聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/2/14 マタイ伝16章21~28節「いのちを捨てる者はいのちを得る」

2021-02-13 12:06:42 | マタイの福音書講解
2021/2/14 マタイ伝16章21~28節「いのちを捨てる者はいのちを得る」

 イエスがご自分の苦難の最期と三日目のよみがえりをハッキリと予告したのは、この箇所が初めてです[1]。イエスは、勇ましい英雄や輝かしいスターではなく、苦しみを受け、殺され、三日目に甦る、それが
「なければならない」
こと、ご自分に定められた道だと仰有います[2]。
 これを聞いたペテロは、イエスを脇にお連れして諫め始めます。
「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」
 こう言うとイエスは「振り向いてペテロに言われた。
「下がれ[3]、サタン。あなたは、わたしを躓かせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
 つい先ほど、イエスを神の子キリストと告白して、この岩の上に教会を建てる、と言われたペテロが、ここではサタン呼ばわりされてしまいます。ここにこそ、教会がキリストを土台とする神の教会である面と、今でも神に属する考えではより人の世界だけで考えてしまい、イエスの道を妨げてしまう面もある現実が現れています。
 イエスはペテロを叱って終わらず、弟子たち全員に言われます。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て[4]、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」。
 十字架刑は、当時のローマ帝国で最も残酷な磔の処刑方法でした。十字架に掛けられる人は、鞭で背中の肉が裂けるほど打たれてから、十字架の横木を背負って、処刑場まで運ばされました。この横木は40kgほどで、重さにも増して見せしめ、「この人は十字架の死に向かっている」と死の宣告をする道のりでした。「自分の十字架を負う」とは死に向かう者として生きることです[5]。イエスは
「重荷を負っている者は来なさい。休ませてあげよう。わたしのくびきを負いなさい」
と仰ったのですから、苦行とか自分を罰するとか、殺すとかではないのです。十字架を負うとは、本来、私たちが人生を捉える鍵です[6]。それが分からないために、イエスの苦しみと死を聞いても「あってはならない」と反応してしまうのです[7]。イエスの十字架と復活は、私たちの身代わりであるだけでなく、私たちにいのちを示しています。苦しみは当然避けたいですが、苦難や死から逃れることでは命はますます死んでいきます。いのちは神からの賜物だからです。
25自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。
 いのちとは救おうと思うなら失うもの、主のために失う時、見出すもの。それがいのちなのです[8]。主イエスは私たちの代わりに死ぬだけでなく、わたしについて来なさいと仰います。その主イエスは、いのちを捨てる道を歩まれました。それは私たちを愛されたからです。
人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません[9]。
 この神の愛こそ私たちのいのちです。そのイエスに従って、私たちが愛することを学び、変えられていくなら、私たちも主のためにいのちを手放したり捨てたり失うことも受け入れるようになるのです。それこそが、永遠のいのちです[10]。それは得るいのち、というより、愛に満たされて、神のため、他者のためにすべてを惜しまず与えるような生き方です。
26人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。
 人の命は全世界を手に入れるより価値がある。全世界をもっても命を買い戻すには足らない[11]。そう仰ったイエスは、私たちのいのちを買い戻すために、ご自分の死、それも十字架の死、上着も下着も、尊厳もプライドも、本当に何もかも剥がされる死によって、私たちを買い戻してくださいました。だから、もう自分をお金や何かで救おうとする必要もないし、信仰とか善行とか自己犠牲によって救おうとする必要もない[12]。逆に、苦しんだり殺されたり、否定され理解できない人生だとしても、それはその人のいのちが無駄だった、人生の損失だったなどとは言えない。そう思わせるのが、サタンの声ではあるし[13]、私たちもそのような思いで神の憐れみや祝福を思い描きがちです[14]。でもそれこそ
「神のことを思わず、人のことを思っている」
考えです[15]。主イエスは、「ついてきなさい。わたしのように与えるいのち、与える愛、苦しみや喪失も覚悟する歩みに従いなさい。失わないことを期待するより、失う時に初めていのちを見出すのだよ」と仰っています。教会は、このイエスのゆえに、自分やお互いや、すべての人のいのちのかけがえのなさを、多くの喪失や問題の中でも、信じて証しする存在です[16]。

 先週お話ししたように、この舞台のピリポ・カイサリアはヨルダン川の源流の一つです。ヨルダン川はやがてガリラヤ湖に注ぎ、南から再び流し、流れた水は死海に注ぎます。死海は終着点です。どこにも水を流さない死海は、水分が蒸発するだけで塩分だけが残り、塩っぱい海になり、魚は住めない。だから死の海と呼ばれるのです[17]。一方、ガリラヤ湖は雪解け水をたっぷりもらって、更にヨルダン川にたっぷり手放しているガリラヤ湖は、沢山の魚が住み、漁業も農業も盛んな命の宝庫です[18]。受けて与え、もらいっぱなしでなく惜しみなく差し出す循環がいのちです[19]。もらって与え、吸って吐き、愛されて愛し、手放しては見出す。それがいのちです。
 (ただし、死海にも観光や泥パックなど沢山の特産品があります。もらうだけの死海も、神は特別なことをしてくださいました。いのちを自分の力で救おうとして、恵みとは真逆の生き方をしている人も、神は一人一人特別に愛して、そこに特別な恵みを現しておられます。)
 それに気づくからこそ、私たちは自分のいのちを手放せるのです。

