/「壺その五(なむきん)」/といふ名。」と、これは単色墨摺りの版画を封入。8月18日には、小屋を描いた多色摺りの小版画を南に送っている。
 じつは富本はこの時期、三宅克己の水彩画にも関心をもち、図案ではなく水彩画に入れ込んでいた。従って、水彩の風景画を木版で起こすことに喜びを覚えていたようだ。ドローイングの木版化も、その延長線上にある。そして、この時期の作品で、多色摺り木版の技術がほぼ完成していたことを、わたしたちは知っておく必要があるだろう。その前提を理解しておかなければ、富本がこの後展開する、稚拙に見える図案木版の意味をまったく取り違えることになる。
 富本の大きな転換は、この後に訪れてくる。水彩の木版化、ドローイングの木版化が、「木版」という表現に次第に変化し、そして「模様」へと転じていくのだ。
 次の年、明治45年の5月1日には、「太平洋画会に変な焼画や木版画が列べてあるとか」と言い、木下杢太郎の『和泉屋染物店(いずみやそめものみせ)』の表紙を木版でやったと書く。この本の装幀には、富本の原版画を伊上凡骨が装幀用に彫り直したものが用いられた。
 そして、11月26日、「三越流の模様や外国の雑誌、ドイツの下等の模様が入り混じつて居る東京に居られる兄に注意を要する事を書きそえる事を光栄とする」と、模様=図案の現在を書き記す。「模様」がこの時期から主軸になったからだ。
 三越流というのは、杉浦非水のセセッション図案が登場する前の橋口五葉などの元禄模様あたりを指すのだろう。外国雑誌はこの時期だから、大方アールヌーヴォ・デザインの紹介雑誌。ドイツは、『装飾と工芸(ドイッチェ・クンスト・ウント・デコラション)』あたりの図案なのだろうか。1910年代だから、ウイーン・セセッション・デザインなのかもしれない。アール・ヌーヴォと言い、ウイーン・セセッション・デザインと言い、流行のデザインである。富本は流行のそれらを、「注意を要する」と言う。それなら、何が求められるのか。それは、富本自身が仕事の中で、木版の模様とともに証明することになる。
 富本の転換後の仕事は目まぐるしく、また、精力的だった。東京に出るべきかとも迷うが、結局は奈良法隆寺近くの安堵を拠点とする。仕事は、版画ばかりでなく、革工芸、刺繍、木彫と多岐にわたる。だが、その中でも、富本がとりわけこだわったのは、やはり「模様」と直結した木版画だった。

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 話が長くなったが、今回発見された雑誌『(仮題)青丹 版画号』は、富本のその時期のものなのだ。発行所は、前回に推定したように「青丹(あおに)よし奈良」から、奈良の生駒山が望めるあたりと推定。発行年も不明だが、詩歌の末尾に「一二。六、一九四一(一九一四、に訂正)」「一九一四、六」の制作日があるから、大正3年の夏あたりと考えられる。とすると、この年は三笠、田中屋での展覧会と図案研究所の開設があった年である。一般的には、楽焼きが制作の中心になった年とも言われる。その時期の版画雑誌への協力だった。
 表紙の版画だけの協力だが、それが奇妙なことに津田青楓の原画に依る、と言うのだ。
 巻末の一文を書き写そう。
 「此の集は売るんじやない 青丹社へ賛成の諸君に頒つんだ 僕等何の位(どのくらい)損をしても関はん。/今度記念にもと思つて編集皆を引き受けて遣りました木版には印刷屋もずいぶん手古摺りました。/絵と文字とは没交渉だから其の心算で読んで頂き度い這ナ小冊子だが随分骨が折れた表紙絵は青楓氏筆富本氏刀其他は自画自刀だ。/ぢや之れでお訣れ致します何だか。/此の地を去りともない。/―胡の人―」
 富本憲吉と津田青楓は、南宛書簡に「それから津田君からは未だ何むとも手紙が来ぬが今日あたりはたしか京都で展覧会をやつて居る筈」(明治45年4月7日)と見えるのが初めだろう。7月27日には「津田君に団扇をうつて貰つた金で安芸へ行かふと思ふて居たのが(略)」と書き、さらに津田が借りたという海辺の家に誘われたとも言う。急速に親密の度を深めている。団扇とは、この時、富本は肉筆団扇も制作し、それも話題になっていたのだ。それを、津田青楓が売ってくれたらしい。
 さらに、翌大正2年5月1日から6日まで、大阪三越では富本、津田の『美術工芸品展覧会』が開催された。この展覧会が好評だったことは、「私の楽焼の図案が面白いというのでよく売れました。売行は百三十円でした。」と、富本が回想をしていることでも分かる。これに対する津田青楓側の気持ちは、すでに『富本憲吉と西村伊作の文化生活』のパンフレットに書いたから再度は触れない。若者たちには濃密な熱い時間かこの時にはあったのだ。
