怪しい中年だったテニスクラブ

いつも半分酔っ払っていながらテニスをするという不健康なテニスクラブの活動日誌

本郷和人「戦国武将の明暗」

2021-08-24 07:19:02 | 
この本は週刊新潮のコラムをまとめたもの。
本郷先生の本では「ざんねんな日本史」をある意味な残念な内容と書いたのですが、戦国時代の武将に絞り込んだこの本は、面白い。私も含めて戦国武将の話はみんな好きなので、さくさくと読めました。

最初に本郷先生愚痴っているのですが、自分の本はあまり売れないと。どうしても歴史学者として歴史資料へのこだわりがあるから面白くならない。なかなか小説家のように想像力の翼を広げてスパッと断定することができない。そこでこの本ではいつもよりも「軽め」に、スピード感を持ちつつ読みやすくする。でも定説を疑ってかかると言うスタイルは変えない。週刊新潮の読者を意識したコラムにしたことで読みやすくそれでいて知的好奇心を刺激する本になっています。
最初に取り上げるのは関ケ原の戦い。正直、私の関ヶ原の戦いについての知識はほとんど司馬遼太郎の小説によります。明治陸軍の軍事顧問だったメッケルが関ヶ原の陣形を一目見て西軍の勝ちと言ったということも司馬遼太郎の「坂の上の雲」からの知識だったような。
でも史料から類推していくと小説とは違った姿も見えてくるみたいです。
関ケ原の合戦には論理的に考えるといくつかの疑問点がある。
・徳川家康は中山道を行く秀忠の本隊が到着するのを待たず、関ヶ原に進出して闘いの口火を切ったのは何故。家康の目的が畿内大阪へ進出して覇権を握ることであるとすれば急ぐ必要はなかったのでは。
・小早川秀秋(実際の兵力は15000ではなく8000程度みたい)は松尾山に陣取り戦況を見ていて逡巡した挙句、東軍に寝返ったのか。もともと秀吉の血縁だが秀頼が生まれてからは秀次同様疎んじられていて、家康に助けられたこともあり心情としてはむしろ東軍。
・西軍は最も精強と言われた立花宗茂軍などを近江大津城攻めに回して兵力を分散させていたのはなぜ?
・黒田如水は関ケ原の戦いで空白地帯となった九州を平定していくのだが、天下をうかがう野心はあったのか。
・上杉景勝は、家康が三成の挙兵を知り西へ進軍した後、最上家の山形城攻めに向かっており江戸に向けて進軍しなかったのは何故?東と西から挟撃すれば家康は苦境に立たされたのでは。
三成側は家康を東国に追い戻し、畿内と大阪を確保して天下を二分の膠着状態にすることが目的。その面では防衛戦であり、急いで戦端を開く必要はない。大垣城、毛利の陣取る南宮山、そして松尾山の防衛ラインを想定していたのだが、松尾山に強引に隠れ東軍と思われていた小早川秀秋が着陣したので、慌てて大垣城から関ヶ原に防衛ラインを変更せざるを得なかった。家康は、吉川広家が毛利を足止めにして、小早川は予定通り東軍につくとなれば、西軍のまともな戦力は石田三成、宇喜多秀家、小西行長のみ。これならば秀忠率いる3万の軍が遅れて間にあわなくても十分に勝てると読んでいたのでは。そう考えるとうまく説明できることが多いと思うのですが、物語としての面白みがなくなるのか。戦況あきらかでない中でどちらにつくか悩みに悩む武将の葛藤と決断は人間臭さが出て、面白いですね。まあ、往々にして現実はそんなにドラマチックでないことも多いのですけど。
詳しくは実際に本を読んでもらえばいいのですが、当時はまだまだ戦国時代の群雄割拠の雰囲気は残っていて、誰もが天下統一を目指していたわけではないと言うか天下統一を目指していた信長は相当な変わり者だったとか。先日BSの「英雄たちの選択」で黒田官兵衛を取り上げていたのですが、平山優さん曰く黒田官兵衛は「戦国人の中の戦国人」で関ケ原が長引けば九州に割拠すればどう転がるか分からないと言う感覚だったではとのこと。徳川側からは、あらかじめ九州切り取り放題のように言われていたけど、それはまったく無視されて黒田長政の働き(毛利の参戦を止めた)に対する褒賞分の筑前52万石だけ。事前の約束は反故にされ、如水の九州切り取りは徳川への功績はなしと評価されたのでしょう。
因みに関ケ原の戦い後の論功行賞はシビアに働きの評価がされていたはずで、そこから見えてくるのは物語などで表に見えているものとは違って実際の働きと結果を考える大きな材料です。
戦国後期が中心ですが関ケ原以外にもへェ~というエピソードが満載で、高校野球が中止の時に読むには最適でした。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 8月21日東山公園テニスコート | トップ | 吉森 保「life science 長... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

」カテゴリの最新記事