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METライブビューイング『ウェルテル』は、マスネの傑作オペラを、文学的にも完璧に舞台化したと思う。

2014年04月15日 17時30分13秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

 このところ、メトのライブビューイングの鑑賞が続いている。昨日は夕刻から予定が詰まっていたので、まだ明かるいうちから「東劇」で、メトロポリタン歌劇場での3月15日公演を収録したマスネ『ウェルテル』を観た。終演のカーテンコールの画面に送られながら外に出たら、晴海通りはまだ明るかったが、頭の中にはマスネの音楽が鳴っていた。
 演劇畑の演出家リチャード・エアによる新演出は、ゲーテ原作によるウェルテルの苦悩劇を、徹底して枠組み(フレーム)の中に、まるで一種の標本箱のように封じ込めてしまうもので、すべてが手の内で、チェスの駒のように動く。
 それを可能にしているのが、マスネの音楽の緻密な仕上がりだ。リチャード・エアは、これまでに4本しかオペラの演出をしていないという。「納得できた作品だけを手掛ける」と豪語するエアは、マスネの音楽が完璧だったから演出を引き受けたという。それを、ことさらに納得したのが第三幕。ワーグナーの影響を受けたとされるマスネ作品だが、エアの演出で、マスネの音楽のすべての細部が、心理描写やそれを演劇的に具現化する動作に合わせられるように書かれていると思い知らされた。一挙手一投足が、彼の演出にかかると、すべて音化されているように見えてくるのだ。曲想の変化に敏感に照明も、カーテンも変化し、場面が転換する。第三幕から第四幕への突入では、三幕の舞台に入れ子構造のように第四幕の悲劇の舞台となる小部屋が嵌め込まれているといった具合だ。
 フランス音楽としては異例なほど、管楽器の効果を最小限に押さえ、ほとんど弦楽合奏のメロディラインで、情感の動きを辿る音楽語法が丹念に続けられる(もちろん、有名なサクソフォーンが効果的なアリアも、すばらしかったが)。指揮のアラン・アルタノグルは初めて聴くが、音量の幅が大きい割りに、突出を抑えることも要求されるむずかしい音楽を、よくコントロールしていた。ウェルテル役のヨサス・カウフマンと、シャルロット役のソフィー・コッシュは、シェークスピア劇並みの名優ぶり。画像で観るこの曲の、最高の記録かも知れないと感嘆した。
 今回の上映は、今週の金曜日(18日)まで。

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 いよいよ来月の上映は、ゼフィレッリ演出による『ラ・ボエーム』。予告編で流れたミミ役のアニタ・ハーディングが病気で降板し、クリスティーヌ・オボライスに代わるそうだが、もう20年以上にもなるかと思うゼフィレッリの伝統的な演出が、まだ色褪せていないことを確認できるだろう。
 私ごとで恐縮だが、『ラ・ボエーム』は、初めてこの目で観たのが、後にも先にも、私の唯一のウイーン滞在の折、ウイーン国立歌劇場でのこと。1990年代。今では知らぬ人のいない名指揮者、アントニオ・パッパーノが、イタオペの当番指揮者に採用されたばかりの時期だ。「この指揮者、絶対、その内に頭角を現わす」と信じさせた指揮ぶりを、今でも思い出す。その時、日本を出る前から、この『ラ・ボエーム』鑑賞も予定に入れていたので、耳慣らし用にウォークマンで聴きながら行ったが、その時選んだCDの演奏が、メトのプロダクションをビーチャムが指揮して残したEMI盤(初出は英HMVと米RCA?)だったことも思い出した。
 何はともあれ、楽しみな『ラ・ボエーム』である。

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