聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/2/21 マタイ伝17章1~9節「ここにいることはすばらしいこと」

2021-02-20 12:32:57 | マタイの福音書講解
2021/2/21 マタイ伝17章1~9節「ここにいることはすばらしいこと」

 マタイでは、山上の説教や山に登っての祈り、そして、最後も復活のイエスとの再会がガリラヤの山の上と、よくイエスが山の上に舞台を取られますが、ここでもイエスは山の上に三人を連れて行きます[1]。するとイエスのお姿が輝くように変わったという出来事です。
 イエスの生涯でただ一度、弟子のうちのペテロとヤコブとその兄弟ヨハネの三人だけが目撃した、実に特別な出来事でした。この三人が選ばれたのは、弟子の中でも特に優秀で、篤い信仰だったからとは言えません[2]。前回16章21節でイエスがご自分の苦しみと死を予告した時、ペテロはイエスを窘めて、苦難を否定し、
「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ」
と厳しく咎められたばかりです。むしろ、そのイエスの苦難の予告を、弟子たちがまだ理解しがたい中で、イエスはペテロを含むこの三人だけを連れて、高い山に登られたのです。すると、
2…弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。3そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。
 イエスの顔が輝き、衣まで光のように白く輝いて、旧約聖書の有名なモーセとエリヤの二人も登場するのです。
 この二人は、聖書の歴史の上でとても大切な役目を果たした、指導者であり預言者です。モーセもエリヤも、当時の民の不信仰や反逆に振り回されて、手を焼き、失望に打ちひしがれた人です。そして二人とも、その失意のどん底から、主に招かれて山に登って、栄光の神の姿を垣間見させていただく経験をしました。
 モーセのことは出エジプト記32~34章に書かれています。神がモーセに契約の律法を下さっていた時、イスラエルの民は金の子牛を造ってお祭り騒ぎを始めます。全部台無し、という大反逆でした。それでも再出発を許されて、モーセは神の山に登って岩の影から主の栄光を見せていただきました。
「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、7恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である」[3]
 もう一人のエリヤは、Ⅰ列王記18章~19章のことです。主なる神が天から火を降らせるという奇蹟を見せてくださったのに、民の興奮はほんの一時的で、エリヤはもう疲れ切って、生きているのが嫌になる。そのエリヤを主は山の上に招いてくださいます。主は強風や火や地震、強いもののではなく、かすかな細い御声で語られるのです[4]。
 エリヤもモーセも、主の栄光が、憐れみ深さ、恵みとまことだと見ました。どうしようもないような民をも憐れみ、何度でも立ち上がらせ、導いて、回復してくださる。それこそが主の栄光です。その二人が、今ここで現れ、イエスと語り合っています。イエスの苦しみと死は、神の栄光、憐れみの御業なのです[5]。
4…「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
 「幕屋」は旧約に出て来る、神の臨在を現す仮住まいです。ペテロは「ここはすばらしい、(美しい[6])場所だから、幕屋を造って山を降りずにここにいましょう」と提案しました。でもそれはイエスが仰った苦難への道を阻む言葉です。モーセとエリヤの生涯も、神がご自身をどんな方として私たちに現してくださったのかも忘れて、神の憐れみが抜け落ちた勘違いです。
5彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。
 輝く雲は、神の臨在を現しています[7]。そこからの神の声は、洗礼の時と同じ言葉で、今ご自分の苦しみを語るイエスを承認されます[8]。輝かしい雰囲気に浮かれるより、そこでイエスとモーセとエリヤが何を語るか、これからも何を語っているかに、聞き従いなさい、なのです。
 6弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏した。そして非常に恐れた。7するとイエスが近づいて彼らに触れ、「起きなさい。恐れることはない」と言われた。彼らが目を上げると、イエス一人のほかには、だれも見えなかった。
 イエスが弟子たちに触れた、手を置いたとハッキリあるのはここだけです[9]。栄光のイエスは、分からず屋の弟子たちに手を置かれ、「恐れなくてよい」と仰り、山から下りて、人間社会の中に住まわれました。モーセも絶望しかけて、エリヤも死にたくなって、ペテロは帰りたくないと思ったような人間の現実のために、イエスはご自分を捧げて、十字架への道を歩まれました。それはこの時だけでなく、神が昔から今に至るまでそうなさっていることです。

 この山がどこか、ヘルモン山かタボル山か、二つ説があって、どちらとも分かりません[10]。きっとどこか分かったらそこが聖地になってしまったでしょう。ペテロは、
「私たちがここにいることはすばらしいことです。」
とそこに留まることを望みましたが、すばらしいのはその場所ではないのです。私たちを愛し、励まし、導いてくださる神がいてくださることです。苦しみや罪の責めも死も引き受けたイエスが、私たちがどんな思いをする時もともにおられます。とてもそうは思えない山や谷を通る時も、主はそこにもともにおられ、私たちをみことばや交わりや様々な恵みによって慰め励ましてくださいます。やがて心から「私たちがここにいることはすばらしいことです。私たちとともにこの人生を歩んでくださり有り難うございます」と、主を賛美させてくださるでしょう。そのためにもイエスはこの山から降りて行かれるのです。

「恵みに富み、慈悲深い主よ、あなたの栄光は高い山の栄光ではなく、十字架にかかり復活された栄光、罪人に赦しを、死にいのちを、破れに回復をもたらすあわれみの栄光です。今日もあなたは強い恵みをもって私たちに先立って、ともに進んでくださいます。私たちに手を置き、恵みの良い言葉を聞かせてください。あなたの衣さえ眩く輝いたように[11]、私たちをも変えてください。あなたの憐れみに触れられて、私たちも恵みの光を映し出させてください」

