【愛知・岡崎市】徳川ゆかりの寺社の中でも幕府の庇護が厚く、岡崎城の防衛拠点として山門に続く白壁の土塀や石段などから城郭寺院の名残を残している。
明治時代になって廃仏毀釈運動が起こる中、明治六年(1873)、隨念寺は存続をはかるため本堂を残し、慶長十七年(1612)建立の庫裏、書院を額田郡の小学校と高等学校に校舎として提供し、明治四十二年(1909)に買い戻した。
昭和二十年(1945)の岡崎空襲で、山門手前まで火の手が迫ったが被災を免れた。 当時の姿を残す庫裡と書院は貴重な遺構。
◆本堂前に近年の建立とみられる側面に花頭窓を配した聖徳太子堂が建つ。 聖徳太子堂は、身舎各所の他、擬宝珠高欄付切目縁の親柱・行桁・地覆にも彫刻風の意匠が施されていて興味を引く。 また、軒に吊るされた鎖樋の下に異形の天水桶があるが、蓮を模していると思う。
本堂左隣に白壁の土蔵風の造りの経蔵が建ち、そこからが傾斜地に墓所広がる。 本堂と経蔵の間の奥に高い石垣と石段があり、石段上の門と白土塀で囲まれた墓所に松平家七代清康が眠っている。 立ち入り禁止で入れず、白土塀を西に移動して少し高い所から眺めると、歴代住持の墓碑が並び立ち、すみっこに鎮座する如来石仏が墓碑を見守っている。 更に石段を上がった一段高い白土塀で囲まれた所が清康の墓所のようだ。 傾斜地に広がる墓所の上に、木々を背にして平成23年建立の三重塔が建ち、中に鎮座する仏さまが墓所に眠る人々を見守っている。
墓所の中央に設けられた長い階段を上りつめると、境内の一番高い所に舎利殿が建つ。 舎利殿は、8~9世紀に建造されたインドネシア・ジャワ島にある大乗仏教の遺跡「ボロブドゥール」を模したようだ。 大きな基壇の上の中央にストゥーパがあるだけで、中に釈迦の遺骨や遺物ではなく阿弥陀如来像が安置されているようだ。 隋念寺が、何故、インドネシア古代仏教遺跡「ボロブドゥール」を模した舎利殿を造営したのか調べてみたが、残念ながら....。
△露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の聖徳大師堂....基壇上に建ち、周囲に擬宝珠高欄付き切目縁
△軒に吊るされた鎖樋と蓮を模した(と思う)異形の天水桶/周囲に巡らした擬宝珠高欄付き切目縁の親柱、行桁、地覆に彫刻が施されている
△軒廻りは二軒繁垂木、台輪の上中央に出三斗が乗る、台輪の上は全面彫刻を施した壁で密閉されている
△三重石塔越しに眺めた一間四方の聖徳太子堂/長い相輪を乗せた三重石塔(造立年不詳)
△切妻造本瓦葺の水水舎....手水鉢は現代風の造りで、水口は水道蛇口で古刹にしてはチト味気ない
△屋根を支える柱は控え柱8本を加えた12本/控え柱の頂部に平三斗が乗り、長押と頭貫の間が連子欄間風になっている
△本堂の左隣に建つ宝形造桟瓦葺の経蔵....白壁の土蔵風の造り
△本堂左後方の高い石垣の上の白土塀で囲まれた所に松平家七代清康が眠る/石段の上の墓所入口に建つ切妻造桟瓦葺の門
△墓所内に歴代住持の無縫塔が建ち並ぶ....更に一段高い所に白土塀で囲まれた所がある(墓所内に立ち入れないため白土塀西奥から遠目で撮影)
△白土塀で囲まれた一段高い所が徳川家康が祖父・松平家七代清康の墓所(と思う)/歴代住持墓所内に鎮座する如来坐像石仏
△傾斜地に広がる墓所の最上位置に建つ銅板葺の三重塔....平成二十三年(2011)建立
△軒廻りは二軒繁垂木、二重目と三重目に組高欄付き縁を巡らす(初重に高欄なし)
△軒天井と蛇腹支輪がある
△組物は各重いずれも三手目が尾垂木の三手先/初重の中央間は板唐戸、脇間の窓は連子彫刻を入れた板張り、中備は中央間のみ間斗束
△塔高16.7メートルの三重塔の各重の四方の軒下に風鐸が下がる
△広い墓所の中央の石段の上に舎利殿が建つ/「舎利殿」と記された門柱の先に大きな基壇がある
△舎利殿の基壇の側面に法輪などの浮彫りが刻が施されている
△基壇上の中央に鎮座するストゥーパ....内部に阿弥陀如来像が安置されているようだ
△舎利殿の境内には幾つかの石塔や石仏が鎮座/十三重石塔....初層軸部の少し堀り窪めた中に合掌仏が浮き彫りされている
△舎利殿境内に鎮座する舟後光型石仏群 鎮座する舟後光型阿弥陀如来坐像石仏
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます