カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

イスラエルの歴史とイエスの周辺世界 (学びあいの会)

2018-07-24 20:45:56 | 神学

 今月の学びあいの会では「聖書を正しく理解するために」と題して、カテキスタのS氏の講演があった。教義というよりは歴史の話であった。話題は多岐にわたっていたので正確な要約は難しいが、私の理解にあわせてまとめてみたい。カト研の皆様にはお恥ずかしい限りだが、わたしは「聖書百週間」すら満足に卒業できていない。私には荷が重すぎる課題であることは重々承知の上で、勉強と思ってご報告してみたい。

Ⅰ イスラエルを導く神

 「啓示憲章」によると、聖書には神の人類救済の計画が記されているという。その主張は次のようにまとめられるという。
「神は、ご自身のいのちの交わりに参与させる意向を持って人類を創造された。原罪による人類の背きにもかかわらず、神の計画は変わらない。神は、ひとり子イエス・キリストをこの世に送ることによって、この計画を実施しようとされた。その準備としてイスラエル民族を呼び集められた。イスラエル民族の歴史、即ち、旧約の歴史は、救世主イエス・キリストが、この世に現れるための準備期間である」。
 ところで、啓示憲章とは、第2ヴァティカン公会議(1962-1965)が公表した文書の中で最も重要な4つの憲章の一つだ。その 四つの中でも、この啓示憲章はほかのすべての憲章、教令、宣言の基礎になっている。
 啓示憲章とは、『神の啓示に関するの教義憲章』の略称で、原題はラテン語で、Constitutio Dogmatica de Divina Revelationeというらしい。これはこの憲章が「神の言葉」(Dei Verbum)という表現で始まるので、 そのラテン語の『デイ・ヴェルブム』、またはその頭文字を取って、DVと呼ばれることが多いようだ。「 神の言葉」こそ、公会議のあらゆる発想の基礎となるべきものだから、憲章の中で最も重要なものとされているようだ。

 この憲章の訳文はカトリック中央協議会からでているが、あまり読まれてはいないようなので少し見てみよう。和田幹男氏がこの憲章を新たに訳出しているのでこちらをみてみよう。
まず目次だ。

啓示憲章の目次
序言 (第1項)
第1章 神の啓示そのものについて(第2-6項)
神の啓示とは何か、啓示が目指すのは何か、啓示の方法(第2項)
キリストによる啓示のための準備:自然による啓示とイスラエルの歴史による啓示(第3 項)
啓示の完成としてのキリスト(第4項)
神の啓示に対する人間の応答としての信仰(第5項)
啓示が明らかにする真理について(第6項)
第2章 神の啓示の伝達について(第7-10項)
キリストにおいて完成した啓示の伝達を担うもの(第7項)
聖なる伝承の本質(第8項)
聖なる伝承に中で聖書とは何なのか(第9項)
伝承と聖書の相互関係および教会に対する両者の関係(第10項)
第3章 聖書霊感と聖書解釈について(第11-13項)
聖書霊感とは何か、その結果としての聖書の真理性(第11項)
いかに聖書は解釈すべきか、その原則、全聖書の統一性(第12項)
神の「へり下り」(第13項)
第4章 旧約聖書について(第14-16項)
イスラエルの歴史による啓示と旧約聖書(第14項)
キリスト教徒にとっての旧約聖書の意義、旧約聖書の不完全性(第15項)
旧約聖書と新約聖書の相互関係(第16項)
第5章 新約聖書について(第17-20項)
新約聖書の優越性(第17項)
福音書の優越性と使徒的起源(第18項)
福音書の歴史性(第19項)
福音書以外の新約書の重要性(第20項)
第6章 教会の命における聖書(第21-26項)
教会にとって聖書は何か(第21項)
聖書の翻訳(第22項)
聖書釈義家の任務(第23項)
神学における聖書の重要性(第24項)
聖書を読むべきこと、またいかに読むべきかについての勧告(第25項)
結び (第26項)

 この目次を眺めているだけでいろいろな思いが湧いてくる。この第二バチカン公会議の啓示憲章は幾度も修正、書き換えがおこなわれた、いわば曰く付きの憲章だと言われる。すんなり通ったものではなかったらしい。つまり、この憲章はすぐれて「救済史」的視点に貫かれているところに特徴があるのだという。啓示とは神が自らを人間に啓く(ひらく)ことを意味する。つまり、真理が神によって人間に示されることを意味する。この憲章は聖書が単に教理の集積ではなく、キリスト者の生活を支える源であると強調している点が最大の特徴と言えそうだ。
 例えば、和田氏は第2項を次のように訳されている(参照は省略している)。

第2項
 神は、その慈愛と英知をもってご自身を啓示し、 ご自分の意志の秘義を明らかにすることを喜びとされた。 この秘義は、受肉した御言葉であるキリストをとおして聖霊において御父に人間を近づかせ、 神の本性に与らせるものである。 それゆえ、この啓示によって見えない神 がその愛のあふれから人間に友として語りかけ、 会話を交わされるのであり、こうして人間をご自分との交流に招き、受け容れようとされる。
 啓示のこの営みは、相互に内的に関連する仕草と言葉によってなされた。 このように救いの歴史の中で神によってなされた働きは、教えを、また言葉によって意味される事柄を示し、 確証する一方、言葉はその働きを告知し、その中に含まれる秘義を明らかにする。 この啓示によって、神について、また人間の救いについて深い真理がキリストにおいてわたしたちに輝く。 キリストは、すべての啓示の仲介者であると同時に、充満だからである。

 この訳の方がわかりやすい印象がある。聖書を正しく理解するとは、啓示を神の言葉として理解することだと言っているようだ。伝統的な聖書観を持つ人々からはすぐに反論が出そうな視点だが、これが第二バチカン公会議以降の現在のカトリック教会の立場と言って良い。
 イスラエルの歴史の話は次稿にゆずりたい。

 

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