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ハチャトゥリアン『ピアノ協奏曲』、ポルトゥギーズ/チェクナヴォリアン/ロンドン響のCD

2009年09月28日 07時55分00秒 | ライナーノート(日本クラウン編)


 以下は、英ASVのCD(国内盤)のライナーノート、1992年7月17日の執筆です。このところ当ブログに掲載している一連のチェクナヴォリアン/アルメニア・フィルのシリーズが発売される以前のリリースです。日本ではハチャトゥリアンについての文献が少ないので、かなり力を入れて「作曲者解説」「曲目解説」を書きました。私のハチャトゥリアンについて書いた最初のまとまった文章だったかもしれません。その後、この文章の骨子から少しずつ発展させて何度も書いています。
 私は1980年代に、当時編集長をしていた出版社、泰流社で『アルメニア史』という、おそらく日本語で出版されるアルメニア文化に関する初めてと思われる一般向け書籍を、半ば強引に企画を通して、編集出版しました。持ち込まれた原稿を書いた方、佐藤信夫氏の情熱を信じたからでした。仕上がった本はかなりのページ数でしたが、それでも、その時、持ち込まれた原稿の約3割程度を私が抜粋、再編集したものでした。それしか出版できなかったのです。当時、もう既に、出版界も、困難な状況に陥っていました。真面目な仕事を世に出すのには、かなりの覚悟が必要でした。
 この時に得たアルメニア文化に対する知識が、ハチャトゥリアンの音楽の背景にあるものを理解する上で、大いに助けになりました。以下に掲載する「ハチャトゥリアン」は、他ではなかなか読めない内容に仕上がったと自負しています。

《ライナーノート・全文》

●ハチャトゥリヤンの生い立ち
 アラム・イリイチ・ハチャトゥリヤンは、1903年6月6日に生まれ、1978年5月1日に世を去った作曲家だ。その名は、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチと共に、先頃、国家としての存在を解消してしまった「ソ連」を代表する現代作曲家として語られることが多いが、生地は長い間「ソヴィエト連邦」に編入されていたグルジア共和国の中心地トビリシ(当時はチフリスと言った)近郊の村であり、幼い頃から青年時代までのほとんどを、このトビリシで育った。
 グルジア共和国は、アルメニア共和国、アゼルバイジャン共和国と並んで、ソ連邦の南西端、コーカサス山脈の南側に位置する、いわゆる〈外コーカサス地方〉のひとつだ。このあたりは南をトルコ、イラン国境と接しており、ロシアの文化圏とは異なるものを持っていることは、最近の政治的混迷を見ていても解るとおりだ。
 その地を故郷とするハチャトゥリヤンが、〈ソ連〉を代表する作曲家のひとりとなったのは、貧しい製本職人の息子であった彼に英才教育を施し、作曲家として大成させたのが、社会主義体制下のモスクワ音楽院だったからだ。
 兄の勧めで、ソヴィエト政権確立後のモスクワ大学で、生物学を学ぶはずだったハチャトゥリヤンが音楽家となったきっかけは、モスクワ音楽院でのコンサートだった。そこでのベートーヴェンの「第9」とラフマニノフの「ピアノ協奏曲」がハチャトゥリヤンに、音楽家として生きることを決意させたのだと言われている。
 ハチャトゥリヤンは少年時代から音楽好きで、外コーカサス地方の民謡を百曲近く口ずさみ、多くの民族楽器を巧みに弾きこなすことができたが、19歳になるまで、専門の音楽教育を受けたことがなく、楽譜もまったく読めなかったという。そんな状態での音楽学校受験だった。ハチャトゥリヤンを〈みがかれざる宝石〉と評価した〈グニェシン中等音楽学校〉に入学した彼は、そこで研鑽を積み、26歳でモスクワ音楽院に入学した。言わば晩学の作曲家であった。
 ハチャトゥリヤンは、その生涯に、彼の最も広く知られた作品「剣の舞」を含む舞踊組曲「ガヤネー」(ガイーヌ)、「仮面舞踏会」、「スパルタクス」などの舞台用音楽の他に、大管弦楽のための主要作品としては、交響曲が3曲、協奏曲がピアノ、ヴァイオリン、チェロのためにそれぞれ1曲ずつ、「コンチェルト・ラプソディー」と名付けた連作が同じく各1曲ずつある。(「フルート協奏曲」は前記「ヴァイオリン協奏曲」の編曲)。
 その他、ピアノ曲、室内楽曲、吹奏楽曲など、広い分野にわたって作品を残している。

