仮面の告白『雲の上の虹』

この世の誉・不正・不道徳・破廉恥・権力者を追及し、無害なことも記録しつつ、雲の上の虹をめざす枕流亭の日記(日乘)

前原誠司:外相を棒に振った25万円の献金!辞職が前進への一歩と判断したか!?

2011年03月06日 | 軽薄・愚行

  在日韓国人の女性から受けた献金は25万円?くらいなのだろうか?

  25万円で外相を棒に振ったが、国会議員の身分を保つには辞める方が得策と判断したのだろう。また、管内閣と一緒に沈没するよりはいいと判断したか?

  ともかく、国内外の政治日程的にも辞めないよりは辞めた方が傷は少なめだ。

  まだ、若い彼にはここで躊躇する必要はなかっただろう。復権の道を残したということだ。政治家としては正解の選択だ。

  ただし、公民権停止まで追い込むのが野党の姿勢でなくてはならない。

    
                    どう考えても辞める以外の道はなかったね!

  菅内閣のダメージとかいっている、キャスターがいるが、今の管内閣はダメージばかりで今さらでしょう?!

  

 

 

菅政権の命脈尽きた=自民・石破氏 時事通信 3月6日(日)20時4分配信

 自民党の石破茂政調会長は6日夜、前原誠司外相が辞意を固めたことについて、取材に対し「責任と立場を自覚した潔い判断だ。しかし、菅直人首相の任命責任は残る。菅政権の命脈は尽きた」と語った。
 また、同党の小坂憲次参院幹事長は「辞任は当然だ。辞任すれば問題が解決するわけではなく、引き続き予算審議と併せて問題のある閣僚の責任を追及していく」と述べた。 

弱体政権に衝撃=首相瀬戸際に-前原外相辞任

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 政治資金規正法に抵触する外国人からの献金を受けていた前原誠司外相の辞任は、弱体化が著しい菅政権に大きな衝撃を与えた。「ポスト菅」の筆頭候補が政治資金に絡むスキャンダルで失脚する影響も計り知れない。2011年度予算関連法案を成立させる展望はなく、4月の統一地方選で民主党の苦戦は必至。菅直人首相は瀬戸際に立たされた。

 「野党が参院に問責決議案を出してくる。辞めざるを得ない」。前原氏は6日、親しい議員と連絡を取り、自らの厳しい立場を伝えた。
 自民党など野党は、「外交の責任者が外国人から献金を受けていたのは許されない」として辞任を要求。前原氏は政権に与えるダメージを最小限にとどめるため、早期辞任を決断したようだ。首相を支えるベテラン議員は「泥沼に入るより、スパッと辞めた方がいい」と指摘。別の中堅議員は「早く処置したのは良かった。長引けば参院予算委員会で攻められ、致命傷になっていた」と語った。
 菅政権や民主党にとって、次期首相候補として認知されている前原氏が降板する影響は深刻だ。野党が首相の任命責任も含め、追及を続けることも間違いない。民主党幹部は「主要閣僚の辞任は菅政権にものすごい打撃」と語った。小沢一郎元代表の政治資金の問題を厳しく指摘してきた前原氏が、「政治とカネ」の不祥事で辞任することも、民主党への失望感に拍車を掛けそうだ。若手議員は「統一地方選にマイナスだ」と危機感を示した。

 一方、小沢氏に近い勢力からは、「挙党態勢を築いてこなかったツケだ」(若手)という声が上がっている。今後さらに、党運営を見直すよう求める圧力が強まり、内紛が激化する可能性もある。税と社会保障の一体改革など政策テーマを掲げ、退陣論を突っぱねてきた首相だが、前途は極めて厳しい。(2011/03/06-22:07)

ニュージーランド震災に思うこと

2011年03月06日 | 哀悼

  ニュージーランドの今回の大震災に関しては、もう哀悼以外の言葉をもたない。

 実は拙の近しい知人が2人、それぞれ留学、永住している。幸いといっては不謹慎あるが、北島にいたため無事だった。

  その意味で非常に親近感ある国なので、今回の災害には心が痛い。

  先日その一人から無事である旨の報告が来たので、書き留めておくことにしたしだい。

  ちなみにヴィクトリア大学ウェリントン校への留学生である。

     日本人で死亡が確認された平内さんは元校長で、勉学のために留学中だったよし、素晴らしい方を喪ったと思う。衷心よりご冥福を祈り、未だ確認されていない方の早期の救出を祈るのみ。

 

 

平内好子さんの死亡確認=日本人安否不明者で初―NZ地震で外務省発表 時事通信 3月6日(日)

 ニュージーランドの大地震で、クライストチャーチ市内で被災し、安否が不明だった日本人28人のうち、富山県魚津市の平内好子さん(61)の死亡が確認された。外務省が6日発表した。
 日本人の安否不明者のうち、死亡が確認されたのは初めて。
 平内さんは、2007年から昨年まで県立滑川高校の校長を務めた。同校の教頭だった時には生物の教師として教壇に立つことも。金山史生教頭は「優しく、強く、素晴らしい先生だった」と振り返った。
 退職後に富山外国語専門学校に入り、クライストチャーチに留学。一時は救助され病院に搬送されたと伝えられ、「みんなで手をたたいて喜んだ」。だが、実際には安否不明だったことが判明。金山教頭は「とにかく助かってほしい」と、救助の連絡を待ち続けていた。