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リルケと女性たちとビオ・ソフィア――山田俊幸氏の「病院日記」(第17回)

2011年11月16日 11時08分35秒 | 山田俊幸氏の入院日記



 以下は、10月11日に私の携帯に到着した山田俊幸氏のエッセイです。


寝たまま書物探偵所(17)・・・リルケと女性たちとビオ・ソフィア by 山田俊幸

 猪狩さんからの「午後のメール」、「~キッペンブルグのリルケ途中までですが読んでます」とのメールがあった。5日のことだ。すでに4日のメールで、読みはじめたと書いていたので、これを見て、猪狩さんはニーチェからリルケに行ったのかと、わたしとしてはちょっと感激をしていた。
 病院で不自由だろうに(それはわたしも同様なのでよく分かる)、ハインリッヒ・マン編集の『ニーチェの言葉』と、キッペンベルクの『リルケ』がよく手元にあったと、これも感激なのだが、猪狩さんの選択の順序がルー・ザロメの遍歴と同じなのが面白いと思った。しかも、『ニーチェの言葉』の翻訳は確か原田義人ではありませんかとメールしたら、そうだと言われ、猪狩さんが原田義人の訳でニーチェを読んでいることも、わたしをもっと嬉しくさせた。原田義人は、加藤周一や加藤道夫、福永武彦、白井健三郎などと同世代で、戦後すぐの翻訳を担った人だ。わりと若くして亡くなっていて、評論集がたしか遺稿として残されている。わたしはこの人の翻訳書も集めたことがあって、大好きな翻訳者なのだ。そして、キッペンベルクのリルケ。星野慎一の訳だ。戦後すぐのリルケ・ブームの中で翻訳された本だが、猪狩さんの読んでいるのは、「世界の人間像」という選書に収められたものだ。これは、平凡社の「世界教養全集」(?)だったかを真似して角川書店が出した選集だが、今からすると、平凡社の収載は教養を元としたオーソドックスな編集、それに対して角川書店は、それとかちあわないように人間的魅力ということで伝記を集めた類似品の「隙間」選集と言ってよい。ではあるが、現在ではけっこう読み難くなっている伝記が収められていて、この選集、なかなか便利なものなのだ。キッペンベルクのリルケがその中に入れられたのは、やはりリルケの芸術家としての生き方が当時共感を得ていたからだろう。時代は、詩の季節、リルケの季節だった。
 猪狩さんは言う。
 「リルケの基本文献を山田さんに話をするのもおこがましいですが……。リルケの死生観、とりわけ独特の「死」の観念が綴られた章は、同時代を生きた女性の感覚が直に感じ取れます。後々も様々な女性との遍歴があるようですが。」と。
 言うとおり、わたしなどは二十世紀を女性原理の時代だと思っている。ルー・ザロメがニーチェを覚醒させ、十九世紀末に神の時代を終わらせたように、リルケの人間としての死の二十世紀もまた、ルー・ザロメによってもたらされたのであった。その後のリルケも、女性たちとの感応の中で、自分を支えていったように見える。
 ジグムンド・フロイトからユングへ。帝国主義から原始共産主義へ。都市から田園へ。男性原理から女性原理へと、二十世紀は大きく舵を取ったのである。猪狩さんの言い方を借りるなら「女性の感覚が直に感じ取れる」時代になったのである。
 ビオ・ソフィア(生の知)は、生死が人間のものとなった時に生まれる。有名なニーチェの「神は死んだ」は、「神を殺してしまった」、ということなのだ。そこから、人間として生きること、人間として死ぬこと、という「生の知」の在り方が問われることになる。ドイツのユーゲント・シュティールは、青春の生命の溢れとともに、つねに死、あるいは喪失感が表裏で現れ出ている。ハインリヒ・フォーゲラーの詩画集『あなたに』は、まさにそうした人生をなぞった本だった。この流れは、ウィーン分離派の装飾画家とも見られがちなクリムトにも言えるだろう。ベートーベンのフリーズ。ここにも画家のビオ・ソフィアを見るべきだろう。クリンガーの版画連作、ベックリンの「死の島」。美術史家がなんと言おうと、このビオ・ソフィアを避けて語るわけにはいかない。
 猪狩さんが、ニーチェとリルケに感じ取ったものは、世紀末、あるいは自身の転換期に対してビオ・ソフィアが問い掛ける問題だったのだと思う。そう考えると、「朝夕めっきり寒くなってきました 。入院中ですが、体調にはくれぐれも気をつけて下さい。車椅子ですか?猪狩」と書いてきた猪狩さんが向き合っている問題は、わたしなどよりははるかに大きいのだろう。
 研究対象としてのニーチェは、あらゆる所で論じられている。だが、ニーチェを自分の問題としてとらえた論者は少ない。そんな中、日本の思想が若かった時に出版された一冊の本の名をここで挙げておこう。中沢臨川の『嵐の中』。猪狩さん、持っていますか。


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