●アルメニア人、ハチャトゥリヤン
 ところで、グルジアの中心地トビリシで育ったとはいえ、ハチャトゥリヤンの家系がアルメニア人であったことを忘れてはならない。 〈アルメニア〉を名乗る地域は、現在では旧ソ連邦内のアルメニア共和国だけとなってしまったが、かつてはコーカサスからトルコのイスタンブールあたりまでを指していたこともある。そして、アルメニア民族は、ユダヤ民族と同じように、かなりの規模で世界中に散らばり、アルメニア商人として、世界の表裏で活動している。
 (アルメニア人は自らのルーツを明らかにすることが少ないが、日本での数少ないアルメニア学者佐藤信夫氏の推定によれば、例えば米GMの副社長だった自動車王デロリアン、ロッキード社の元社長コーチャンはアルメニア人だと言われている。そして、戦後の音楽界に君臨したヘルベルト・フォン・カラヤンも、ビザンティン帝国下にマケドニアに移住したアルメニア商人の末裔であるという。)
 音楽の話に政治を持ち込むつもりはないが、ハチャトゥリヤンが、ソ連の社会主義政権下でショスタコーヴィチらとは異なり厚遇され、しばしば国家的な賞の対象となったのは、彼が、党に妥協した作曲家だからではなく、党中央にとって、外コーカサス地方との融和策に貴重な存在だったからだろう。アルメニア共和国の国歌の作曲者でもあるハチャトゥリヤンは、正に世界中のアルメニア民族の旗手であったといってよいだろう。
 彼は現代ソ連の中に身を置きながら、非ロシア的民族主義の立場で、アルメニア民族の精神を現代音楽の中に高い水準で花開かせた最初の作曲家であった。

●「ピアノ協奏曲」の初演と国外での反応
 ハチャトゥリヤンにとって唯一の「ピアノ協奏曲」は、ハチャトゥリヤンの評価を決定づけた出世作とされている。1936年に作曲された。この年ハチャトゥリヤンはモスクワ音楽院の大学院を修了したが、既に33歳で、その2年前には「第1交響曲」を作曲している。
 初演は翌1937年7月12日にモスクワに於いて、レフ・オボーリンの独奏、レフ・シュテインベルクの指揮で行われたが、オーケストラが混成チームで、しかもリハーサルの時間があまりなかったこと、会場が野外劇場の夏のコンサートだったことなど悪条件が重なって、みじめなものであったようだ。
 だが、この年の秋にモスクワでアレクサンドル・ガウクの指揮で、レニングラードではエフゲニ・ムラヴィンスキーの指揮で、それぞれ優れた演奏が行われ、国内では正当に評価されるに至った。作品は初演者の名ピアニスト、レフ・オボーリンに捧げられた。
 ところで、国外では初め、どのように評価されたのだろうか。
 モーラ・リンパニー女史の独奏で1940年に行われたロンドン初演が、この曲の国外での演奏では重要だ。その後リンパニーは、パリ、ブリュッセル、ミラノと、各地で精力的にこの曲を紹介した。しかし、彼女の努力にもかかわらず、ヨーロッパではなかなかこの曲の真価が広範囲には理解されなかったようだ。1955年版のロンドンで刊行された「レコード・ガイド」にも、的外れな酷評が見られる。そこでは、この作品は「長々しく退屈な作品」とされ、第1楽章は「スロット・マシンといい勝負だ。元気旺盛な若者たちが、安物の陶器を叩き割っている」ようだと表現されている。第2楽章では「おどろおどろしい楽器の音による神秘的な運命」に捉えられ、第3楽章で「ようやく蒸暑いテントから脱出できる」と、散々の悪口雑言だ。この作品がヨーロッパで正当に評価されるにはもう少し時間が必要だった。

●様々のレコードによる演奏
 この作品は、国外ではヨーロッパよりもアメリカで先に好評を得たようだ。レコーディングもアメリカの方が早い時期から積極的で、かなりの数があるが、中でも1950年のRCAによるウィリアム・カペル/クーゼヴィツキーでの録音は有名だ。カペル盤は、その芝居がかった身振りの演奏が、当時のこの曲の一般的イメージを思わせるという点で、興味深い演奏だ。
 ヨーロッパの一連の初演を行ったリンパニーも、52年頃にフィストラーリ指揮で英デッカに録音している。これはカペル盤とは異なり、極めて率直な演奏で、早めのテンポで、気負いや思い入れを抑えたものだが、イメージの鮮烈さに欠け、混濁があるのが難点だ。
 また、初演者オボーリンのピアノと作曲者自身の指揮による録音が、1956年にソ連メロディアによって行われている。この演奏からは、民族色にあふれた独特のリズムや節まわしの個性的な魅力が、手に取るように聴こえてくる。作曲者自身のイメージを感じとる上では、これ以上のものはないだろう。実に雄弁な演奏だ。
 この他では、70年代になってから録音されたアントルモン/小沢盤、ラローチャ/フリューベック・デ=ブルゴス盤が興味深い。