「主よ。あなたは私たちのいのちをご自身の値をつけてくださいました。あなたが愛されたように私たちも愛し、あなたが捧げられたように喜んで捧げるようになる日へと、あなたは既に導いておられます。あなたが十字架を負われたからこそ、私たちも自分を捨て、十字架を負いつつ、復活の希望に生きることが出来ます。サタンの欺きから私たちの目を開き、死の先にこそ復活の命を喜び見させてください。与えられたように与える歩みへと立ち戻らせてください」

脚注:

[1] 9:15、12:40で苦難は匂わされていたが、ハッキリはここが初。だからこそ、ペテロは否定したのです。

[2] 「なければならない」(ギリシャ語デイ)は、道徳的な義務ではなく、神のご計画の中で、そうするように定められている、という意味です。それは、前回見ましたように、弟子のペテロがイエスを「あなたは生ける神の子キリストです」と初めて告白をして、その告白の上にイエスがご自分の教会を建てると仰った、そういう新しい段階に来たからでしょう。イエスは、この世界に来られた神の子で、ご自身の教会、神の民の集まりを今日まで造ってこられました。私たちが今ここに、教会としてあるのも、この神の子イエスの教会建設の延長なのです。

[3] 「下がれ」ヒュパゲ 「私の後ろに下がれ」の意。追い出したのではなく、ご自身に従うことを求めたのです。

[4] 「自分を捨て」 ハパルネオマイ。26:34、35、26:75で「イエスを知らないという」で使われる語。否認です。「自分を押し殺す」ということではなく、「いのちを救おう」とすることを止める態度です。

[5] 「自分の十字架」というと、キリスト者であるなしにかかわらず、大きな苦しみとか、解決できない悩み、過去の間違いの結果を罰として引き受ける、などの意味で使われることがありますが、「十字架を負う」とはどういうことか、が、より本来の理解に近づく鍵になるでしょう。

[6] 主イエスは私たちのために十字架に死んでくださいました。それは私たちの身代わりでもありますが、「だから私はもう十字架を負わなくて良い」ではないのです。

[7] 「十字架」は弟子たち、私たちに言われているのであって、イエスご自身が十字架に掛かるとは21節でもこの後でもまだ言われていません。最初の「十字架」は、10:38。そこも、ここも、イエスの十字架ではなく、私たちに「自分の十字架を負ってわたしに従って来なさい」と言われたこの言葉。私たちが、自分の十字架を負うことを厭うているなら、イエスの十字架をも恥じる。教会に十字架を掲げつつ、その主がどれほど恥ずかしく、惨めに笑われたかを、どこかで(あるいは堂々と)恥じ、隠しながら、格好のいい宣教をするだろう。本当に愛し、献げるよりも、「愛のある人だ、すばらしい教会だ」と言われる評価を伝道だと勘違いするようになろう。

[8] 「見出す」マタイに26回。1:18、2:8、7:7、14、8」10、10:39、11:29、12:43、44、13:44、46、16:25、17:27、18:13、28、20:6、21:2、19、22:9、10、24:46、26:40、43、60、27:32。マタイは「見出す」ことを、福音のキーワードの一つとしているかのようです。いのちは、努力して自分のものにするより、見つけ出させてくださる贈り物なのです。

[9] ヨハネの福音書15章13節。

[10] 信仰の始まりは、救われるためにキリストを信じる、という理屈かもしれません。それが段々と、信じたキリストの素晴らしさ、あわれみを深く知って、自分のいのちを捧げて、自分も死に向かって生きるようになっていく。

[11] 詩篇49:6-12「豊かな富を誇っている。7 兄弟さえも 人は贖い出すことができない。自分の身代金を神に払うことはできない。8たましいの贖いの代価は高く永久にあきらめなくてはならない。9人は いつまでも生きられるだろうか。墓を見ないでいられるだろうか。10彼は見る。知恵のある者たちが死に愚かな者 浅はかな者も等しく滅び自分の財産を他人に残すのを。11彼らの心の中では その家は永遠で 住まいは代々に及ぶ。彼らは 土地に自分たちの名をつける。12しかし 人は栄華のうちにとどまれない。人は滅び失せる獣に等しい。」

[12] 私たちのいのちに価値がないから捨てるのではない。世界を得ても代価に出来ないほどの価値が、いのちそのものにある。だからこそ、いのちを救おうとするより、手放して生きる。イエスがなさったように、献げながら生きる。

