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フォーゲラーの詩画集『あなたに…』と、ユーゲントシュティール――山田俊幸氏の病院日記(第10回)

2011年10月24日 13時31分46秒 | 山田俊幸氏の入院日記





 前回のブログUPから、2週間近く経ってしまいました。このところ、「しおり」本の下版に忙殺されていた余波が押し寄せてきて、何も手に就かない状態でした。そうこうしているうちに、山田氏から、退院予定のメールまで来てしまいました。溜まる一方の「寝たまま探偵所」を早く掲載しなければ、と焦るばかりです。予定通りなら、今日、退院です。今は落ち着かないでしょうから、私からのメール、電話とも遠慮しています。明日か、明後日、尋ねてみます。何はともあれ、「寝たまま」が「そのまま」どころか「起きあがってしまう」という事態になりました。第20回まで溜まっています。掲載、なるべく急ぎますが、私自身は、『クラシック・スナイパー(8)』(青弓社)用の原稿を早く仕上げなくてはなりませんし……。

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ビオ・ソフィアとフォーゲラー――寝たまま書物探偵所(9)by 山田俊幸


 数年前に、思い付いて、ハインリヒ・フォーゲラーの詩画集『ディアー(あなたに…)』を自費で出版した。この詩画集は不思議な本で、十九世紀末にヴォルプスヴェーデで一度発行され、その甘やかな絵と詩章とでフォーゲラーを一躍ユーゲントシュティール(青春の様式)の王子の位置に押し上げた詩画集だった。
 この詩画集にはモデルがいる。詩画集上梓の後に結婚したマルタ・シュレーダーだ。フォーゲラーには、何枚もの写真(十九世紀末のことだから、けっこう高価だったろう)が残っていて、そこにはこの詩画集の女性そっくりなマルタと、その衣裳とを見ることができる。つまり、普通に考えるならば、恋人マルタとの愛をテーマにした詩画集だと言えるだろう。
 だが、詩と絵は短絡的な解釈を裏切る。詩に表れているのは、甘いラブ・ロマンスではない。死を隣に置いた「生」の形、別れを宿命とした「愛」の形なのだ。フォーゲラーは、そのドラマを詩画集に封じ込めるため、マルタとともに「あなたに…」を演じた、と言ってもよい。甘やかな表現の中に、厳しい現実があるように、青春(若者たち、ユーゲント)はつねに傷つきやすく、現実に対して脆いものだ。フォーゲラーもまた、ユーゲントの夢を失ってゆく。
 この詩画集が再刊されるのが、1919年のこと。詩画集が初めて出されてから20年ほどしてからだ。フォーゲラーはユーゲント・シュティールを捨て、立体派の構図に近づき、さらにプロレタリア・リアリズムを模索していた時期だ。「不思議な本で」と言ったのはそれである。なぜ、妻マルタとの訣別が決定的になってから、恋人であり妻でもあったマルタの思い出である詩画集を再刊したのか。それが、不思議なのだ。
 未練とも考えられるし、単に出版で共産主義実現のための資金を得るためとも考えられる。それでも、なぜ、である。
 いや、そのいずれも、なのかも知れない。当面の資金調達は待ったなしだ。第一次世界大戦でドイツの失ったものは大きい。目前には、経済疲弊があり、孤児がいる。ユーゲント・シュティールの時代から夢見がちで理想家だったフォーゲラーはその現実を受け入れることはできない。現実的には、そのための商品としての出版であったろう。だが、「本」というものは商品ではあるが、しばしばそれを裏切る。現実が理想を裏切るように、理想もまた現実を裏切るのだ。それは、「本」はつねにメッセージだからだ。
 ここでもそれがあったのだろう。失われたもの、失われた過去、それへの切実なメッセージがこの「再刊」には込められていたのだ。かつての愛の怯え、愛の歓喜。マルタとの自然の中の愛の生活。フォーゲラーの思いはつねにそこに還っていった。
 ユーゲント・シュティールの時代は、「ビオソフィア(生の知)」に関心が寄せられた時代でもあった。一個の「人間」として生きることが問われた時代であった。フォーゲラーのスタイルは、それを反映している。脆く傷つきやすいスタイルだが、それのなんと魅力的なことか。
 フォーゲラーの詩画集の翻訳をしてくれたのは、阪本恭子さんだった。阪本さんは、わたしの勤めている大学でドイツ語と生命倫理を教えていた。わたしは、その阪本さんから「ビオ・ソフィア」の話を聞いた。神の領域から、生命が人の領域に移ったときの「知(哲学)」の問題についてである。。それがユーゲント・シュティールと連動した動きであることに気づいたのは、それからしばらくしてだった。ニーチェからそれが始まったという。
 長い前置きだか、それが猪狩さんの「午後のメール」につながる。前回に続いて台風のさなかのメールだ。

 「入院以来二度目の台風の最中です、マンの要領を得た文章から、昨日の続きですが、抜き書きします」と言い、ハインリヒ・マンのニーチェ解説を、猪狩さんは引用する。
「彼は余りにも病んでいたので~彼ならこういうであろう~余りに健康であったので」、「ここにひとつの事実がある、一人の病者が自分の運命を認め、決してそれが終わることのないように願うまでにそれを愛ししている」、「彼は自己の果たすべきすべてのもののために、それから後10数年間しか持たなかったのである、作品、作品による力、他のあらゆる栄光を彼の光によって凌ぐこと、それ故また、健康であること、こうした一切のことのために、彼の数多い苦悩から、彼はひとつの新しい、もっと高い健康というものをつくり出した。自分が健康であると宣言した」、「実際、病気は内面の健康であり得るし、その逆も真である」、「私には何ら病的な兆候はない、最も大きな病気にあっても、私は病気にならなかった」。
 そして、マンは最後の締めくくりでこう書いているという。「彼の教義は、最も自由、最も聡明、最も高い魂たちの宗教であらねばならない。金色の氷と純粋な空とのあいだの牧場の笑いでなければならない」と。

 ニーチェから、生命への問が始まる。芸術もまた生命とともにある。「乙女デザイン」などとのんびり構えているが、その向こうにある憧れや、悲しみ、生命の危機や歓喜、それがとらえられての乙女デザインなのだ。

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【竹内の付記】
 このブログ冒頭の写真が、山田氏が文中で言っている『あなたに…』の表紙です。山田氏と私と、あと何人かの仲間とで学生時代に始めた出版組織「風信社」を発行名義にして久々に刊行した書籍です。今のところ、書店流通では扱っていませんが、まだ残部がありますので、コメントにてお申込ください。コメントは、非公開扱いです。頒価1500円にて、お受けします。

(追記)

ご希望の方は、下記の「郵便振替口座」に送料「180円」を添えてお振込みください。その際、振替伝票の裏面「通信欄」に、「『あなたに』希望」と記載の上「送品先住所」を書き添えてください。

振替口座 : 00120-6-**134399


 


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