脚注

[1] マタイのおける「山」は、4:8(悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、)、5:1(その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。)、14(あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。)、14:23(群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。)、15:29(それから、イエスはそこを去ってガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして山に登り、そこに座っておられた。)、17:1、24:3(イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」)、26:30(そして、彼らは賛美の歌を歌ってからオリーブ山へ出かけた。)、28:16(さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。)

[2] この三人は、十字架直前のゲッセマネでの祈りでも、イエスのそばに置かれます。マタイ26:37「そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。」。マルコ5章、ルカ8章では、ヤイロの娘のよみがえりの時もこの三人だけがそばに置かれたとあります。しかし、マタイはこの事には触れていません。むしろ、マタイはペテロのエピソードを多く引用して、ペテロ個人とのイエスの関わりを重視しているようです。

[3] 出エジプト記33章17~34章10節「主はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出したのだから。」18モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」19主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」20また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」21また主は言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。22わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。23わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」34:1主はモーセに言われた。「前のものと同じような二枚の石の板を切り取れ。わたしはその石の板の上に、あなたが砕いたこの前の石の板にあった、あのことばを書き記す。2朝までに準備をし、朝シナイ山に登って、その山の頂でわたしの前に立て。3だれも、あなたと一緒に登ってはならない。また、だれも、山のどこにも人影があってはならない。また、羊でも牛でも、その山のふもとで草を食べていてはならない。」4 そこで、モーセは前のものと同じような二枚の石の板を切り取り、翌朝早く、主が命じられたとおりにシナイ山に登った。彼は手に二枚の石の板を持っていた。5 主は雲の中にあって降りて来られ、 彼とともにそこに立って、主の名を宣言された。6 主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、7 恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」8 モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏した。9 彼は言った。「ああ、主よ。もし私がみこころにかなっているのでしたら、どうか主が私たちのただ中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民はうなじを固くする民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自分の所有としてくださいますように。」10 主は言われた。「今ここで、わたしは契約を結ぼう。わたしは、あなたの民がみないるところで、地のどこにおいても、また、どの国においても、かつてなされたことがない奇しいことを行う。あなたがそのただ中にいるこの民はみな、主のわざを見る。わたしがあなたとともに行うことは恐るべきことである。」

[4] Ⅰ列王記19章1~14節「アハブは、エリヤがしたことと、預言者たちを剣で皆殺しにしたこととの一部始終をイゼベルに告げた。2すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。「もし私が、明日の今ごろまでに、おまえのいのちをあの者たちの一人のいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」3彼はそれを知って立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、4自分は荒野に、一日の道のりを入って行った。彼は、エニシダの木の陰に座り、自分の死を願って言った。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」5彼がエニシダの木の下で横になって眠っていると、見よ、一人の御使いが彼に触れ、「起きて食べなさい」と言った。6彼が見ると、見よ、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水の入った壺があった。彼はそれを食べて飲み、再び横になった。7主の使いがもう一度戻って来て彼に触れ、「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから」と言った。8彼は起きて食べ、そして飲んだ。そしてこの食べ物に力を得て、四十日四十夜歩いて、神の山ホレブに着いた。9彼はそこにある洞穴に入り、そこで一夜を過ごした。すると、主のことばが彼にあった。主は「エリヤよ、ここで何をしているのか」と言われた。10エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。」11主は言われた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」するとそのとき、主が通り過ぎた。主の前で激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。12地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。しかし火の後に、かすかな細い声があった。13エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て洞穴の入り口に立った。すると声がして、こう言った。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」14エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。」」

[6] 「すばらしい」カロスは「良い、美しい」の意です。

[7] シェキナーと呼ばれる雲は、旧約に頻出します。出エジプト記24章15、16節他。

[8] 父の声。この父が、ペテロに「あなたこそ生ける神の子キリストです」との告白を与えてくださったのです(16章17節)。イエスを愛し、イエスの苦難と死への道を承認されている父が、ここに幕屋を立てるより、イエスについていくことを命じられる。

[9] 「触れ」8:3(イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。)、15(イエスは彼女の手に触れられた。すると熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。)、9:20(すると見よ。十二年の間長血をわずらっている女の人が、イエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。21 「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と心のうちで考えたからである。)、29(そこでイエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。)、14:36(せめて、衣の房にでもさわらせてやってください、とイエスに懇願した。そして、さわった人たちはみな癒やされた。)、17:7、20:34(イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。すると、すぐに彼らは見えるようになり、イエスについて行った。)

[10] タボル山は、紀元2世紀に、山上の変貌の山とされ、記念会堂が建てられました。ガリラヤ湖のそばで、次のエピソードとのつながりがスムーズです。しかし、標高588メートルで「高い山」と呼べるのかなどの問題があります。もう一つは、ピリポ・カイサリアの向こうの、2,815mの雄峰ヘルモン山とする説です。こちらは、多数の支持を得ています。

[11] 今まで、イエスの衣は、長血の女や病人たちが触れて癒やされたもの(9:20、14:36)。やがては十字架の時に剥ぎ取られて、着せられ血まみれになり、くじ引きにされた(27:31、35)ものです。特別な服では無く、通常の衣服でした。イエスの栄光の服だから輝いたのでは無く、通常の服さえ輝かせたことは、主が私たちをも変えて下さることを思い起こさせないでしょうか。「姿が変わるメタモルフォーシス」は、ローマ書12:2(この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。)、Ⅱコリント3:18(私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。)で用いられているのと同じ言葉です。

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