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ピエール・モントゥのチャイコフスキー

2009年02月06日 14時57分59秒 | ライナーノート(BMG/RCA編)




 以下は、1996年8月26日に執筆したBMGビクターのCD(規格番号:BVCC-8941~42)のために書かれたライナー・ノートです。2枚組で1枚の価格程度というシリーズのはしりです。演奏についてだけでなく、書き下ろしで曲目解説も依頼されましたが、当時としては最も新しい情報で書きましたので、「名曲事典」などからの流用で記述の誤りを踏襲してしまっているものよりも情報としては正確だと思います。当時、ドイツで出版された「チャイコフスキー」の伝記の翻訳出版の話が浮上していて、その関係で、たまたまいくつか調べていたと記憶しています。久しぶりに読み返しましたが、割合コンパクトにまとまっているので、このブログにも掲載します。ただ、全体が長くなってしまうのと、ブログの趣旨も混乱してしまうのとで、明日、別個に掲載することにします。

■モントゥーのチャイコフスキーを聴く

 ピエール・モントゥーの残したチャイコフスキーの交響曲演奏は、後期の3大交響曲に限られているが、いずれも、端的な表現で音楽の構造を的確に捉えた演奏だ。その虚飾を排したさっぱりとした展開から、チャイコフスキーの熱っぽいドラマが大きくせり出してくるといった、極めて純器楽的な演奏と言えるだろう。
 チャイコフスキーの後期の3つの交響曲は、いずれもドイツ・ロマン派系の多くの作曲家の交響曲と同じく、作曲者の人生観のようなものが色濃く反映している。そこに焦点をあてて感情の起伏を大きく描いていくのが、第2次世界大戦後もしばらく続いていた伝統的な演奏スタイルだった。そこでは響きはあくまでも弦を主体にしており、大きくうねる音楽がロマン派の精神を高らかに歌い上げていた。その中にあって、1950年代後半に録音されたこのCDアルバムのモントゥー盤は、当時としてはかなり斬新な演奏だ。そして、今日に至っても新鮮な魅力を失うどころか、むしろ新たな発見がある理由が、そこにある。
 例えば、「第4交響曲」の第1楽章。序奏の〈宿命の動機〉の提示の後、第1主題が8分の9拍子で現われるが、その内声部の不安定な動きが刻明に聴きとれることに驚く。このモントゥーの演奏が、それだけにとどまらず、最近の解析的な演奏と一線を画しているのは、じわじわと早まってゆくテンポの揺れが名人芸的で、生き物のように自在なことだ。
 第2主題でも、木管の動きに大らかにまとわりつく弦楽器の旋律がくっきりとしたラインを確保して、長調に転ずる第3の主題を導き出して全体を統合している。展開部での第1主題と宿命の動機の闘争でも、混濁のない鮮明さが守られ、再現部の第2主題の管楽器の響きからはエレガントな香りが漂ってくる。弦と管とのバランスのとれた抜けのよい響きを確保したコーダまで、モントゥーは、くっきりとした枠組みのなかでエモーショナルな高揚を表現する。これほどに人間的な温かさを維持しながら、モダンでスマートなチャイコフスキーを実現できる指揮者はいない。
 こうした特徴は第2楽章のチャーミングな木管の響きや、ピチカートで表現される第3楽章の、躍動感にあふれつつテンポが自然に変化していくあたりにも共通している。終楽章の華やかさも、見事なオーケストラ・コントロールから生まれた成果だ。チャイコフスキーが失意の果てにたどり着いて、この作品を完成させたイタリアの地の陽光を思わせるような明るさが実現されている。
 他の曲の演奏も、モントゥーの表現の骨子は同じだが、「第5番」はモントゥーのチャイコフスキーでは唯一、複数の録音が残されているので、オーケストラによる仕上りの違いを比較することができる。色彩感の豊かさでは当CDのボストン響との録音が群を抜いている。これは当時、シャルル・ミュンシュを音楽監督に迎えて、戦後の黄金時代を築いていたこのオーケストラの、当時の実力でもあるが、RCAが誇るリヴィング・ステレオの録音技術にも負うところも大きいだろう。
 ちなみに、このアルバムの一連のチャイコフスキー録音は、「第6番」「第5番」「第4番」の順に行われたが、オリジナルの米RCAで「第6番」は1956年にモノラル盤が先行発売され(LM-1901)、ステレオ盤は59年の発売(LSC-1901)。RCAが1958年春に第1回ステレオ発売を行った直後に発売された最初期盤にあたるのは「第5番」だ(LSC-2239/LM-2239)。1959年に録音された「第4番」は、翌60年に発売されている(LSC-2369/LM-2369)。日本では日本ビクターから「第6番」のモノラル盤が、早々と1955年12月に発売されたが、ステレオ盤の発売は、いずれもアメリカより数ヵ月遅れたようだ。

■ピエール・モントゥーについて

 今世紀を代表する大指揮者のひとりピエール・モントゥーは、1875年4月4日にパリで生まれた。1896年にパリ音楽院をヴァイオリンで首席卒業したが、在学中の12歳から指揮の勉強もしていたという。卒業後パリ・オペラ・コミーク管弦楽団やコロンヌ管弦楽団のヴァイオリン奏者を務めたが、やがて指揮者に転向。1911年に「コンセール・ベルリオーズ」を結成、同時にディアギレフが率いるロシア・バレエ団の指揮者ともなり、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」「春の祭典」、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」の初演の指揮を担当、今世紀の音楽史上の重要な証人のひとりとなった。作曲家からの厚い信頼を得ていたが、特にストラヴィンスキーは、モントゥーの死を悼んでの作曲もしている。
 1917年にニューヨークのメトロポリタン歌劇場の指揮者に就任した後、第2次世界大戦前にボストン交響楽団、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、パリ交響楽団、サンフランシスコ交響楽団などで活躍、サンフランシスコとは、戦後の1952年まで関係が続いた。その後はフリーで活躍し、LP時代になってからも多くの録音を様々なオーケストラと行った。最晩年の1961年から死の64年まで、80歳を超える高齢にもかかわらずロンドン交響楽団の首席指揮者を引き受けて、生き生きとした力強い演奏を維持していたが、1964年7月1日に、静養中のアメリカ、ハンコックの自宅で、愛妻に看取られて静かに世を去った。
 モントゥーは、主観を排し、楽譜に込められた意図を的確に引き出す優れた手腕を持っていた。レパートリーは広範で、それぞれの音楽のスタイルに応じて、表情や色彩の豊かさ、躍動するリズムの冴え、大胆なテンポの変化などを使い分けるところに、真の職人としての見識を感じさせた。19世紀に生を受けて今世紀の前半から活躍していた指揮者では、ドイツ精神主義とまったく離れたところに立脚しながら、スケールの大きい音楽を実現したほとんど唯一と言ってよい稀有な大指揮者だった。




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