何気ない風景とひとり言

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浦賀1号ドック (横須賀)

2020年09月25日 | 史跡探訪-日本編

【神奈川・横須賀市】平成二十五年(2013)7月に開催された「産業遺産見学会 ~ドックを底から見上げる~」に参加し、住友重機械工業(株)の「浦賀ドック」を見学した。 住友重機械工業(株)の浦賀工場は平成十五年(2003)に閉鎖されたが、ドックはドライドックの機能を保持したまま保存されている。
浦賀での造船の歴史は、1853年(嘉永六年)に米国のペリー提督が黒船4隻を率いて浦賀に来航したのを機に、江戸幕府が「大形船建造禁止令」を解いて浦賀造船所を開いたことに始まる。 日米修好通商条約の批准書交換のために米国に派遣する護衛艦を臨海丸としたが、修理が必要な個所が幾つか見つかり、特に艦底の補強修理や塗装工事を行うためにドライドック設備が必要になった。 工事を任された浦賀奉行所は、浦賀港の奥に河口がある長川に咸臨丸を引き込み、河口をせき止めて排水して工事を行った。 これが安政六年(1859)に完成した日本初のドライドックで、浦賀は我が国最初の近代的な造船所となった。 しかし、横須賀港に製鉄所(後の横須賀造船所、横須賀海軍工廠)が建設されたことで艦艇建造の中心が横須賀に移り、浦賀造船所は明治九年(1876)に閉鎖された。
明治三十年(1897)、かつての浦賀造船所の場所に浦賀船渠(株)が設立され、2年後に「浦賀1号ドック」が竣工した。 ドックは全長178メートル、幅21メートル、深さ11メートルを測る煉瓦造り。 浦賀船渠(株)の造船所は「浦賀ドック」と呼ばれ、駆逐艦や護衛艦などの軍用艦の他、民間のドックとして青函連絡船や各種タンカーなどの貨客船を建造....100年ほどの間に約1000隻にのぼる造船と修理が行われた。 現在の社名「住友重機械工業株式会社」は、昭和四十四年(1969)に浦賀船渠(株)にはじまる浦賀重工業(株)と合併してからのもの。

見学会では初めに 「浦賀ドック」の歴史についての説明が行われ、その後、幾つかのグループに分かれてドックに向かった。 解体途中の2基のクレーンが聳え、地中深く掘り下げて建造されたドックが現れるが、その巨大さに圧倒された。 周囲が雛壇状になっていて、壁はフランス積みの煉瓦造り、底には船を乗せるための盤木が船底に合わせて配置されている。
聳え立つガントリークレーンの脚間をくぐり、見学会の目玉であるドックの底に降りる。 底から見上げる巨大ドックの光景にかなり興奮を覚えた。 また、江戸末期にこの地で咸臨丸の修理が行われたので、勝海舟がこの地を訪れたことは確かであり、じつに感慨深い。 浦賀湊側は海水の流入を防ぐ厚い鉄扉で仕切られていて、近くの壁には、ドック内の海水の排出及び注入するための2本の太い管が取り付けられている。
 
△住友重機(株)浦賀工場の正門....平成二十五年(2013)7月27日開催の「産業遺産見学会」に参加/「産業遺産見学会」の案内資料

△見学案内会場に展示された様々な遺構や掲示物

△「浸水滑走台ボール」「逆針」「船船舶用赤色燈」「浦賀工場正門門柱燈」「アンビル&スリーブ付きフレーム」などいずれも珍しい遺構群

△会場に掲示された空から見た「浦賀ドックの全景」....右側の巨船の所が見学する「浦賀1号ドック(船渠)」

△「浦賀1号ドック」に残る南側のガントリークレーン(右)と北側に鉄道クレーン

△明治三十二年(1899)に竣工した「浦賀1号ドック」....その2年前に旧浦賀造船所の場所に浦賀船渠(株)が設立された

△ドックの規模は全長178メートル、幅21メートル、深さ11メートルを測る煉瓦造りのドライドック
 
△ガントリークレーンの下部・上部に運転室とブーム(ジブ?)が取り付けられていた

△ドックの浦賀湊側....厚い鉄扉で仕切られている、鉄扉の向こうは湊の海水

△ドックの陸地側....周囲は雛壇状になっていて、壁はフランス積みの煉瓦造り

△ドックの底に整然と並ぶ盤木群
 
△盤木は船を乗せるために船底に合わせて配置されている/盤木はコンクリート製台座上に木製の厚い角材が積み重ねられている

△ドックの底から眺めた煉瓦造りの壁と盤木群と浦賀湊側の鉄扉

△浦賀湊側は厚い鉄扉で仕切られていて、近くの壁にドック内の海水の排出・注入用とみられる2本の太い管がある

△ドックの底から見上げたガントリークレーンの下部と右に鉄道クレーン

上に戻ると、先のガントリークレーンの上部に据えられていた機械室・運転室、そしてクレーンガーダーが雑草の中に横たえている。 浦賀湊側の厚い鉄扉(シャッター)の上を通り、「浦賀船渠 昭和20年6月」と表示された建物側の鉄道クレーンの脚間をくぐって、エンジンの組み立てなどを担った機関工場の建物に向かう。 まず、ドック内の海水の排出及びドック内に海水を注入するポンプ所を見学したが、ドックの規模にしてはポンプが意外に小さい~と感じた。 巨大な建物の機関工場は、高い天井に天井クレーンを備えてある。
先月(2020年8月)、「浦賀1号ドック」をフェンス越しに眺めたが、ドックの北側に建っていた機関工場や見学会で説明を受けた建物等などがすっかり撤去され、ドック両側のクレーンだけが残されている。 クレーンの遺構は、ドックとセットで貴重な産業遺産として保存されているようだ。

△ドック脇に聳えるガントリークレーンの下部、手前は雑草が茂る中に横たえるクレーンガーダー

△ガントリークレーンの上部に据えられた機械室とクレーンガーダー

△浦賀湊側から眺めた南側のガントリークレーン、北側には鉄道クレーンとエンジンの組み立てなどを担った2階建て機関工場等の建物....建物は昭和十三年(1938)から五十二年(1977)に建てられた

△海水の流入を防ぐ鉄扉で仕切られている厚い鉄扉の上から眺めたドック全景....底にいる見学者たちはまさに豆粒だ!

△ドック内の海水を浦賀湊に排出する排出口越しに眺めた作業場の建物
 
△ドックの北側に残る鉄道クレーン....「浦賀船渠 昭和20年6月」の表示板が掲げられている/機械&運転室と先端にフックブロックが下がるジブ(ブーム)
 
△ドック内海水の排出及び海水の注入を行うポンプ所....明治三十二年(1899)の建築/ポンプはドックの規模に対して小さ過ぎる気がするが?

△工作機械等があった機関工場の巨大な建物....天井クレーンが備えられている

△先月(8月)撮影した「浦賀1号ドック」付近....ドック傍(北側)に建っていた機関工場など3棟の建物は昨年(2019)12月に撤去され、クレーンだけが遺構として残されている

△「浦賀1号ドック」の南側に保存されているガントリークレーンの遺構

△「浦賀1号ドック」の北側に保存されている鉄道クレーン....青色のペンキが塗られ「浦賀船渠 昭和20年6月」の表示板が残る

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