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音楽にとって「異国趣味」とは何か?

2008年10月02日 19時09分48秒 | エッセイ(クラシック音楽)
 以下は、1997年春に発行された『クラシック音楽の聴き方が変わる本』(洋泉社ムック/絶版)に掲載した原稿の再録です。このブログの前々回、9月17日の「演奏家の晩年を考える」を掲載したのと同じムックです。執筆完了も同じく1996年11月23日です。構成も同様で、ムック全体は各テーマごと原稿全体の半分くらいを占める総論的まえがき2ページ分と、それを受けて後半は具体的にCDを掲げて書く各論2ページという構成でした。

 9月17日のブログでは、掲載原稿の前に、「演奏家のラストコンサートについて、ある友人に問われて思い出した」原稿だと書きましたが、その友人とは、気谷誠氏。がんが転移しているのが発見されたが、もう手の打ちようがないとわかったという報を聞いて訪ね、彼と会話して帰ってきた直後のブログでした。まもなくやってくる自分の死をじっと引き受けていた彼との、ブルーノ・ワルターの最後の録音である「モーツァルト集」を聴きながらの会話を、私は生涯、忘れないだろうと思います。気谷誠氏は、その数日後、先月の22日に帰らぬ人となりました。
 私の手元には、彼が自身の所有していたSPレコードから私的に作成した、二ノン・ヴァランが歌うショパンの『別れの曲』を録音したCD-Rがあります。徹底した文献研究家だった彼らしい説明の言葉を聞きながら、その日、そのCD-Rを一緒に聴き、借用して帰りました。
 「すぐ返してね」「もちろん」――。彼にもう時間が残されていないことは十分承知してのやりとりでした。私は、ダビングを終えた二ノン・ヴァランを、彼に送ってあげると約束したケンプの弾くブラームス晩年の「小品集」のCDと一緒に、その日の夕方、大急ぎで宅急便で送り返しました。別れ際に、「ひとつ楽しみができた。」そう言っていた彼の笑みを思い出しながら、間に合ってほしい、と思って発送しました。
 気谷氏からは、コレクターは自分のコレクションについて語る義務がある、ということを教わりました。(私の本の「あとがき」で、このことはずいぶん昔に書きました。)彼の心の安らかならんことを、願っています。
 なお、今回再掲載する《異国趣味とは何か》で紹介している「喜波貞子」のCDの存在は、気谷氏に教えてもらったことです。

■音楽とエキゾチシズム
 この項のテーマは、西洋音楽における「異国趣味」ということだが、そもそも、異国趣味とはなんだろう。辞書を引くと、大雑把には「外国の変った風物を好む趣味」と定義されているが、それが芸術表現の上では「外国の情景や事物を取り入れて、異国的な雰囲気を出そうとする傾向」ということになり、別名を「エキゾチシズム」と言う、とある。この言い方、わかったようでいて、わからない。「外国の情景や事物で異国的な雰囲気を出す」というのが曲者で、ここでは「外国」と「異国」とどう違うかが、まず大事なのだ。「異国」の定義は「風俗、習慣などが異なる国」。つまり、単によその国ならば外国だけれども、「あっ、ちがう所に来ちゃったな」という気分にさせてくれる場所が異国なのだ。東京育ちの私が「ラディシオーン・シルブプレ」なんて言いながら、パリの中古LP店で初期盤を買い漁ったり、「ツァーレン・ビッテ」と叫んでウィーンのHMVでバーゲンCDを買うのは、ただの外国でのお話。むしろ、北海道バス旅行で、キタキツネに遭遇するほうが、よっぽど「異国趣味」に近かったりして……。
 非日常的な場所への移動から刺激を受けようとするのが「異国趣味」なのだ。だから、西欧の秩序だった音楽から自由になるための便利な「装置」として「異国趣味」はとてもよく機能した。 けれど、西洋人にとっての「異国」と、私たち日本人にとっての「異国」では、最近になるまでは随分とニュアンスが異なっていた。
 私の高校生時代、1960年代の終わり頃、わが妹の愛読誌『少女フレンド』の新連載マンガのキャッチフレーズに「どこか知らないステキな外国の少女のお話よ!」というのがあった。この年頃の記憶というのはおそろしいもので、私は未だに、この言い回しが忘れられないし、この時以来、この美学こそが「少女マンガ」やタカラヅカの本質だ、と信じてしまった。
 この「どこか知らない外国」という匿名性は、ヨーロッパのタカラヅカ歌劇(でもないか?)、オペレッタでもよく登場し、知らない国の王女様や、知らない国の大富豪がやたらといる。だが、われら日本人が「ステキな外国」とあがめ奉ったのと違って、文明の発達で数歩先んじたという自信に満ちたヨーロッパの人々の「知らない外国」は、不可思議で神秘的で、時として未開の国なのだ。それは、オペレッタから発展したアメリカ製ミュージカル『南太平洋』や『王様と私』を観ても同じこと。この自国優位の思想が、彼らの「異国趣味」の底流だということは、しっかりと記憶しておこう。だったら、かつてのように憧れのまなざしでパリやニューヨークを見ていた時代から、見事に脱却してきた今日の金満日本ならば、クラシック音楽の「異国趣味」のスタンスがわかるかも知れない。