[13] サタンの最初の欺きは、神の命令を守らなくても死なない、神はあなたがたに自分のようになってほしくない、という嘘でした。創世記3章。

[14] 22節の「とんでもないことです」は欄外「直訳「あなたにあわれみがありますように」」とあるように、「神のあわれみがあるなら、そんな出来事が起きるはずはない。神を冒涜するようなそんな言葉を言うあなたを、神があわれんでくださるように」という感嘆詞です。

[15] 「神のことを思わないで人のことを思っている」 「神のこと」とは、自分を捨て、自分の十字架を負い、自分のいのちを救うより失うことを厭わず、その時にこそいのちを見出し、神の子イエスもいのちを捨ててくださったと知ること。自分のために、全世界とはいわなくても、自分の小さな世界を守ろうとするのも、自分の価値を否定して、自己犠牲や感情に蓋をした歩みをすることも、どちらもここでイエスが言われていることではないだろう。イエスは十字架を喜んで担ったのではなく、十字架をも厭わずに、私たちにいのちを得させてくださった。私たちも、自分や他の人、イエスに、かけがえのないいのちの尊厳がある事を告白する。自分の責任や、使命を、それがどんなに恥や痛みであろうとも日毎に背負いつつ、喜び、いのちを祝いながら生きる。その私たちがいのちを差し出す生き方を、他者が批評し「とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがない」と全くの善意から邪魔をしようとしても、世界が石をぶつけてきても、私たちは怯むことなく、命の冒険に出ていく。

[16] ディートリヒ・ボンヘファー「教会は、他者のために存在するときに、はじめて教会である」。証しのため、奉仕のため、伝道のため、ではなく、教会も信徒も、他者を喜んで生きるほど、自分のいのちに十分な価値があると疑わずに、手放していく。そのとき、教会は教会となる。

[17] 「死海の水源はヨルダン川だけである。年間降水量は50mmから100mmと極端に少なく、気温は夏が32°Cから39°C、冬でも20°Cから23°Cと非常に高いため、湖水の蒸発が水分供給を上回る状態で、高い塩分濃度(33%)が生まれた。海水の塩分濃度が約3%であるのに対し、死海の湖水は30%程度の塩分濃度を有する。…この濃い塩分濃度のため、湖水の比重が大きくなり、結果、浮力も大きいので、人が死海に入って沈むことは極めて困難で、「湖面に浮かんで本が読める」湖として知られる…。また後述の例を除き、生物の生息には不向きな環境であるため、湧水の発生する1か所を除き、魚類など生息は確認されていない。死海という名称の由来もここにある。しかし、緑藻類のドナリエラ(Dunaliella salina)や古細菌類の高度好塩菌の生息は確認されている。」Wikipediaより。

[18] 「1世紀の歴史家フラウィウス・ヨセフスはこう書いている、「この地域では自然の造形のすばらしさに心打たれずにはおれない。」同時にヨセフスは湖で常時230艘もの漁船が活動するほど漁が盛んだったと伝えている。…現代では、ガリラヤ湖畔は再び観光地としての賑わいを取り戻している。歴史の荒波を乗り切って存続した古都ティベリアには国内外から多くの観光客が訪れている。ガリラヤ湖は観光でにぎわうだけでなく、イエスの時代と変わらず漁業が営まれ、湖岸ではバナナの栽培なども行われている。」Wikipediaより。

[19] 参照、ガリラヤ湖と死海 https://blog.goo.ne.jp/chica-0501/e/65aaf4458d611694ed018952a0c66c16

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2021/2/7 マタイ伝16章13~20節「この岩の上に」

2021-02-06 12:38:33 | マタイの福音書講解
2021/2/7 マタイ伝16章13~20節「この岩の上に」

前奏
招詞  イザヤ書57章15、18節
祈祷
賛美  讃美歌8「聖き御使いよ」
*主の祈り  (マタイ6:6~13、新改訳2017による)
交読  詩篇100篇(24)
賛美  讃美歌191「いとも尊き」①②
聖書  マタイの福音書16章13~20節
説教  「イエスという岩の上に」古川和男牧師
賛美  讃美歌194「栄えに満ちたる」
献金
感謝祈祷
 報告
*使徒信条  (週報裏面参照)
*頌栄  讃美歌542「世を挙りて」
*祝祷
*後奏