●このCDの演奏について
 では今回はじめて日本に登場するポルトゥギーズのピアノ、チェクナヴォリアン指揮ロンドン響による演奏は、どういうものだろうか。
 この演奏の特質をひとことで言えば、安定した見通しに支えられた演奏ということになるだろう。これは、根拠のない中傷に晒されることの多い現代作品に於いては、特に貴重なことだ。リズム・アクセントの配分もテンポの揺れも、全体の中での位置付けが明快で、確信にあふれたものとなっている。主題の展開が手に取るように聴き分けられ、独奏とオーケストラとのやりとりも注意深く進行する。この曲がアルメニアのイディオムを採り入れ、かなりラプソディックな表情を持ちながら、実は極めて論理的に構築された作品であることを、この演奏は的確に示している。
 第1楽章の展開部での、独奏ピアノのカデンツァ風の扱いや、雄弁な管弦楽部と対置され等分にやりとりする独奏ピアノなど、通常の協奏曲の域を超えた大胆な書法が、くっきりと浮び上がってくる演奏だ。
 チェクナヴォリアンはアルメニア人指揮者だが、彼はこの演奏で〈アルメニア人の語法〉を持ち出すよりも、〈現代人の語法〉を堂々と打ち出している。ポルトゥギーズのピアノも、感傷を排した硬質な響きを維持して、粒立ちのよいピアノを聴かせる。共に、この曲の真価を問う高い見識のある演奏だ。
 オボーリンと作曲者自身による演奏は、アルメニア色の表出の豊かさと、音楽的に高度な即興性とで他を圧する名演だが、この曲が作曲者の慈愛から解き放たれ、真に現代の音楽として次世代に聴かれ継がれるためには、このポルトゥギーズ/チェクナヴォリアンによる演奏は、格好のものであると言える。

●曲目についてのメモ
《ピアノ協奏曲》
第1楽章 アレグロ・マ・ノン・トロッポ・エ・マエストーソ。ソナタ形式の1種と考えてよいだろう。管弦楽による序奏の後、独奏ピアノで第1主題が提示される。管弦楽も加わり次第に高揚し、いったん静まるとオーボエに導かれて第2主題が登場する。この主題はそのまま、独奏ピアノでカデンツァ風に展開される。やがて管弦楽と独奏ピアノが激しくわたりあい、ラプソディックに進行する。再現部は力強く第1主題が独奏ピアノに戻ってきて開始されるが、管弦楽がその周辺を装飾する。第2主題の再現は木管セクションが奏するが、今度は独奏ピアノがオブリガートを付ける。カデンツァとなり、第1主題の総奏による短いコーダで力強く結ばれる。
第2楽章 アンダンテ・コン・アニマ。夢想的な魅力にあふれた楽章だ。先にバス・クラリネットが即興的な旋律を奏し、ゆっくりとピアノが加わる。ゆったりとした歩みのまま高揚し、やがて耳慣れない響きが登場するが、これは、〈フレクサトーン〉と呼ばれる体鳴楽器の一種で、そのグリサンドを伴なう音は、オリヴィエ・メシアンや、アンドレ・ジョリヴェの作品で知られる電子楽器オンド・マルトゥノのようにも聞こえる、神秘的な響きが魅力だ。
第3楽章 アレグロ・ブリランテ。フィナーレに相応しく輝かしく開始される。プロコフィエフの機能主義的なスタイルを思い出させる目も眩むようなトッカータ風の展開だ。生気にあふれたカデンツァが奏された後、冒頭楽章の第1主題が回想されて終る。

《ソナチネ》
 ハチャトゥリヤンは、1950年を境に、作曲活動のほかに、自作の指揮活動と、教育活動を開始した。「ソナチネ」はそうした中から生まれた教育的作品のひとつだが、同時に作曲者自身の創作上の歩みにとって、手法の簡潔さを追求した結果の、磨かれた感性による抒情の表現の到達点のひとつとして、完成度の高い作品ともなっている。
 全曲は3楽章から成る。1958年から59年にかけて書かれ、プロコーピエフスク市の音楽小学校の生徒たちに捧げられた。

《トッカータ》
 ハチャトゥリヤンにとっては、初期の学生時代の作品だが、かなり早い段階から広く国外でも知られ、出版、演奏された作品だ。作曲者自身「私のいちばん最初のピアノのための作品といってよい」と述べている。1932年の作とされているが、実際はそれ以前、モスクワ音楽院入学の1929年よりも前に着想された作品の可能性もある。

●演奏者についてのメモ
 アルベルト・ポルトゥギーズはロシア人とルーマニア人の血を引いてアルゼンチンに生まれたピアニスト、兼、指揮者。生年が手元の資料では判らないが、ブエノス・アイレスで学んだ後、60年代にはジュネーブでマドレーヌ・リパッティ(ディヌ・リパッティの未亡人)、ヨウラ・ギュラーにピアノを、ヘルマン・シェルヘンに指揮を学び、1971年にリストの「第1協奏曲」でロンドンにデビューしているという。この経歴でもわかるように、決して若手ではないが、日本では、おそらくこれが初登場の録音だろう。

 ロリス・チェクナヴォリアンは、1937年にイランに生まれたアルメニア人の指揮者、兼、作曲家。1954年からウィーン音楽アカデミーでハンス・スワロフスキーに指揮法を学んでいるが、それ以前は、ほとんど独学でヴァイオリン、ピアノ、作曲を勉強し、16歳で、テヘランで合唱団を組織したといわれている。イギリスを活動の本拠にしているが、アルメニア交響楽団の主席指揮者にも就任している。
        

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