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演奏家の「晩年」を考える

2008年09月17日 16時01分04秒 | エッセイ(クラシック音楽)
 以下は、1997年春に発行された『クラシック音楽の聴き方が変わる本』(洋泉社ムック/絶版)に掲載したものの再録です。執筆完了は1996年11月23日です。ムック全体は各テーマごと、原稿全体の半分くらいを占める総論的まえがき2ページ分と、それを受けて後半は、具体的にCDを掲げて書く各論2ページという構成でした。もちろんCDデータなど、10年以上前の原稿ですからかなり変わってしまっています。しかし、今読み返してみても、各論に関しては、その後に別の形で広がったもの、もっと掘り下げてみたいと思ったまま果せないでいるものなどがあるものの、前言を翻さなくてはならないものはありません。つい最近、様々な演奏家たちの晩年、あるいは「ラスト・コンサート」についてある友人に問われたので、そのことについて考えているうちに思いだした旧稿です。なお、以下の文中に登場する「U氏」とはもちろん「宇野功芳氏」のことです。当時から、さんざん言われましたから、匿名にしておく意味もないでしょう。


《音楽家たちの歳のとり方》
 このテーマを聞いてすぐに、こんなことを考えた。
 その1。同じ演奏家で以前と同じ曲の新録音が発売されたときは、「円熟の境地に達した名演」と褒めるべし
 その2。旧録音が再発売されたときには、「若き日の情熱あふれる名演」と褒めるべし。
 この2つの原則をチャンポンに使ってお茶を濁している評論家の、いかに多いことか。これは、レコード会社という〈売る側の論理〉への迎合というのではありませんか?
 だれにだって青春はあるし、老いもあるけれど、そんなに単純に表現されてたまったものではないのは、自分自身の人生を振り返ってみたって言えることだ。まして、30歳近いデビュー盤に「青春の記念碑」と名付けたり、40歳そこそこの再録音を「円熟のきざし」などと呼ぶのは、“聴かずに書ける音楽評論用語”の悪用としか言いようがない。
 でも、この稿のテーマは「歳のとり方」。演奏スタイルの歴史がテーマではない。まして、「歳をとる」ということを、成長だとか美徳だとか決めてかかっているわけではないし、逆に、若いときが一番輝いていた、と年寄りじみたグチを吐くものでもない。「歳のとり方」はそれこそ千差万別だ。
 ところで、「歳をとる」って、最近は「体力が衰える」ことなんだと思い知っている私だが、ちょっと前までは、「歳をとる」ことは、「オトナになる」ことだと思っていた。そして、そのまた少し前には、「オトナになる」ことに何かしらの後ろめたさと嫌悪感を抱いていたのを思い出す。高校生時代には、友人とレコードを聴きながら、「ふやけた中年太りみたいな演奏」と言ってケナしたこともあったのに、今ではスナックなんかで、自分の娘ほどの年頃の女の子に「リッパなおなかネ」とからかわれる日々なのだ!(だけど、わけ知り顔のイヤ味な中年男にはなってないぞ)
 そう。「歳をとる」っていうのは「オトナになっていく」過程ではあるのだ。だから、わけ知り顔をしてすましかえる人もいれば、世間との妥協の日々をくり返すようになった人もいる。けれど、そんなのはみんな、インチキオトナ。そんなオトナになんかなりたくない、と気負っていたあの頃を、まだ失っていないと思っている人だけに、この稿を読んで欲しい。インチキオトナになってしまった人は、冒頭に掲げた二分法で「円熟の境地」と「青春の情熱」を淡々と聴いていればいい。それが「大人の風格」というものだ。
 そういえば、昔、同じクラスに、妙にオトナびた風格の奴がいたけれど、アイツ、どんな中年になってるだろう。ガキの頃から若年寄みたいに落ち着いたヤツって、必ずクラスにひとりくらいはいるものだけど、演奏家にも、そんなのがいる。例えばフィッシャー=ディースカウ。顔からして昔から出来過ぎていたけれど、あれは、やっぱり頭が良過ぎたのだろうか? それとも、感情が知性を超えるほどじゃなかったのだろうか?
 私自身は、「何もこわいものがなかった。何でもできるような気がしていた」というのは、青春時代の特権だから、そういうがむしゃらさを持っているヤツが好きだったし、いくつになってもどこかでそう思っているヤツが、今でも好きだ。でも一方で「青春時代は道に迷っているばかり」だともいう。ずしりとした手応えの不安をメいっぱい抱えていた頃が懐かしいし、あの頃、わけ知り顔ですました奴は大キライだった。だけど、みんな少しずつオトナになってきた。
 分別(ゴミのぶんべつ、ではない。ふんべつ)という言葉がある。ここまでやっちゃダメだろうなとブレーキをかけたり、これを言ったらオシマイだからと良い子していることだが、この分別臭さがイヤミな子供もいる。幼い頃から分別がありすぎるのは、たいしたオトナにはなれない、と、私の両親は言っていた。けっこうわがままをゆるしてもらったが、それは、演奏家にも言えることだろう。最初からきれいに収まってしまっていると、中堅どころで一生を終えてしまう、というのは、何人もいたように思う。後になって大化けするのは、たいてい、デビュー当時は毀誉褒貶さまざまで、評価が分かれる人が多い。
 コンクールなんかで1位なしの2位、という人もアブナイ。1位がいないから2位でも優勝と同じというのは詭弁で、誰もが唸らざるを得ない決め手を持っていなかったというのは、致命傷なのだ。「歳のとり方」というものは人それぞれだけれど、ひょっとすると、それは、子供らしさを少しずつ失っていくことかも知れない。だから、たくさんの子供らしさ、あふれるほどのダダっ子さを持っていればいるほど、どんなにおとなになっても、輝きが失われないのだ。
 けれど、「歳をとる」のは「オトナになる」だけではない。私自身、ほんの少しだけ想像できるようになったが、どうやら「老人になる」ということでもあるようだ。これは更なるエネルギーの減衰だ。それが、ロストロ先生のように「年寄りの冷や水」と言われるようなガンバリになるか、トスカニーニ先生のような「かんしゃく持ち」になるか、それとも、ジュリーニさんみたいに「こだわりの末端肥大症」にかかってしまうか、これもまた、それぞれなのだ。
 だけど、どうしようもなく反応が鈍くなって、テンポが遅く、切れ味も甘くなった演奏を褒めるのにも、便利な言葉がある。曰く「枯淡の境地」。褒め言葉の開発に余念がないのが、日本の音楽評論界の凄いところだ(私はこんな表現、使わない)。
 以下では、比較的長い時代を生き抜いてきた演奏家何人かの「歳のとり方」をみていくことにしよう。

