仮面の告白『雲の上の虹』

この世の誉・不正・不道徳・破廉恥・権力者を追及し、無害なことも記録しつつ、雲の上の虹をめざす枕流亭の日記(日乘)

大川小:石巻市教委 今頃謝罪かい!

2012年01月23日 | 怒髪衝天

  責任を全く感じていないような会見に怒りを新たにした。

  天災を可能な限り小さくするのが人間の英知だ。それが全く逆になったのが大川小の悲劇だ。

  石巻市教委の能面のような無表情の会見は、彼らの責任感のなさを象徴しているかのようだ!

  産経の記事によれば、学校側は地区の行政区長と避難先についての意見の対立があり、学校側が押し切られたように見える。

  マニュアルがないのだから過去の津波の知識もないであろう教頭に有効な反論はできないし、地域をよく知らないのでは押し切られるだろうことは想像に難くない。

 大川小の児童は、公務より私事を優先した校長や適正な判断のできない無能な大人たちの犠牲になったのだ!

 犠牲になった御霊に合掌!

 

 


あの男はまだ校長やっているのか!

なお続く捜索…大川小遺族はいま「娘は記録にしかない」DVDで姿探す 東日本大震災  産経

 大川小学校ではいまだに児童4人と教諭1人が行方不明のままだ。1月初旬には、4年生の長女、鈴木巴那さん(9)ら5人を捜そうと、父親の義明さん(49)らが同小周辺を捜索した。

 周囲は雪が積もっている。「来ても見るだけで終わることもある」と母親の実穂さん(43)はいう。この10カ月、重機を使った捜索が繰り返された。

 「今も水がたまって捜索していない場所がある」。義明さんは説明会の席でそう訴え、市河北総合支所の職員から「2月中に捜索することを検討したい」との回答を得た。義明さんと実穂さんは説明会後、同小の慰霊碑まで報告をかねて線香をあげに行った。

 遺体が見つかったとしても、悲しみが消えるわけもない。中村次男さん(38)が一人娘の同小3年、香奈さん(9)を納骨できたのは発見から9カ月近くが過ぎた昨年12月7日だった。遺骨が部屋から消え、「かえって寂しくなった」という中村さん。自宅にあった写真は流された。今は学校側が送ってくれた同小児童のDVDを見て娘の姿を目で追う日々が続く。「娘は記録にしか残ってないんです」

 1年だった長男(7)と3年の長女(9)を亡くした男性は、昨年末、毎年子供たちと出かけていたツーリングに出かけた。だが、「日常に戻ろうとすると、それが倍のつらさになって返ってくる」。月1、2回、定期的に開かれている遺族の会では、そう話して泣き叫んだ。

 この日、説明会に訪れた遺族は約50人。一人息子の3年生、健太君(9)を亡くした佐藤美広さん(51)は「つらかった」と声を振り絞った。「時系列の説明を聞けば、時系列で当時を思い出す。子供の思い出がよみがえるばかりだった。説明会にも納得できない」とうつむいた。

 

避難決断で迷い「天災と人災両方」児童74人死亡、大川小検証報告書

 東日本大震災で児童74人と教諭10人が死亡・行方不明となった宮城県石巻市立大川小学校の遺族らへの説明会が22日開かれ、市教委は検証報告書を公表した。説明会は3回目で約7カ月半ぶり。市教委が関係者から聴取した結果、地震直後から津波襲来までの間、避難先をめぐって、学校側と住民側で意見が分かれ、裏山への避難が見送られた経緯が明らかになった。

 境直彦教育長は「天災と人災、両方の面があったと思う。学校として津波への危機意識を高めておくべきだった」と謝罪した。当時、児童らと一緒に避難していたが、津波から逃れて助かった男性教諭が昨年6月に保護者や校長にあてた手紙も朗読された。

 報告書によると、児童らはまず校庭に避難。校舎の裏山に二次避難することを目指す同校教頭と、「津波はここまで来ない」として、それより低地で山崩れの心配がない三角地帯への避難を主張する地元の行政区長との間でさまざまなやり取りが交わされた。裏山以外にも避難先の候補は浮かんでは消えたようだ。

 津波が来る約15分前には広報車で訪れた市職員が「体育館はどうか」と打診。学校側は「電球などが落ちてくるので危ない」と拒んだ。校舎の2階なども検討されたが、最終的に三角地帯に避難が始まった。

 調査担当者は個人的見解と断ったうえで「校庭に居続けるか山に逃げるかの2択しかなかったのが問題。山は木が倒れ、崩れる心配があるので校庭に居続けたのではないか」と話した。

  報告書は(1)災害対応マニュアルの不備(2)教職員の津波に対する意識の低さ(3)地域の防災体制が確立されていなかった-の3点を指摘。市教委は災害対応マニュアルに不備があった小中学校のうち、学校管理下で児童に被害が出たのは大川小だけだったとした。

 

唯一、生存の教諭「答え返ってこなかった」

< 2012年1月23日 17:49 >


 東日本大震災で、児童74人が犠牲となった宮城・石巻市の大川小学校で22日、遺族への説明会が開かれ、市の教育委員会は責任の一部を認め、謝罪した。また、震災当時、学校にいた教職員のうち、唯一、津波から逃れた教諭が去年6月に校長へ送っていた手紙の内容が初めて読み上げられた。

 3回目となった説明会には、遺族ら65人が出席した。市教委は、児童74人が犠牲となった要因について、学校が津波の避難場所を定めておらず、市教委も指導・点検してこなかったなどと指摘して、今回初めて責任の一部を認め、遺族に謝罪した。

 説明会では、震災当時、学校にいた教職員11人のうち、唯一、津波から逃れた男性教諭が去年6月に校長へ送っていた手紙の内容が初めて読み上げられた。避難をめぐる当時のやりとりについて、「教頭に、津波来ますよ、どうしますか?危なくても山へ逃げますか?と聞きました。でも、何も答えが返ってきませんでした」「山に行きましょうと強く言っていればと悔やまれて、胸が張り裂けそうです」などと震災後の心境についても記されていた。この男性教諭は体調を崩して休職している。

 大川小学校では、現在も児童4人が行方不明となっている。


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2 コメント

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無題 (匿名)
2012-02-15 10:54:57
いつも核心に迫る意見に感心しています。
教育委員会は地元の区長さんが大丈夫だと主張したと説明していますが、区長さんは子供をバスに乗せてにげるように進言したという事実が分かっています。
校庭に居続けた理由を学校以外のことにしようという意図が見えます。
区長さん以外に迎えに来た保護者や防災無線、ラジオ様々な情報を得ていながら、なぜ校庭に居続けたのか肝心な部分をぼやかしています。そのための報告書も改ざんともとれるような部分がたくさんあります。
とにかく話し合いを継続すると約束したので丁寧に質問していこうと思っています。これからもよろしくお願いします。
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決断できなかったのです! (kamen)
2012-02-15 23:04:03
「匿名」様、文面から、関係者の方と判断いたしました。何故校庭に比較的長い時間、留まったかの理由はいくつかあるでしょう。最大の理由は校長の不在です。次に教頭がそれを補佐できないほどに無能で胆力がないからです。校長の不在は大きいでしょう。責任感のある真面目な教頭ほど自分では決断しないのです。できないのです。そのような指示系統に問題があります。
そのような体制にしたのは校長であり、教育委員会です。子供たちを犠牲にしたのはそのような体制ということができます。
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