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ヘルヴィッヒのマーラー「交響曲第5番」の不思議な〈なつかしさ〉に想うこと――近代人の〈抒情〉の形象

2010年09月17日 10時35分16秒 | BBC-RADIOクラシックス




 1995年の秋から1998年の春までの約3年間にわたって全100点のCDが発売されたシリーズに《BBC-RADIOクラシックス》というものがあります。これはイギリスのBBC放送局のライブラリーから編成されたもので、曲目構成、演奏者の顔ぶれともに、とても個性的でユニークなシリーズで、各種ディスコグラフィの編者として著名なジョン・ハントが大きく関わった企画でした。
 私はその日本盤で、全点の演奏についての解説を担当しましたが、それは私にとって、イギリスのある時期の音楽状況をトータル的に考えるという、またとない機会ともなりました。その時の原稿を、ひとつひとつ不定期に当ブログに再掲載していきます。そのための新しいカテゴリー『BBC-RADIO(BBCラジオ)クラシックス』も開設しました。
 なお、2010年1月2日付けの当ブログにて、このシリーズの発売開始当時、その全体の特徴や意義について書いた文章を再掲載しましたので、ぜひ、合わせてお読みください。いわゆる西洋クラシック音楽の歴史におけるイギリスが果たした役割について、私なりに考察しています。

 以下に掲載の本日分は、第2期20点の13枚目です。



【日本盤規格番号】CRCB-6053
【曲目】マーラー:交響曲第5番 嬰ハ短調
【演奏】ギュンター・ヘルヴィッヒ指揮BBCフィルハーモニー管弦楽団
【録音日】1984年3月27日


◎マーラー「第5番」
 このCDの指揮者ギュンター・ヘルビッヒは、1980年代の初め頃までは当時の東ドイツで活躍していた。その後西側に移り、このCDのBBCフィルハーモニーへもしばしば客演していたが、最近は毎シーズンのパリ管弦楽団への登場を初めとしてヨーロッパの各都市やアメリカで、オーソドックスなドイツ音楽の手応えを聴かせる数少ないひとりとして評価が高まっている。
 ヘルヴィッヒの、マーラー演奏は、スコアの隅々まで照射するアプローチで聴く者を説得するといったものではなく、あくまでもシューベルトやシューマンに連なるロマン派の系譜の延長で、オーソドックスに捉えられたマーラーだ。全体に弦楽を主体にした歌に力点を置き、豊かな抑揚で歌い継いでゆく。オーケストラの技量から、しばしば響きの混濁を生じてしまうのが惜しいが、その分だけ、縦のラインをぴたりと揃えた管理の行き届いた演奏にはない味わいが聴こえてくるのは、ヘルビッヒの音楽のベースが、自然な流れに根ざしているからだ。第2楽章の表情付けには、〈自然〉に対峙する人間の哀歓が感じられ、最近の自意識の過剰に彩られたマーラーを聴き慣れた耳になつかしさを感じさせる。
 近代の抒情は、攻めぎあう対立の構図を引出す底意地の悪さとでも言ったものに振り回されているが、ヘルビッヒのマーラーには、調和と同化を求めてやまない人間の優しさがあふれている。だから、有名なアダージェット楽章から終楽章への流れも、暗部をえぐりだすよりも、明るい未来へと向かって行く高くかかげた希望を、ことさらに意識させる美しい演奏となっている。終楽章では、金管セクションがしばしば飛出しすぎたり、リズムの刻みがくずれたり、と問題が噴出する。旋律の重層的構造を克明に追えないための緊張感の断裂を立て直そうとする、ライヴ録音ならではのヘルビッヒの苦心の跡も聴き取れる。だが、だからといって、全体の印象がバラバラに分散してしまうわけではない。オーケストラの弱点をあまり気にさせないで、結局、最後まで聴かせてしまうのは、ヘルビッヒの、ドイツ・オーストリア音楽のオーソドックスな価値に対する揺るぎない自信と慈しみがさせていることだろう。(1996.1.30 執筆)

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