●機能主義的ロマン主義者の黄昏 ――ヘルベルト・フォン・カラヤン

○ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調《英雄》/プロイセン(ベルリン)国立歌劇場o.[独KOCH-SCHWANN:31509-2]1944
○ブルックナー:交響曲第7番ホ長調/ウィーンpo.[Po-グラモフォン:POCG1005]1989

 カラヤンは20歳代半ばから30歳代半ばにナチ台頭のドイツを生きてきて、若くしてドイツ帝国内での地位を確保した。ベルリンを中心とした活躍で第2次世界大戦の終結を迎えたが、同じ時代を同じベルリン中心に生きた先輩フルトヴェングラーとは異なり、その内面にあったのはドイツ精神ではなく、オーストリアの歌謡の心だった。時代の風潮だった即物主義によって洗い落とされたすっきりとして伸びやかな歌が、カラヤンの真髄だった。1944年のプロイセン国立歌劇場管弦楽団とのベートーヴェン《英雄》からは、力強いたたみかけの中で、その澄み渡った響きによって伸び伸びとした歌が隅々にまで広がっていくのが聴きとれる。ロマン主義者カラヤンは戦後、超越的価値が崩壊した時代の中で、ベルリン・フィルという高機能集団とロマン精神のまがいもの作りに、おそらくは本気で取り組んでいったが、最晩年のウィーン・フィルとのブルックナーには、オーストリアの大自然が心なしか淋しげに広がっている。


●啓蒙主義者の美しき晩年 ――レオポルド・ストコフスキー

○ブラームス:交響曲第4番ホ短調他/ニュー・フィルハーモニアo.[Cr-BBCラジオ・クラシックス:CRCB6017]1974,L

 「ストコフスキー告別コンサート」と題された1枚のCD。これは、92歳の誕生日を記念したコンサートで、彼がこの日覚悟を決めていたかは不明だが、最後の公開コンサートとなった日の記録だ。
 実は発売時に、新譜を月評する月刊誌上で、音楽評論家U氏によって「ストコフスキーにはそぐわない選曲」という理由にもならない理由の前置きで、ダメ演奏の烙印を押されたのが、ここに収録されたブラームスの第4交響曲。これはライヴ盤だが、ストコフスキーはこの直後に、同じ曲のスタジオ録音まで残して死んでいる。こんな歳まで生きた大指揮者が引退を目前にして自ら選択したレパートリーを、「そぐわない選曲」とバッサリ切り捨てるU氏の傲慢さが、私はゆるせない。
 音楽評論というのは、なぜこの曲を選んだのか考えることも含めて、まず、そこにある演奏を受入れなければ成り立たない。この評論家氏、昔はこんなに威張っていなかったのに。(……実は私、高校生時代に当時の貴方の中野のアパートに押しかけたほど、貴方のファンだったのですよ。ストコフスキーのように、最後まで初心を忘れないでいてください。私は今でも、貴方と音楽について語りあった、あの日の貴方の、ちょっとはにかんだ青年のような笑顔を覚えています。貴方は、貴方の書いた文章をそらんじているような私の発言に、少し困ったような顔をして「音楽はいろいろな聴き方があるんだよ。ボクのいうことがすべてじゃない」というようなことを言いました。ずいぶん、お変りになりましたね。とても残念です。……)
 ところで、先に言っておかなければならないことがあった。この「ストコフスキー告別コンサート」の国内盤のライナー・ノートは私が執筆しているのだ。以下はそこからの引用。「ストコフスキーは、独自の解釈による強調や改作をかなり行ったが、それぞれの音楽の魅力に忠実とも言える見識が不思議な説得力を持っており、音楽の大衆化に半世紀以上にわたって尽力した。情熱的に迫るブラームス演奏の若々しさからは、この指揮者の生涯を貫いていた〈わかりやすい〉音楽が、どれほど大切であるかが伝わってくる。音楽を聴く喜びについて考えさせられる感動の一夜の記録だ」 
 ストコフスキーの生涯は長かったが、終生ちゃちな商業主義にも与せず、晦渋な芸術至上主義にも溺れず、美しく老いた人だったと思う。


