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N響の1960年世界一周公演ツアー記録のCD/カイルベルトとケルン放響/クレンペラーのドキュメンタリー

2017年02月01日 16時14分29秒 | 新譜CD雑感(クラシック編)

 

半年ごとに、新譜CDの中から書いておきたいと思ったものを自由に採り上げて、詩誌『孔雀船』に掲載して、もう20年以上も経ちました。2011年までの執筆分は、私の第二評論集『クラシック幻盤 偏執譜』(ヤマハミュージックメディア刊)に収めましたが、本日は、最新の執筆分で、先週書き終えたばかりの昨年下半期分です。いつものように、詩誌主宰者のいつもながらのご好意で、このブログに先行掲載します。なお、当ブログのこのカテゴリー名称「新譜CD雑感」の部分をクリックすると、これまでのこの欄の全ての執筆分が順に読めます。

 

■伝説の「NHK交響楽団1960年海外公演」が初CD化

 日本のオーケストラによる初めての世界一周公演ツアーとして知られているN響の一九六〇年ツアーの演奏が、8枚のCDアルバムでキングインターナショナルから発売された。九月一日から十一月一日までの二ヶ月、三〇公演に及ぶものだから、もちろん「全貌」という訳ではないが、ツアー全体の様子がかなり俯瞰できるものになっている。同行の指揮者がまだ三〇歳にもならない若い岩城宏之と外山雄三、そして当時の常任指揮者ウィルヘルム・シュヒター。協奏曲のソリストとしてピアノが園田高弘、松浦豊明、そして、まだ一六歳だった中村紘子。チェロが一八歳の堤剛というメンバーだった。日本のオーケストラが本格的にクラシック音楽の演奏をするようになって、まだ数十年しか経っていない時期の記録として、このような体系的なリリースは貴重だ。このツアーのアンコール用に作曲された外山雄三『ラプソディー』が岩城、外山、シュヒターと、三人の指揮でそれぞれ収録されているのも凄い。岩城はワルシャワ、外山はローマ、シュヒターはロンドンでの公演。思わず、その三者三様を聴き比べてしまったが、改めて岩城宏之の自然で伸び伸びした音楽に感心した。だから、このアルバムの一枚目、冒頭に収められたモスクワ音楽院大ホールでの岩城が指揮するチャイコフスキー「交響曲第5番」が、まず、強く印象に残った。この曲はチャイコフスキーの交響曲の中で一番、日本人の演奏に向いていると思っているが、岩城のこの録音も、なかなかのもの。特に第二楽章のひた押しな音楽の運びには息をつかせない力がある。岩城が日本人として最初の『ベートーヴェン交響曲全集』録音を日本コロムビアにするのは、このツアーが終わって数年後、一九六七~八年のことだが、その下地が二ヵ月にわたって少しずつ固められて行く過程を聴く思いがするアルバムでもあった。岩城/N響には、一九六七年のチャイコフスキー『悲愴』のコロムビア録音もあるが、『悲愴』は、このツアーでも取り上げられていて、今回のアルバムではスイスでの公演が収録されている。『悲愴』は『第5番』以上に岩城にとって繰り返し取り上げられ録音も残されている曲目だが、その数ある岩城の『悲愴』の中で最も若い時の録音がこれだ。N響の『悲愴』には、一九五四年にカラヤンが指揮した貴重な録音もある。岩城の最後のN響定期でも『悲愴』が取り上げられていてCDが追悼盤として発売されているから、この曲で定点観測をしてみるのもおもしろいと思った。定点観測と言えば、もうひとつ、興味深いテーマがある。中村紘子のショパン『ピアノ協奏曲第一番』だ。彼女が「その曲のことを想っただけで、ふと胸がいっぱいになるような、自分の過ぎ去った日々のなかで何ものにもかえ難い価値をもって光り輝いているような、本当に特別な1曲」と表現したこの曲も、シュヒター指揮のロンドン公演で収録されている。これもまた、彼女の最初の録音である。中村は、この五年後にショパン・コンクールで同曲を弾き、その本選での伴奏者ロヴィッキ率いるワルシャワ・フィルと再会した一九七〇年の録音、更に、満を持しての一九八四年フィストラーリ指揮ロンドン響との録音がある。このツアーの記録からは、「怖いものなど何もない」といった活きのよいピアノが聞こえてくる。後年、「日本人が西洋音楽を演奏するとはどういう意味があるのか?」と自問自答する以前の中村紘子の演奏だ。私は、ふと、ケルンの放送局のライブラリーでみっちりと〈学習してしまった〉若杉弘が、そんな学習前に活き活きと日本人の感性をぶつけていたころの読響の演奏を思い出した。西洋音楽の学習は〈魔物〉なのだ。学習後の中村や岩城と、若杉の違いとは何だったのか? また、大きなテーマが生まれてしまった。