 今日の舞台のピリポ・カイサリアは、現在イスラエルの北にある、滝や泉がある自然豊かな観光地です[1]。町の名前も、ヘロデ大王の息子ピリピが皇帝カイザルに献上したからで、それに相応しい絶景の地。美しい景勝地でした。
 マタイの福音書の流れで言えば、主イエスの旅が最もエルサレムから遠い場所に来られて、この後17章の後半からエルサレムでの十字架に向かって下っていく、その折り返しのクライマックスでもあります。その時に、イエスと弟子が、
「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」…「あなたは生ける神の子キリストです。」
という会話をします。ここに、この福音書の旅も、山場・峠を迎えたのです。
 他の人々は、イエスのことを
「洗礼者ヨハネだ」
「(預言者)エリヤだ」
「エレミヤだ」
「他の預言者だ」
と言っていました。イエスの先、旧約聖書の時代から神は多くの預言者を遣わして、やがて私たちを救い、治めてくださる王(メシア、キリスト)を遣わす約束を語り、その方を迎えるに相応しい生き方をするよう命じました。イエスがおいでになった時、人々はイエスが神から遣わされた特別な方だと思いつつ、約束の王その方本人とは思いませんでした。メシアはもっと高貴な方、強く、威厳のある方、疑いの余地のない方だと思ったのです。けれどもイエスのそばにいた弟子たちは
「あなたは生ける神の子キリストです」
と告白したのです。
 イエスがキリスト、神から送られた王だという告白は、このマタイ福音書一章一節からの主題です[2]。この福音書の、そして新約聖書、聖書全体の中心がこの告白です。それが、ここで遂に告白されました。私たちとともにいて、神を父として信頼しきり、どんな人にも分け隔て無く関わり、こんな辺鄙な地にまで連れて来た「あなたは神の子キリストです」と。直前まで弟子たちはイエスに呆れられるほど鈍感でした。今まで弟子たちのしてきたことは何をやってもとんちんかんでした。弟子の言葉がイエスに認められたのはここが初めてです。ですから、
17すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
 「血肉」は欄外に「人間」という別訳があります。シモン自身の人間性とか、父ヨナの子として受け継いだ血のおかげではない。天にいます父、イエスの父が明らかにして、ペテロに授けられた告白です。イエスは天の父の子としていつも歩んでいました。洗礼の時は天から、
「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」[3]
と言われました。その父が、今シモンにもイエスをキリストと告白させてくださいました。私たちもそうです。私たちがイエスをキリストと告白するようになったのは、私たちが立派だからとか優秀だからではありませんね。天の父なる神の不思議な働きかけによることです。
18そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。
 ペテロとは石、イエスがシモンにつけた渾(あだ)名(な)です。頑固さ、鈍さ、良くも悪くもペテロらしさです。それに続く「岩(ペトラ)」は大きな巨石です[4]。それは天の父が小さなペテロに与えて下さった分不相応な告白です。イエスはキリストと告白する上に、イエスはご自身の教会、神の民の集まりを建てる[5]。それは、よみ(死者の世界)の門、死の力も打ち勝てない、主の民です。
19わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。
 この「鍵」とは閂のことだともされます[6]。つなぐ解く、開ける閉めるを大胆に現すイメージです。イエスの教会は、よみも天の御国の門も開き、今ここで神の国の民としての歩みを与えるのです[7]。しかし、ペテロや教会に絶対的な権力が与えられたわけではありません。直後21節以下、ペテロはイエスの十字架予告を否定して
「下がれ、サタン」
と厳しく窘められてしまいます。ペテロも教会も様々な間違いを犯してきました。イエスを否定するような考えがまだまだ染みついていたり、イエスの恵み以外のものにしがみつこうとしたりする私たちです。ただ、神によって私たちはイエスを告白し、天の御国が今ここで始まっているとさえ言えるのです。イエスの言葉に教えられ、間違っては育てられ、主の憐れみに与りながら、教会として歩ませていただけるのです。この告白は天の父からの贈り物。その上に主イエスご自身が教会を建てます。そこにペテロも、私たちも、加えられ、神の教会として歩んでいるのです。

 ピリポ・カイサリアはエルサレムから遠く離れた町でした。皇帝が崇められ、異教の神話があった町です。ここで弟子たちはイエスを告白するだけでなく異邦人も見たでしょうし、偶像の神殿も見たでしょう。そしてその絶景、豊かな水源の美しい景色に目を見張ったでしょう。それはヨルダン川の源流の一つでした[8]。泉から湧き出た小川は曲がりくねり、滝になり、やがて他の川とともにヨルダン川に流れ、遂にエルサレムに届いたのです。
 私たちがイエスを告白したのが、神から遠い所やどんな所であっても、それは天の父が授けた始まりです。その後の歩みで流れを変えたり落ちたり、最初には考えもしなかった所に連れて来られ、別の流れと出会う。その導かれた場所々々で、ともに「あなたは生ける神の子キリストです」と主に立ち返り続けるのが教会です。この教会の主も、他の誰でもなく主イエスです。
 欠けだらけのペテロを愛し、最初の告白を与えて教会を建て、今も私たちを加えてそれを続けておられるのです。

「主イエス・キリストの父なる神よ。あなたは御子を喜び愛するだけでなく、その告白を私たちにも与えて、主を歌う流れに入れてくださいました。イエスが主、救い主、王でいてくださることに教会の土台があり、私たちの立ち戻る揺るぎない礎があります。あなたが私たちを支えてくださいます。遠い、回り道のような旅に戸惑い、恐れる時も、お支えください。よみの門より強く、天の御国も開かせる主イエスの教会として、今もここで主を告白させてください」