●《ザンパ》序曲(エロールド)

○ポール・パレー指揮デトロイトso.
[Ma-マーキュリー:PHCP10224]1960
△アルベール・ヴォルフ指揮パリ音楽院o.
[英DECCA:425739-2XN]a.1960

 ほとんどこの1曲だけで名前が残ったエロールドのオペラ《ザンパ》は、「異国趣味」の定番、海賊が主人公の物語。華やかでド派手な接続曲だが、世界の海を股にかける海賊だけあって、なんとなくさまざまな国が思い出される国籍不明の旋律が次々に登場する。いろいろな国の好みの響きやリズムが目まぐるしく入れ替わるのが何と言っても楽しいし、やたらチンチンと鳴るトライアングルもいい。正調本格和食割烹でひとり静かに幻の名酒を味わうのとは違う。渋谷あたりの、韓国とインドとタイとイタリアが同居した怪しげな居酒屋で仲間と飲んでいるような面白さだ。ワイワイと騒ぎまくるに限る。
 快速テンポでまとめながら、ニュアンスの変化に敏感な名人、パレー盤がダントツ。さまざまな音楽のスタイルを身に付けた人のうまさが光るアラカルトだ。一方、ヴォルフ盤は、レヴュー音楽的雰囲気一色に塗り込めてしまってチャンコ鍋状態だけど、案外これがフツーの人の口には合ったりして……。

●交響組曲《寄港地》(イベール)

○レオポルド・ストコフスキー指揮フランス国立放送o.
[To-キャピトル:TOCE8854]1959
△シャルル・ミュンシュ指揮ボストンso.
[BM-RCA:BVCC9368]1956

 地中海各地の港をローマから、シチリア島、北アフリカ、スペインと、時計回りに航海する。いかにもチョット立ち寄っただけの人の作品ですといった気楽さがいい。ストコフスキー盤で聴く第2曲、北アフリカの場面は滑稽なほどの傑作。蛇使いのようなおどろおどろしい雰囲気をことさら強調していて、西洋人にとっての、不可解な世界の類型的イメージを代表しているようだけれど、「蛇使いの音楽のようだ」と言ってしまう私の中にある類型的イメージって何だろうと、思わず反省もしてしまった。だけど、アラビアン・ナイトに出てくる蛇使いが北アフリカに現われるのは、中東的な雰囲気が地中海の周辺をエジプトからチュニスまで巡っているからで、ストコフスキーの北アフリカが、私のアラビアと結びあうのも正解というわけだ。
 初演者パレーの演奏も相当にアラビアンだが、ミュンシュ盤で聴くと何やら南フランスのたそがれのようにも思えてしまう。拍節がきっちりしていて合理精神で割り切れているからだ。

●イベリア(ドビュッシー)

○アタウルフォ・アルヘンタ指揮スイス・ロマンドo.
[Po-ロンドン:POCL9707]1957
△ピエール・モントゥ指揮ロンドンso.
[Ma-フィリップス/PHCP2034]1963