●地道な下積みが報われるとき ――チャールズ・マッケラス

○『カレイドスコープ』/ロンドンso.[Ma-マーキュリー:PHCP10312]1961
○マーラー:交響曲第5番嬰ハ短調/ロイヤル・リヴァプールpo.[英ROYAL-CLASSICS:ROY6414]1990

 最近復刻されたCDに『カレイドスコープ』と題するオムニバス盤がある。「カンカン踊り」まで収録されていて、最近のマッケラスとはかなり違うレパートリーだが、マッケラスは20歳代で最初に手にした職場がオペレッタ全盛時代のサドラーズ・ウェルズ劇場だった。その前年、チェコ留学でヤナーチェクの作品の魅力に取り憑かれて帰国したこの最初の仕事場をりっぱに務め上げ、一方で、ヤナーチェクのシリアスなオペラの英国初演に奔走して実現にこぎつけた。その後もこつこつと勉学にはげみ、70年代になってついにヤナーチェクのオペラの連続録音で本懐を遂げた。しかもオケがウィーン・フィル。これで一躍メジャー指揮者の仲間入り。そして若き日に学んだ地との縁でプラハ室内管とモーツァルト交響曲全集を完成。これは、エリを正して聴くようなリッパな演奏。地道な研究の成果が光っている。マーラーの交響曲演奏でも、ボヘミア的広がりに深い理解を示している。青年時代の体験を肥しにした大器晩成の人だ。


●飛ぶ空がなくなった「能ある鷹」 ――リカルド・オドノポゾフ(vn)

○シューベルト:ヴァイオリン・ソナタ イ長調、幻想曲ハ長調/エドゥアルト・ムラツェク(pf)[独ART:0029252ART]a.1972
○ガーシュウィン(ハイフェッツ編曲):《ポーギーとベス》組曲/ハンス・リヒター・ハーザー(pf)[独BAYER-DACAPO:BR200-004CD]1953

 1914年生まれのオドノポゾフは、34年には若くして、クレメンス・クラウスの推薦でウィーン・フィルのコンサート・マスターに就任した。だが、シュナイダーハンとの第1コンサート・マスター争いに破れ、37年にウィーン・フィルを去ってアメリカにわたり、56年まで、ニューヨークを本拠地に活躍した。アメリカは必ずしも、オドノポゾフの音楽傾向が深く理解される環境ではなかったようで、56年から再度ウィーンに戻り、ウィーン音楽アカデミーの教授として後進の指導にあたった。オドノポゾフが、ウィーン・フィルの第1コンサート・マスター争いに破れた背景には、おそらく、ヴァイオリン奏法の上での、当時のウィーンの主流のスタイルとのズレがあったものと思われるが、アメリカにわたった彼は、そこでもまた、文化伝統とのギャップに悩まされたようだ。結局、演奏家として第一線での活躍の機会を逃したまま、全盛期を過ぎてしまったオドノポゾフ。そういう不運な人の美しい歌がシューベルトだ。

●熟年優等生のFA宣言 ――ウォルフガング・サヴァリッシュ

○ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調《英雄》/ロイヤル・コンセルトヘボウo.[To-EMIクラシックス:TOCE8625]1993
○ヒンデミット:交響曲《画家マティス》/フィラデルフィアo.[To-EMIクラシックス:TOCE8672]1994