文末脚注


[1] 現在のイスラエルではパニアスが正式名称ですが、観光のためカエサレア・ピリピでも検索できます。イスラエルの観光サイトでは、ラフティングの様子が真っ先に紹介されています。https://israel.travel/upper-galilee/

[2] キリスト 1:1以来のマタイの主題。16回。1:1「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。」、16「ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。17 それで、アブラハムからダビデまでが全部で十四代、ダビデからバビロン捕囚までが十四代、バビロン捕囚からキリストまでが十四代となる。18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。」、2:4「王は民の祭司長たち、律法学者たちをみな集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。」、11:2「さて、牢獄でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、自分の弟子たちを通じて」、16:16「シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」」、16:20「そのときイエスは弟子たちに、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と命じられた。」、22:42「「あなたがたはキリストについてどう思いますか。彼はだれの子ですか。」彼らはイエスに言った。「ダビデの子です。」43イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは御霊によってキリストを主と呼び、」、45「ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」、23:10「また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただ一人、キリストだけです。」、24:5「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします。」、24:23「そのとき、だれかが『見よ、ここにキリストがいる』とか『そこにいる』とか言っても、信じてはいけません。24 偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと、大きなしるしや不思議を行います。」、24:26「ですから、たとえだれかが『見よ、キリストは荒野にいる』と言っても、出て行ってはいけません。『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはいけません。」、26:63「しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司はイエスに言った。「私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか、答えよ。」」、68「「当ててみろ、キリスト。おまえを打ったのはだれだ」と言った。」、27:17「それで、人々が集まったとき、ピラトは言った。「おまえたちはだれを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」22 ピラトは彼らに言った。「では、キリストと呼ばれているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはみな言った。「十字架につけろ。」

[3] マタイの福音書3章16節。

[4] 欄外に「ペトラ」とあります。語呂遊びでありつつ、「岩」とは旧約聖書に多出する主のモチーフです。創世記49:24(…ヤコブの力強き方の手から、そこから、イスラエルの岩である牧者が出る。)、申命記32:4(主は岩。主のみわざは完全。まことに主の道はみな正しい。…)、Ⅰサムエル記2:2(主のように聖なる方はいません。まことに、あなたのほかにはだれもいないのです。私たちの神のような岩はありません。)、Ⅱサムエル記22:3(身を避ける、わが岩なる神よ。わが盾、わが救いの角、わがやぐら、わが逃れ場、わが救い主、あなたは私を暴虐から救われます。)、32(主のほかに、だれが神でしょうか。私たちの神のほかに、だれが岩でしょうか。)、47(主は生きておられる。ほむべきかな、わが岩。あがむべきかな、わが救いの岩なる神。)、23:3(イスラエルの神は仰せられた。イスラエルの岩は私に語られた。『義をもって人を治める者、神を恐れて治める者。)、詩篇18:2(主はわが巌 わが砦 わが救い主 身を避けるわが岩 わが神。わが盾 わが救いの角 わがやぐら。)、31(主のほかに だれが神でしょうか。私たちの神を除いて だれが岩でしょうか。)、46(主は生きておられる。ほむべきかな わが岩。あがむべきかな わが救いの神。)、19:14(私の口のことばと 私の心の思いとが 御前に受け入れられますように。主よ わが岩 わが贖い主よ。)、27:5(それは 主が 苦しみの日に私を隠れ場に隠し その幕屋のひそかな所に私をかくまい 岩の上に私を上げてくださるからだ。)、28:1(主よ 私はあなたを呼び求めます。わが岩よ どうか私に耳を閉ざさないでください。私に沈黙しないでください。私が 穴に下る者どもと同じにされないように。)、31:2(私に耳を傾け 急いで私を救い出してください。私の力の岩となり 強い砦となって 救ってください。)、61:2(私の心が衰え果てるとき 私は地の果てから あなたを呼び求めます。どうか 及びがたいほど高い岩の上に 私を導いてください。2 神こそ わが岩 わが救い わがやぐら。私は決して揺るがされない。)、62:6(神こそ わが岩 わが救い わがやぐら。私は揺るがされることがない。7 私の救いと栄光は ただ神にある。私の力の岩と避け所は 神のうちにある。)、71:3(私の避け所の岩となってください。いつでもそこに入れるように。あなたは私の救いを定められました。あなたは私の巌 私の砦なのです。)、73:26(この身も心も尽き果てるでしょう。しかし 神は私の心の岩 とこしえに 私が受ける割り当ての地。)、78:15(荒野で 神は岩を割り 大いなる深淵の水を 豊かに飲ませてくださった。16 あふれる流れを 岩からほとばしらせ 水を 豊かな川のように流れさせてくださった。)、78:20(確かに 神が岩を打たれると 水が湧き出て 流れがあふれた。だが神は パンも与えることができるのか。民のために 肉を用意できるのか。」)、78:35(彼らは思い出した。神が自分たちの岩であり いと高き神が自分たちを贖う方であることを。)、81:16(しかし主は 最良の小麦を御民に食べさせる。わたしは岩から滴る蜜で あなたを満ち足らせる。」)、89:26(彼は わたしを呼ぶ。『あなたはわが父 わが神 わが救いの岩』と。)、92:15(こうして告げます。「主は正しい方。わが岩。主には偽りがありません。」)、94:22(しかし主は私の砦となり 私の神は 私の避け所の岩となられました。)、95:1(さあ 主に向かって 喜び歌おう。私たちの救いの岩に向かって 喜び叫ぼう。)、104:18(高い山は野やぎのため 岩は岩だぬきの隠れ場。)、105:41(主が岩を開かれると 水がほとばしり 川となって砂漠を流れた。)、114:8(神は 岩を水の潤う沢に変えられた。硬い岩を 水のあふれる泉に。)、137:9(幸いなことよ おまえの幼子たちを捕らえ 岩に打ちつける人は。)、141:6(彼らのさばき人たちが 岩の傍らに投げ落とされるとき 彼らは私のことばが どんなに優しいものだったかを知るでしょう。)、144:1(わが岩なる主が ほめたたえられますように。戦いのために私の手を 戦のために私の指を鍛えられる方が。)、イザヤ書17:10(あなたが救いの神を忘れ、あなたの力の岩を覚えていなかったからだ。それゆえ、あなたが好ましい植木を植え、他国のぶどうのつるをさしても、)、26:4(いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから。)。