 ドビュッシーはかなりの日本趣味を持っていたが、ここではスペイン趣味の作品について。ドビュッシーに限らず、フランス人のスペイン好きはかなりなものだ。フランスでは途方もなく大げさなホラ話を「スペインの城のようだ」というらしいが、とにかく彼らの描くスペインはおおむね南国的なおおらかさ、開放感にあふれている。イギリス人は北の方へとその憧憬の触手を伸ばした人が多いが、フランス人は南へと、暖かい土地へと向かっていった。もっとも、地球儀で地中海あたりから同じ緯度でたどると、日本では「津軽海峡冬景色」とほとんど同じ。それだけ、ヨーロッパは日本よりも寒いのだ。
 〈イベリア〉は《管弦楽のための映像》の中の1曲。充実した書法でイメージ豊かな作品だが、スペインの名指揮者アルヘンタの手にかかると、ほんとにスペインの音楽になって、力強くアタックしてくる。原色塗りたくりのスペクタクルだ。こまやかな音彩を快適リズムで味わうのならば、モントゥ/ロンドン響だ。

●マダガスカル島民の歌(ラヴェル)

○マドレーヌ・グレイ(s)、モーリス・ラヴェル指揮アンサンブル
[To-EMIクラシックス:TOCE8573]1932
△ジェシー・ノーマン(s)、ミシェル・デボスト(fl)、ルノー・フォンタナローザ(vc)、ダルトン・ボールドウィン(pf)
[英EMI:627-565-526-2]1983

 ラヴェルにとって「異国趣味」は、西洋の慣習化され、標準化された書法から離れて自由になる方便として、特に重要だった。それは、初期の傑作歌曲《シェエラザード》に聴かれる東洋趣味にも結実しているが、この《マダガスカル島民の歌》はフルート、チェロ、ピアノの伴奏という限られた編成の伴奏によって、より先鋭化されている。第2曲〈アウアー〉の冒頭。叩きつけるピアノの不協和音は、西欧的秩序を打ち壊そうとするが、それを「マダガスカル」という反文明的イメージを言い訳にしているところが、西欧的気取りのポーズを守り通したラヴェルのズルいところ。
 ラヴェルに指揮された(と言われている)3人のアンサンブルを伴奏にマドレーヌ・グレイが歌った盤は、作曲者自身に理想の歌唱とされている。だから、一応、これが表盤。
 ノーマンの旧盤はうまい! この曲をしっかり西欧のドラマ秩序に収めて、近代歌曲史の中での、この曲の役割を定位させている。

●歌劇《蝶々夫人》(プッチーニ)

○林康子(s)他、ロリン・マゼール指揮ミラノ・スカラ座o.、演出:浅利慶太
[Pa-パイオニアLDC:PICL2010]1986,L(LD)
△喜波貞子(s),ミラノ・スカラ座o.
[Vi-アートヴィレッジ:VXCD1001]a.1938

 プッチーニほど異国趣味を興行としてのオペラに盛り込んで傑作を残した人はいない。《西部の娘》《トゥーランドット》もそうだ。
 ところで、《蝶々夫人》。これは日本が舞台になっているというけれど、そこは彼ら西洋人にとって「小高い丘の上」の異文化の世界、中空に浮いた別天地といった、どこにもない国なのだ。そこのところを見事に様式化して見せたのが浅利慶太の演出。珍妙な日本まがいの舞台が多いなかで、日本を西洋人の架空世界として抽象化されたものとしてとらえかえし、提供したのが日本人というのもおもしろい。
 戦前から彼らのエキゾチシズムを満足させた日本人ソプラノとして三浦環がいるが、今聴いてみると、名声ほどではない。むしろ、今日あまり話題にする人はいないが、明治35年生まれの喜波貞子(きわ・ていこ)。これは本格的オペラ歌手だ。数奇な運命を辿った人だが、『忘れないで私を』と題する〈ある晴れた日に〉を含む1枚のCDだけが残されている。

●日本組曲(ホルスト)

○エイドリアン・ボールト指揮ロンドンso.
[英LYRITA:SRCD222]1971

 組曲《惑星》で有名な作曲家の作品に、われらが日本をテーマにした音楽があるとは! さぞかし日本への憧憬の深い人だったのかと思いきや、実は、この作品、日本の舞踊家に依頼されて書いた作品なのだ。ご本人は「日本のことなどわからん」と言うので、この依頼主が手とり足とり、日本的な旋律をレクチャーして仕上げたものだという。作曲されたのが1915年だから、ちょうど《惑星》を書いている最中だ。〈城ケ島の雨〉みたいな暗い雰囲気で始まり、〈お江戸日本橋〉まがいの旋律が登場し、終わりの方では、「ぼーやわぁ、良い子だぁ、ねんねしなー」が、木管の受け渡しで尺八のように鳴りながら、ストリングスがからむ。なかなか泣かせてくれます。異国を素材に自身の表現意欲を昇華させたラヴェルなんかと違って、しっかりと商業主義の手際よさで極東の国「日本」を、“そのまんま東”してしまったケッサク。私は、このボールト盤しか知らないけど、この他の録音を知っている人いたら、教えて!