■カイルベルト/ケルン放送響の名演が4枚組で発売

 

 第二次大戦が終結して直後のヨーロッパで最もドイツ的だった指揮者というと、誰が思い浮かぶだろう。ひょっとすると、その筆頭に挙げられるのは、カイルベルトかも知れないと思うことがある。あとは、クナッパーツブッシュ、エーリッヒ・クライバーあたりだろうか? クレメンス・クラウス、ヨーゼフ・クリップス、カール・ベームといった名前は、ウィーン寄りだし、多くの人材がヒットラーの時代に国外へと散り散りになり、地歩を失っていたからでもある。そのカイルベルトの録音が、ケルン放送局(WDR)の正式なライセンスを得てWEITBLICKというレーベルから、4枚組CDアルバムで登場した。すべて最晩年一九六六年~六七年にケルン放送交響楽団を指揮したステレオ録音。東武ランドシステムから日本語解説付きで発売されている。ケルン放送局のライブラリーには多くの名演が保管されているが、今回のカイルベルトは特に音質もよいコンディションだ。曲目は、ベートーヴェン『田園』『コリオラン序曲』、ブラームス『第一』、マーラー『第四』、ドヴォルザーク『新世界』、モーツァルト『三三番』。ブラームスは、ベルリン・フィルとのテレフンケン盤をはるかに凌駕する名演で、この剛直で堂々とした音楽の歩みは貴重だ。『新世界』もそうだ。一方、この指揮者としてはめずらしいマーラーでは、この時代のマーラー解釈の限界も感じてしまったが、緩徐楽章の甘美な鳴らし方にはメンゲルベルクを思い出させるところもあって興味深い。モーツァルトがベートーヴェンのように聞こえるのも、いかにも、だ。どれも単に「往年の~」では済まされない、貴重な記録だと思う。


■クレンペラーのドキュメント映像は興味深いが――

 『クレンペラー・ドキュメンタリー』というDVD二枚、CD二枚に、かなりのページ数の書籍まで付いたセットが発売された。ドイツの「ART HAUS MUSIK」の制作だが、映像は日本語字幕が付いている。「ロング・ジャーニー~彼の生きた時代」と題されたドキュメントと、クレンペラーがニュー・フィルハーモニア管弦楽団を指揮した一九七一年のラスト・コンサートに向けてのリハーサルや楽団員たちの証言ドキュメント、いずれも秀逸の映像に、そのコンサート本番全体を収録しCDが書籍とともにパッケージされている。CDは、二〇〇八年に英テスタメントから既に発売されているものと同内容だが、今回は、独ARCHIPHONにより「丹念なリマスタリングが施されている」と表記されている。だが、このCDに大いに疑問がある。有名なEMIのフルトヴェングラー/ウィーン・フィルの「未完成」もそうだったが、最近、リマスタリングによって演奏時間一〇分ほどのものが三〇秒以上も短くなることが多いのは、どうしたものか? 私は、ひとつには、最近の経験の浅いエンジニアが、機械的にピッチを「正しく修正」してしまうからではないかと疑っている。往年の名ディレクターのレッグなどの証言では、オーケストラの調律ピッチは国によっても、時代によってもマチマチだったという。クレンペラーがそうしたピッチを要求していたとしても不思議ではない。いずれにしても、このCD、テスタメント盤では互いの音を聞き分けるかのような絶妙の間合いだった木管の受け渡しなどが、奇妙にてきぱきしている。これがクレンペラーの指揮した音楽とは、とても思えないのである。


 

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