 この人の名前が出てきて、なーんだと、読み飛ばさないほしい。確かに、サヴァリッシュは「おもしろくない指揮者」だったけれど。
 サヴァリッシュは、60年代の初め頃には若手のトップランナーのひとりだったが、正統派のドイツ系だったため、最もオーソドックスな道を歩んだ。揚げ句の果てに、日本でも、正統派のセンセイとしてN響の名誉指揮者として祭り上げられてしまった。これでは安全運転の模範生として、しっかり良い子していなければならなくなった。つい最近まで、その役割をまっとうしていたのだ。だからのFA宣言。もう好きにやらしてくれ、とばかり、コンセルトヘボウの《エロイカ》あたりから変わりはじめ、フィラデルフィアへ。すっかり元気なドイツして、音楽が生き生きしている。こんなに自在で豊かだったなんて。フィラデルフィアをクビになっても好きな道だけを行ってくれ、とエールを送る。実力のある優等生が、「遊んじゃおう、もうイイや」と、プッツンすると凄いんだぞ。

●職業選択の自由とその見通し ――クリストフ・エッシェンバッハ(pf)(cond)

○シューマン:歌曲集《詩人の恋》他/ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ(br)[Po-グラモフォン:POCG1132]1974~76
○ブラームス:交響曲第1番ハ短調/ヒューストンso.[英VIRGIN-CLASSICS:7777-59223-2]1991  

 エッシェンバッハは、まだ10代の若さで登場した「ピアニスト」だ。テレフンケンから発売された『バルトークを弾く』というアルバムなどが印象に残っている。まだあどけなさの残る顔のジャケットだった。70年にはモーツァルトのソナタ全集も完成してしまった。20歳代の最後の仕事だ。そして、72年には指揮者としてデビュー。やがて、完全にピアノから足を洗ってしまった。だが、この人は、よくいる転出組ではない。指揮者になったときのインタビューで「幼い頃から、指揮者になるのが目標だった。そのためには、まずピアニストとして有名になるのが早道だと思っていた」というようなことを語った確信犯なのだ。技巧的には少しも華麗じゃないけれど、隅々まで音楽の見通しが良かったのは、そのせい? シューマンの歌曲の伴奏ピアノは、目標の指揮者専業になる直前の録音だが、伴奏の域を超えた雄弁さ。わかっている人の音楽。才能も努力あってこそ。巨匠指揮者への仲間入りも間近かも知れない?


●遅すぎた亡命者の最終楽章 ――キリル・コンドラシン

○チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番/ヴァン・クライヴァーン(pf)、RCAso.[BV-RCA:BVCC7390]1958
○マーラー:交響曲第1番《巨人》/北ドイツ放送so.[伊CINCIN:CCCD1022]1981,L

 コンドラシンは旧ソ連の指揮者だ。長い間モスクワ・フィルの音楽監督を務めたが、1979年に突然オランダに亡命した。妻子を捨てての決死行だったが、新天地での生活はわずか2年で終わった。心臓発作による急死だった。
 その死の前日、テンシュテットの突然のキャンセルにより指揮者不在でオランダに到着した北ドイツ放送響の指揮を急遽引き受け、本人も大満足の熱演を終えてホテルの自室に戻ったまま、翌朝、ホテルのメイドがコンドラシンの死を発見したという。この最後の演奏会の放送録音の一部が、マーラーの「巨人」だ。
 コンドラシンは西側の自由な空気をかなり早い時期から吸っていた指揮者だ。アメリカのピアニスト、クライヴァーンのモスクワでのコンクール優勝後の凱戦公演に同行し、全米各地で指揮をしたのが58年。ソ連の指揮者の中では最も西側の近代的な音楽語法を身に付けた人だった。コンセルトヘボウとの厖大な放送録音に、堂々たる自負のある音楽が残されている。


●早逝者の失われた未来 ――トーマス・シッパーズ

○『オペラ名曲集』/コロンビアso.[So-ソニー・クラシカル:SRCR-1543]1960
○シューベルト:交響曲第8番ロ短調《未完成》:シンシナティso.[米VOX:CDX5138]1977

 この指揮者について語る人は少ない。彼は1930年3月9日にアメリカ、ミシガン州カラマズーに生まれ、77年12月16日にニューヨークの病院で、肺ガンのために、47歳の若さで世を去った。マゼールと同年同月生まれだ。戦後アメリカの生んだ天才指揮者と言われ、その正式デビューはマゼールより早く、50年、シッパーズがまだ20歳の時だった。63年にはマゼールの後にはなったがバイロイト音楽祭に、生粋のアメリカ人指揮者としては初めて出演した。もし長生きしていたらば、世界の指揮者地図がいくらか変わっていただろう。 ガン宣告を受け公表もした彼が、体調の不良を押して録音した最晩年の《未完成交響曲》は異様な遅さで、こころざし半ばで世を去る人の無念さを感じるが、千円盤で手に入るデビュー間もないころの『オペラ名曲集』は、思わず身を乗り出してしまうようなシッパーズの、天才的な吸引力のある音楽の躍動感が伝わってくる。ここには未来の無限の可能性があった。


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