●バレエ音楽《くるみ割り人形》(チャイコフスキー)

○フェルディナント・ライトナー指揮ベルリンpo.
[独DG:427219-2]1959?
△マルク・エルムレル指揮コヴェントガーデンo.
[BV-コニファー・クラシックス/BVCO7303]1988?

 チャイコフスキーの3大バレエは、パリの宮廷バレエの流れを受けているだけに、王子や王女が登場し、架空の国や異国からの来賓ありと、エキゾチシズムには事欠かない。《くるみ割り人形》は、夢のなかでお菓子の国の城に到着した少女クララを歓迎するバレエ場面。コーヒー(アラビア)、お茶(中国)などの踊りに、チャイコフスキーの異国のイメージが聞こえる。 イタリア旅行で刺激を受けたチャイコフスキーはイタリアを描くとき、この人には珍しいほど開放的で明るい陽光がさんさんと注ぐような旋律を書いて、どれも目の前に光景が迫ってくる。だが、バレエ曲では《くるみ割り人形》が少女クララの夢の中であるように、どれも作曲者の想像の産物としてのソフト・フォーカス的甘さが漂う。
 そうした幻想の世界をドイツ的な情感で描いたライトナー盤は、ロマンティックな演奏の代表。やっぱりドイツの森はファンタジーのふるさとだ。一方、エルムレル盤は明瞭なラインで、単純にバレエ音楽している。

●劇音楽《ペール・ギュント》(グリーグ)

○ネーメ・ヤルヴィ指揮エーテボリso.
[Po-グラモフォン:POCG7093](抜粋盤)1987
△ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィアo.
[BV-RCA:BVCC9353]1972~75

 花嫁を放り出して旅する放蕩無頼の男ペールの物語だから、これも異国情緒たっぷり。有名な〈朝の気分〉という曲。あれはモロッコ海岸の夜明けなのだが、作曲者も、鑑賞者も、「ああ、これがモロッコ海岸の夜明けなんだなぁ」と空想に浸るわけ。〈アラビアの踊り〉も名作。中東的な音楽の常識ともいうべきトライアングルとタンバリンでチンチンシャンシャンと鳴らしてそれらしい雰囲気にするあたり、ノルウェーのグリーグもしっかり勉強している。西洋音楽の教養というものは、たいしたものだと思う。
 ヤルヴィ盤が俗に言う「本場物」の演奏。作曲者と同じ北欧の指揮者が北欧のオーケストラで演奏しているからだけれど、そのために、サウンドがみんな北欧的などんよりした薄曇りになっていてモロッコにならないし、アラビアの踊りはノルウェー産がバレてしまう。グリーグとしては一貫性のあるいい演奏だけれど……。オーマンディ盤は無国籍的に世界航海が疑似体験できる。

●交響組曲《シェエラザード》(R=コルサコフ)

○フェレンツ・フリッチャイ指揮ベルリン放送so.
[Po-グラモフォン:POCG3090]1959
△ロリン・マゼール指揮ベルリンpo.
[Po-グラモフォン:POCG4142]1985

 洋の東西を問わず、異国趣味の定番中の定番「アラビアン・ナイト」の世界をテーマにした作品は多いが、その中でもこの作品は特に人気がある。だが、その人気の半分は、華麗な近代管弦楽法の成果。作曲者自身の内面に異国趣味が強くあったというわけでもなさそうだし、華麗なオーケストレーションを聴くだけで充分に楽しめる手際のよい作品。万人向きの(インターナショナルな)とても音響的な作品だから、名人オーケストラの名録音のデモンストレーションとして、しばしば利用されてきたのももっともなことだ。だけど、この曲がそれだけで終わらないのは、「どこか知らない遠い昔の国」風のノスタルジーをかきたてる要素で全曲が大きく包まれているからだ。
 だから機能一点張りのマゼール盤はつまらない。ひと昔前のフリッチャイ盤が、国籍不明だけど悩ましい魅力でダントツ。あの時代はまだ怪しげなお姉さんの魅力が街に生きづいていたっけ。最近の合理精神にからめとられたチョン盤にはない面白さだ。


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