[1] マタイのおける「山」は、4:8(悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、)、5:1(その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。)、14(あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。)、14:23(群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。)、15:29(それから、イエスはそこを去ってガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして山に登り、そこに座っておられた。)、17:1、24:3(イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」)、26:30(そして、彼らは賛美の歌を歌ってからオリーブ山へ出かけた。)、28:16(さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。)
[2] この三人は、十字架直前のゲッセマネでの祈りでも、イエスのそばに置かれます。マタイ26:37「そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。」。マルコ5章、ルカ8章では、ヤイロの娘のよみがえりの時もこの三人だけがそばに置かれたとあります。しかし、マタイはこの事には触れていません。むしろ、マタイはペテロのエピソードを多く引用して、ペテロ個人とのイエスの関わりを重視しているようです。
[3] 出エジプト記33章17~34章10節「主はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出したのだから。」18モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」19主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」20また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」21また主は言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。22わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。23わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」34:1主はモーセに言われた。「前のものと同じような二枚の石の板を切り取れ。わたしはその石の板の上に、あなたが砕いたこの前の石の板にあった、あのことばを書き記す。2朝までに準備をし、朝シナイ山に登って、その山の頂でわたしの前に立て。3だれも、あなたと一緒に登ってはならない。また、だれも、山のどこにも人影があってはならない。また、羊でも牛でも、その山のふもとで草を食べていてはならない。」4 そこで、モーセは前のものと同じような二枚の石の板を切り取り、翌朝早く、主が命じられたとおりにシナイ山に登った。彼は手に二枚の石の板を持っていた。5 主は雲の中にあって降りて来られ、 彼とともにそこに立って、主の名を宣言された。6 主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、7 恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」8 モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏した。9 彼は言った。「ああ、主よ。もし私がみこころにかなっているのでしたら、どうか主が私たちのただ中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民はうなじを固くする民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自分の所有としてくださいますように。」10 主は言われた。「今ここで、わたしは契約を結ぼう。わたしは、あなたの民がみないるところで、地のどこにおいても、また、どの国においても、かつてなされたことがない奇しいことを行う。あなたがそのただ中にいるこの民はみな、主のわざを見る。わたしがあなたとともに行うことは恐るべきことである。」
[4] Ⅰ列王記19章1~14節「アハブは、エリヤがしたことと、預言者たちを剣で皆殺しにしたこととの一部始終をイゼベルに告げた。2すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。「もし私が、明日の今ごろまでに、おまえのいのちをあの者たちの一人のいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」3彼はそれを知って立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、4自分は荒野に、一日の道のりを入って行った。彼は、エニシダの木の陰に座り、自分の死を願って言った。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」5彼がエニシダの木の下で横になって眠っていると、見よ、一人の御使いが彼に触れ、「起きて食べなさい」と言った。6彼が見ると、見よ、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水の入った壺があった。彼はそれを食べて飲み、再び横になった。7主の使いがもう一度戻って来て彼に触れ、「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから」と言った。8彼は起きて食べ、そして飲んだ。そしてこの食べ物に力を得て、四十日四十夜歩いて、神の山ホレブに着いた。9彼はそこにある洞穴に入り、そこで一夜を過ごした。すると、主のことばが彼にあった。主は「エリヤよ、ここで何をしているのか」と言われた。10エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。」11主は言われた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」するとそのとき、主が通り過ぎた。主の前で激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。12地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。しかし火の後に、かすかな細い声があった。13エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て洞穴の入り口に立った。すると声がして、こう言った。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」14エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。」」
[6] 「すばらしい」カロスは「良い、美しい」の意です。
[7] シェキナーと呼ばれる雲は、旧約に頻出します。出エジプト記24章15、16節他。
[8] 父の声。この父が、ペテロに「あなたこそ生ける神の子キリストです」との告白を与えてくださったのです(16章17節)。イエスを愛し、イエスの苦難と死への道を承認されている父が、ここに幕屋を立てるより、イエスについていくことを命じられる。
[9] 「触れ」8:3(イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。)、15(イエスは彼女の手に触れられた。すると熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。)、9:20(すると見よ。十二年の間長血をわずらっている女の人が、イエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。21 「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と心のうちで考えたからである。)、29(そこでイエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。)、14:36(せめて、衣の房にでもさわらせてやってください、とイエスに懇願した。そして、さわった人たちはみな癒やされた。)、17:7、20:34(イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。すると、すぐに彼らは見えるようになり、イエスについて行った。)
[10] タボル山は、紀元2世紀に、山上の変貌の山とされ、記念会堂が建てられました。ガリラヤ湖のそばで、次のエピソードとのつながりがスムーズです。しかし、標高588メートルで「高い山」と呼べるのかなどの問題があります。もう一つは、ピリポ・カイサリアの向こうの、2,815mの雄峰ヘルモン山とする説です。こちらは、多数の支持を得ています。
[11] 今まで、イエスの衣は、長血の女や病人たちが触れて癒やされたもの(9:20、14:36)。やがては十字架の時に剥ぎ取られて、着せられ血まみれになり、くじ引きにされた(27:31、35)ものです。特別な服では無く、通常の衣服でした。イエスの栄光の服だから輝いたのでは無く、通常の服さえ輝かせたことは、主が私たちをも変えて下さることを思い起こさせないでしょうか。「姿が変わるメタモルフォーシス」は、ローマ書12:2(この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。)、Ⅱコリント3:18(私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。)で用いられているのと同じ言葉です。