 『(仮題)青丹 版画号』はその次の年(大正3年)の刊行だ。富本憲吉と津田青楓との合作があっても、不思議ではない。しかも、表紙版画は、富本が津田青楓に売ってもらったという団扇の図だ。よくよく因縁めいている。
 この、団扇の中の人物図を見た時、わたしはどこかで見たと思った。チャイナ服の女の子が下駄を履いて手を広げている図だ。周りにはチューリップの花盛り。そんな稚拙な絵が団扇の中に描かれる。けれども、なかなか思い出せない。ありがちなことだから、しばらくは仕方がないとあきらめていた。山本さんから雑誌を預かり、しばらくして、ようやくあれではないかと思うものがあった。とは言え、病院暮らしの身。山本さんに電話をかけて、調べてもらうこととなった。
 わたしが思い出したのは、二十年近く前に三重県立美術館で行われた『二十世紀美術再見』という展覧会だった。この展覧会には、ひょんなことでわたしが絡むことになる。そのきっかけを作ってくれたのは山本さんだった。これについては、別の機会に書こう。
 この展覧会は、わたしの強い要望で、学芸員の土田真紀さんがたくさんの装幀本を展示してくれた。書物は工芸と考えて欲しい、と言うのがわたしの言い分だった。土田さんは、そんなわたしの提案を見事に実現してくれた。現在、「本」を美術品として並べることは当たり前になっているが、当時はそんな時代ではなく、本画主義の時代だ。なにかと大変だっただろう。
 その展示物の中に、青楓の似た図があったように思ったのだ。山本さんにお願いしたのは『ル・イブウ』という雑誌。イブウは、木菟(みみずく)である。カタログを調べてもらったら、どんぴしゃり。同じ図だった。
 大正2年の刊行である。
 つまり、富本は大正2年に津田青楓が『ル・イブウ』に寄せた表紙絵を、今度は『(仮題)青丹 版画号』のために、団扇絵図に仕立て直して版画としたのであった。たしかに、津田青楓の絵は借りられているが、版画の表現は間違いなく富本憲吉のものである。彫り残しや、枠のラインのわざと行う断ち切りや彫り込み、いずれも見事なものだ。やや小ぶりで押し出しはないが、富本版画の優品として良いだろう。
 ところで、この雑誌、もう一つ書いておくべきことがある。それは「版画号」ということについて。
 この雑誌メンバーをわたしは、奈良の若い人々。高等学校学生くらいと推測したが、その学生たちが、版画と文字の冊子(雑誌)を作っているのは、驚きである。わたしは持論として、雑誌のコマ絵が自刻の創作木版になったという仮説を立てている。その推論を証拠立てるような版画なのだ。
 版画のいくつかは小杉未醒の線の細いコマ絵よりは、竹久夢二のザクッとしたコマ絵に近い。まさに大正のコマ絵スタイルなのだ。それを彼等が自刻したという。ただ、あきらかにコマ絵と違うのは、ぶきっちょながらも富本的彫り残しや断ち切り、彫り込みが見られるということなのだ。小杉未醒のコマ絵は、筆を主としたものだから突然の断ち切り、彫り込みは少ない。だが、富本の画面作りには、この彫り残し、断ち切り、彫り込みが、画面の空気感を左右する。雑誌メンバーたちは、その富本の技術を真似ているのだ。とすると、この冊子が明らかにすることは、安堵の富本の周辺に一時期ではあったが、版画のグループが存在したということなのだ。
 同じ頃、東京でも夢二周辺に版画を試みる若者たちが集まっていた。彼等が版画の新世紀を築くのだが、奈良で富本と版画制作を共有していた若者たちがいたことは、まったく知られてはいない。しかも、彼等はコマ絵ではなく「版画」を意識した制作をしていたのだ。版画の歴史を埋める、一つの大事な事実がこの雑誌によって明らかになったと言ってよい。
 このように、この冊子が富本周辺で作られたことを証拠立てるものは、他にもある。一見して富本かと思う裏絵のカップの図(久保田幽花)は、まちがいなく富本制作の楽焼きだし、「ロシヤダンス」(胡の人)も、富本の近くにあったものかもしれない。
 富本が奈良に持ち帰ったものは多い。明治44年7月28日の南宛の手紙に富本はこう書いている。
 「絵が出来き上つたら一時奈良へ来ないか。/(略)/奈良と云ふても天平の推古ばかりでない。ロシヤの音楽、アビシニアの銅、一寸眼さきの変つたものをイミテーシヨンながら御覧に入れるつもり。」
 今は失われたものが多いだろうが、その片鱗は富本憲吉記念館で見ることができる。だが、その記念館も今年度で閉館すると言う。文化を支える行政がない国だから仕方がないが、支援をしてくれる団体や企業もないことが残念だ。

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