  また、当然、マタイの福音書では7章の「岩の上に家を建てる」たとえが思い起こされるでしょう。7:24(ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。25雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。)

[5] 「教会」というのも福音書ではこことマタイの18章17節にしか出てこない言葉で、建物のことではなく、集会、集まりのことです。ギリシャ語エクレシアは、旧約聖書のギリシャ語訳では、ヘブル語カーハルの訳語として、申命記31章30節(32章1節)、ヨシュア記8章35節(9章8節)、士師記21章8節、Ⅰ歴代誌29章1節に用いられます。

[6] 加藤常昭『マタイによる福音書 3』

[7] この場合の「天の御国」も、「天国」いわゆる、「死後に救われていく幸福の場所」ではなく、天の父が王として治めたもう王国のこと。つまり、ここまでも語られてきた、イエスの福音の一員であることです。

[8] ヨルダン川の源流 バニアス http://hashim.travel.coocan.jp/israel/israel019.htm


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2021/2/7 創世記一章11-13節「育つもの」こども聖書③

2021-02-06 12:33:06 | こども聖書
2021/2/7 創世記一章11-13節「育つもの」こども聖書③

 聖書の最初、創世記には、神がこの世界のすべてをお造りになったことが書かれています。今日はその第三日目、地の植物をお造りになった所を読んでいきましょう。
神様は、土というものをすばらしい栄養のあるものとしてつくられました。
そうです。だから土の中で何かが育つのです。
「地の上に芽生えよ。」と神様が言われると、突然、地は命溢れる庭になったのです。
温かい、茶色の土の中から、色々な種類の花や草が芽生えました。
実のなる木も育ち、柔らかな若枝を伸ばしています。
小さな種から野菜が芽生え、硬く閉じていた芽から花が出始めました。
 神は、水だけの地を、陸と海に分けられました。そして、その地に、花や草や木を育てられました。はじめて、いのちが芽生えたのです。それまで、いのちはなかったのに、世界にいのちが芽生えました。それは、とてもとても不思議なことです。命のない世界に生物が出来て、育つ。その不思議なことが起きたのは、神のおことばによります。
実のなる木はすぐに大きくなりました。根は土の中の深くまで、枝には甘い香りの実が、重たそうにぶら下がっています。緑の葉をつけた、背の高い木は空に向かって伸びています。天まで届くかのように。香りの良い花が様々な色をもって咲き誇っています。大事な種は、風に運ばれて、遠く、広く、散らばっていきます。神様は、この世界を目の覚めるような彩りで塗られました。どんなにか美しかったことでしょう。
 命のなかった世界に、沢山の植物が生えるようになりました。その植物が、動物の食べ物になり、空気を整えて、世界に人が住める準備に欠かせません。世界にある植物は、神がお造りになったものです。私たちの食べ物や空気のもとになっている植物は、すべて神のおつくりになった、いのちの奇蹟です。神は見えないお方ですが、見える植物は神の作品です。私たちの周りには、神の証拠が溢れるほどにあるのです。
マタイ6:28-30野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装ってはいませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。
 野に咲いている一本の花も、神がこれ以上無いほど美しく装って下さっています。教会の生花は、花を美しく咲かせておられる神様を覚えさせてくれます。花は喜びのお祝いでも、悲しみの時にも、私たちの心を深く慰めてくれます。また、私たちの食事の時にも、野菜や果物は私たちの栄養になり、目を楽しませ、体も心も強めてくれます。

