【愛知・岡崎市】社伝では、平安時代の康平年間(1058~1065)、武将源頼義が、反乱を起こした陸奥の豪族安倍貞任・宗任らを追討するために奥州へ向かう際、石清水八幡宮を領国である伊賀国(三重県)に勧請して、天下泰平を祈願したのが始まり。
室町時代の文明二年(1470)、徳川家康より五代遡る先祖・松平四代親忠が氏神として社を伊賀国から現在地に遷座し、子孫繁栄・武運長久の守護神として伊賀八幡宮を創建した。 ご祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、東照大権現(相殿)の四柱。
■バス停「八幡社前」で下車すると参道の入り口に朱塗りの大きな一ノ鳥居が聳え、すぐ傍に三つ葉葵の紋を配した社号標石が立つ。 明神鳥居の一ノ鳥居の間から少し先の参道に朱塗りの二ノ鳥居が見えるが、両部鳥居だ。
参道を進むと伊賀川に架かる朱塗りの擬宝珠高欄を設けた神橋があり、その先の緑の木々の間に随身門の屋根が見える。 伊賀川両岸は「伊賀川桜堤」と呼ばれる桜の名勝で、桜堤からは三ノ鳥居である石鳥居、神池、随身門などが見下ろせる。 桜堤から石段を下り、石鳥居をくぐってく境内に。 矩形の神池の真ん中に石神橋を設けた参道があって随身門に続いているが、通行止めなので、神池を東回りに進んで随身門へ。 随身門近くから眺めた石神橋は、まるで木造の太鼓橋のようで梁、蟇股などの意匠が精緻に施されていて興味深い。
△街中の参道に建つ朱塗りの明神鳥居の「一ノ鳥居」と奥に両部鳥居の「二ノ鳥居」....三つ葉葵の紋を配した社号標石「伊賀八幡宮」は大正十年(1921)の造立
△伊賀川に架かる朱塗りの擬宝珠高欄を設けた太鼓橋の神橋....奥の建物は随身門の屋根....神橋の前後には伊賀川桜堤が走る
△神橋越しに眺めた明神鳥居の「三ノ鳥居」と随身門
△神橋を渡った伊賀川桜堤から眺めた石造り明神鳥居と随身門
△石鳥居を通して眺めた参道と奥に随身門....参道は蓮池と呼ばれる矩形の神池の真ん中に架かっている/石鳥居(重文)....蓮池に架かる石神橋と同時期の造営とみられる
△蓮池中央の参道(通行止め)に設けられた太鼓橋(反橋)越しに眺め随身門
△太鼓橋は石造りの神橋(重文)....蓮池の水面に映る神橋と随身門
△神橋(石橋)は寛永十三年(1636)の造営....まるで木造建築のような装飾(梁、蟇股など)が精緻に施されている
△境内東側の駐車場傍から眺めた矩形の神池....左(南)から石鳥居、石神橋そして随身門は一直線に並んでいる
△神池東側から眺めた神橋と随身門
△随身門近くの参道から眺めた重要文化財の石鳥居と蓮池に架かる石神橋
■端正な姿の随身門とL形に配された袖塀(連子窓を入れた透塀)に朝陽が燦燦とふりそそいでいる様は荘厳だ。 随身門は和様建築を基調とした楼門で、檜皮葺屋根の大棟などに三つ葉葵の紋が配されている。 徳川家光による建立だが、意外に三つ葉葵の紋が少ない。
下層の両側の黒い格子の中に衣冠束帯をつけた武官姿の随身像が鎮座するが、愛知県で随身門に随身像が安置されているのは伊賀八幡宮だけらしい。 随身門の社殿側に東照大権現の御神石像が鎮座している。 そうそう、随身門の四隅の尾垂木の上に屋根を支える力神の姿があるようだが、失念した。
△入母屋造檜皮葺の随身門(重文)....寛永十三年(1636)、徳川家光により建立
△大棟に5つ、そして正面の軒唐破風の鬼板に三つ葉葵紋を配している....上層周囲に組高欄付き切目縁
△L形に設けた袖塀は連子窓を入れた透塀....門左右の黒い格子の中に随身像が鎮座
△切目縁を支える腰組は簡素な三手先、下層の中備は頭貫の上に脚間に彩色された十二支彫刻を配した本蟇股
△軒廻りは二軒吹き寄せ垂木、組物は三手目が尾垂木の三手先、中備は珍しい形の刳抜蟇股
△破風には金色の飾り金具を施している....戸口の頭貫上の蟇股の脚間は龍の彫刻/大棟端に鳥衾を乗せ三つ葉葵紋を配した鬼板、拝は三ツ花懸魚の変形(?)、妻飾は虹梁蟇股
△随身門の両側に鎮座する神域の守り神の衣冠束帯をつけた武官姿の随身像/随身像が安置されている随身門は愛知県では伊賀八幡宮だけとか
△随身門を通して眺めた参拝所の神門....戸口に連子窓を入れた扉がある
△随神門の拝殿側に鎮座する東照大権現(徳川家康)の御神石像
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