 皆さんは植物で何が好きですか? 好きな野菜と果物と花を一つずつ教えてください。

 いろんな野菜や果物がありますね。神様は、栄養のためだけでなく、形も色も味も違う果物や野菜、植物をたくさん作られて、私たちを楽しませてくださっています。

 ここには「種類に従って」という言葉が何度も出て来ます。神様が作られた生き物は、植物も、動物も、簡単には混じり合えない種類に分かれています。それぞれの役割があり、個性が違っています。どれが優れていて、どれがダメだということではなく、違いがあるのです。神ご自身が、この世界を楽しまれて、いのちを溢れさせておられます。それは、人間には真似できない、いのちの神のすばらしい栄光です。
マルコ4:26-29神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。地はひとりでに実をならせ、初めに苗、次に穂、次に多くの実が穂にできます。実が熟すと、すぐに鎌を入れます。収穫の時が来たからです。
 種が苗になり、穂を出し、実を実らせる。それは、人の業ではありません。今でも世界中で毎日毎日繰り返されている、神の御業です。
Ⅰコリント3:6-7私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
 そして、私たちはこの神が私たちにも、必要なものを与えて、成長させて、実を結ばせてくださることを信頼することが出来ます。
Ⅱコリント9:10種蒔く人に種と食べるためのパンを与えてくださる方は、あなたがたの種を備え、増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。

 神は私たち人間にも、良い実を結ばせようとなさいます。後で、神が人間に、ひとつの木を指して、その木からは取って食べてはいけないと命じます。それは、その約束が大事だったからであって、その木が毒の木だったからではありません。神が作られた木はすべて良いもので、私たちを神への信頼へと育てるものです。

 勿論、人間には食べられない実もあります。実を実らせない木もあります。それぞれに役割があります。食べられる実はない代わりに、家を作ったり、家具にする木もあります。やがて、この木を使って、神はノアに箱船を作らせ、ノアの家族を救われました。

 また、その木を組み合わせた十字架に、神の子イエス・キリストは掛けられて、私たちのために死んで下さいました。十字架の木もまた、私たちに神のいのちをハッキリと示してくれています。

 そして、聖書の最後には、やがてこの世界が終わってから始まる、栄光の御国においても、いのちのきがいのちの実を実らせていることを証ししています。
御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を見せた。川は神と子羊の御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。黙示録22:1-2

 この世界の育つものを通して、神様は私たちに沢山の贈り物をくださっています。

「いのちをお造りになった神様。美味しい野菜や果物、小さな花、私たちの周りに溢れている御業、私たちを支えている植物を有り難うございます。あなたが作られた植物を私たちが大事にし、あなたへの信頼と感謝を捧げさせてください。また、私たちも、あなたの豊かな恵みに養われて、一人一人のかけがえのない実を結ばせてください」
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2021/1/24 創世記一章6-10節「空と海」こども聖書②

2021-02-03 21:10:21 | こども聖書
2021/1/24 創世記一章6-10節「空と海」こども聖書②

 神が最初に、世界を造られた時、地は何もなく、闇だけでした。しかし、その世界を神の霊が覆っていて、神が「光、あれ」と言われると光が照ったのでした。先週から、聖書の話を初めから見ています。では神は、次に世界に何を造られたのでしょうか?
神さまはつくられた世界をごらんになり、今度はこう言われました。
「大空よ、あれ。」 
神さまのお言葉の力って、すごいものなのですよ。
まるで糸紡ぎを回すかのように、空気の帯を何重にも造りだし、ひとつひとつを青色で包みました。
やがて、きれいな空ができあがり、澄み切った空気が溢れました。

 神が次に「あれ」といわれたのは「大空」でした。何もなく、水がうねっていただけの世界に、大空が出来ました。水を、上の水と、下の水に分けたのです。こうして神は、世界を大きな空によって、整理なさったのです。神は「大空よ、あれ」と言われる事で、この世界を整理してゆかれました。これが第二日でした。聖書の書かれたのは、今から何千年も前です。その頃は、飛行機もありませんし、人工衛星から撮った写真もありません。人は、下から天を見上げて、雲や星空を見るだけでした。
 今から150年程前、1862年に初めて気球で、高度七千メートルまで上った出来事がありました。そうして初めて、雲の様子や地球を何重もの空気の層が覆っていることが分かったのです。それまで天気予報なんて出来るとは思っていなかったのです。
 映画「イントゥ・ザ・スカイ」より

 そして、今は私たちの見る雲が、どんな風に発達して、どんなに違うかが分かっています。
 高い雲は一万メートルもの高さにまでなります。その間に、いくつもの層があって、それぞれの高さに特徴のある雲があります。羊雲、雷雲、うろこ雲、雨雲… 他にも沢山のユニークな雲があります。皆さんが飛行機に乗れば、色々な雲を見たり、雲の海を上から覗くことも出来ますし、飛行機が飛べないほど遙かに高い空を泳いでいる雲の様子を、私たちは目で見ることさえ出来るのです。
 この大きな空を、神が「大空よ、あれ」と仰有って造ったのです。それは、私たちの理解を遙かに超えたことです。そして、私たちはこの空を、今も見ることが出来ます。大きな空を見上げて、そこに浮かんでいる雲や、不思議な空の景色を見上げることが出来ます。天を見上げれば、今も、天をお造りになった神を思う事が出来ます。大きな天を、その言葉でお造りになったもっと大きな神さまを、ただ見上げているだけで、私たちの心も広く風が吹き抜けていきます。

それから神さまは、世界に水を注ぎ込みました。
それはあっという間の出来事でした。
あるところから水がほとばしり出て、世界を覆ったのです。
水が世界を綺麗にしてくれました。
神さまは水をきちんと分けて、流れを造られました。
どうやったのでしょう。
大きな高い山や広い谷、くぼみや丘、平らなところを造って、大きな大きな水の体を分けられたのです。
また水が集まる所も造られました。
池や湖です。
流れる川は大地を横切って、やがて大きな海に流れ込みました。

 大空が、上の天と下の地を分けた時は、まだ下の地は、海も陸も混ざっていました。神は三日目に、陸と海を分けて、山や谷、丘や平らな所が出来、池と湖と海も分けられました。この世界が、段々と生き物が住める世界になっていったのです。動物や人が生きていけるような世界に、神はこの世界を整えてくださいました。

 地球を外から見るなら、大きな宇宙の中に浮かぶ、本当にちっぽけな星の一つに過ぎません。その地球も、海の方が多くて、陸はその半分にも足りません。私たちが住んでいる陸よりも、遙かに大きな海や宇宙が世界に広がっています。神がその世界をお造りになった、ということは、信じられないほど素晴らしいことです。そして、その偉大な世界を、神は丁寧に丁寧にお作りになりました。私たちのために、一日一日、少しずつ、時間をかけて、この世界をお作りになって、私たちをそこに置いてくださったのです。

 神が、大空を造り、陸と海とを分けられたこと。今日のこの二つの御業は、聖書の中で繰り返されている、神の偉大さです。神は、私たちがちっぽけな頭で考えるよりも、遙かに大きく、力強く、驚くべきお方、不思議なお方だ、ということです。
イザヤ40:22主は、地をおおう天蓋の上に住む方。地の住民はバッタのようだ。主は、天を薄絹のように延べ広げ、これを天幕のように張って住まわれる。

42:5天を創造し、これを延べ広げ、地とその産物を押し広げ、その上にいる民に息を与え、そこを歩む者たちに霊を授けた神なる主はこう言われる。「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握る。あなたを見守り、あなたを民の契約として、国々の光とする。

 天の大きさを見て、それを延べ広げて、私たちを住まわせた神が、私たちに、約束の言葉を下さっています。それなのに、私たちは、その神さまを忘れて、自分の小さな頭の中で、思い上がったり、悩んでしまったりするものです。折々に空を見上げて、大きな天、大きな雲を想い、バッタのように小さな自分であることを弁えましょう。
あなたは大空を神とともに張り広げられるのか。鋳た鏡のように硬いものを。…  ヨブ記37章18節
海が噴き出て、胎内から流れ出たとき、だれが戸でこれを閉じ込めたのか。そのとき、わたしは雲をその衣とし、暗黒をその産着とした。わたしはこれを区切って境を定め、かんぬきと戸を設けて、言った。「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない。おまえの高ぶる波はここでとどまれ」と。  ヨブ記38章8-11節

 海を「ここまで。これ以上はいけない、留まれ」と仰有る神は、私たちも禍や悪から守られます。人間には到底理解できない力と知恵で、私たちをここに置いておられます。

 聖書には、神が一日、二日、三日と六日間で創造されたとありますが、今の科学では、世界の年齢は137億年、地球は46億年としています。そして、大空や宇宙の仕組みがもっとよく分かってきました。でも、知れば知るほど、謎が深まって、今でも研究が続いています。もっともっと、神がこの世界を長い時間掛けて、じっくりとお作りになった様子が想像できます。世界の不思議さ、神が楽しんで創造された面白さをぜひ勉強してください。そして、そんな大きな世界を造られた神様を讃美し、信頼していきましょう。

「天と地と海を造られた神さま。あなたの御手の偉大な不思議さは、この世界に満ち溢れています。あなたのなさることが私たちには理解しきれないのは当然です。あなたは私たちの思い及ばない素晴らしいお方だからです。あなたはこの世界をやがて必ずや完成に至らせます。造り主なるあなたへの讃美と信頼と希望を献げます。導いてください」



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