聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/11/15 マタイ伝12章46~50節「イエスの母、兄弟姉妹」

2020-11-14 11:22:53 | マタイの福音書講解
2020/11/15 マタイ伝12章46~50節「イエスの母、兄弟姉妹」

前  奏 
招  詞  エゼキエル書36章26a、28b
祈  祷
賛  美  讃美歌86「御神の恵みは」①②
*主の祈り  (週報裏面参照)
交  読  詩篇1篇(1)
 賛  美  讃美歌461「主我を愛す」①②
聖  書  マタイの福音書12章46~50節
説  教  「イエスの母、兄弟姉妹」古川和男牧師
賛  美  讃美歌460「幼き子らよ」
献金・感謝祈祷
こども祝福式
 報  告
*使徒信条  (週報裏面参照)
*頌  栄  讃美歌540「御恵み溢るる」
*祝  祷
*後  奏

 「イエスがまだ群衆に話していたとき」
と始まります。説教の途中、話している最中でも、
「見よ、イエスの母と兄弟たちがイエスに話をしようとして、外に立っていた。」
 それがどんな用件であれ[1]、ご家族が呼んでいらっしゃるなら、ご家族を優先していただかなければ。お話しを中断するのが当然だろう、と気遣ったことが発端になっています。一方、48節で、
…「わたしの母とはだれでしょうか。わたしの兄弟たちとはだれでしょうか。」…[2]
49それから、イエスは弟子たちの方に手を伸ばして言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。
と仰有った言葉は、イエスが家族を邪険に扱ったかのようにも読めます。思い起こしてください。マタイの福音書の最初は、主イエスの家系図でした。1ページ目の、あの退屈にも思える系図です。家族のつながりがあって、イエスがおいでになったのです。また、イエスは後に、
15:4「神は『父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と(律法において)言われました。5それなのに、あなたがたは…」
と強く仰有いますし[3]、兄弟についてもマタイは「兄弟」という言葉を31回も使っています[4]。
Ⅰテモテ5:8もしも親族、特に自分の家族の世話をしない人がいるなら、その人は信仰を否定しているのであって、不信者よりも劣っているのです。
 こういう家族関係の大事さを教会は受け止めるよう召されています。ここには、信仰か、家族か、どちらが大事か、という二者択一はありません。信仰とは、家族をも神の恵みのうちに受け止めさせてくれます。しかし、人間はそれを忘れて考えがちです。白か黒か、極端に走りやすいのです。ここでも、イエスより家族が、またそれを告げた人の方がイエスに、「説教よりもご家族が来ておられますよ」と取捨選択を思いつくのです。それに対してイエスは、その二者択一という道を選ばず、目の前にいる弟子たちの方に手を伸ばして、言われたのです。
「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。50だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」
 イエスにとって母や兄弟たちは、かけがえのない存在でした。血を分けて、今まで一緒に住んできた家族です。それは特別な関係でした。しかし、それと同じぐらい強い関係が、今、ここにいる弟子たちとの間にある。この人たちは、わたしの兄弟、姉妹、母だと言われます。
 ここに
 「わたしの父のみこころを行うなら」
とあります。イエスは神を「わたしの父」と呼ばれ、親しい、無二の関係にある事を忘れません[5]。その父なる神の「みこころ」は、御子イエスを通して、この世界に届けられました。神の深い憐れみ、罪人を滅ぼさず、赦しと回復を与えて、私たちも互いに生き生きと生かし合う、それが父の「御心」です[6]。イエスが神を「天におられるわたしの父」と親しく呼ぶ、そういう深い神の、まさに「心」をお持ちである神の「みこころ」のことです。まず神が私たちを愛して、生かして、私を神の家族の中に迎え入れてくださった。その無償の招待に与ることです[7]。エペソ人への手紙にはこうあります。
「天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父」(エペソ3:15)[8]
 神が家族というものを定めました。血の繋がり、母親の産みの苦しみは本当に尊いものです。それは、神ご自身が家族というものを創造される方であるからです。神が私たちの父ともなり、産みの苦しみも厭わない母ともなってくださるのです。そして、神ご自身のひとり子イエスが、私たちを呼び集め、わたしの兄弟、姉妹、母だと、手を差し伸べてくださるのです。
 この時点での弟子たちは、イエスの教えをまだまだ理解できず、とても未熟です。イエスが語ってくださる神の言葉、私たちの父となった神、その神の子どもとして私たちがどう生きるべきかに心を燃やされつつも、イエスの母や兄弟が来たと聞いて、きっとこう思ったのではないでしょうか「いいなぁ、あの人たちはイエス様の家族で。私とは違うなぁ。イエス様は私たちに有り難いことばを語ってくれるけれど、ご家族には勝てない」。しかしイエスは、「あなたがたは本当にわたしの家族だ」と仰有った[9]。この驚きで12章は閉じられます。

 主イエスも家族から誤解され、理解されなかった、ということにも慰めを見出しても良いでしょう[10]。私たちの現実の家族が、血の繋がりや親子、兄弟ということに束縛される窮屈な関係になることも少なくありません。しかし、血の繋がる親子も、血の繋がらない夫婦も、家族としてくださるのは、神です。そして、神の子イエス・キリストが、ご自身の血をもって私たちを神の子どもとしてくださいました。キリストの血は、何よりも強く、しかも窮屈でなく安らかな、神との、そしてお互いとの主にある家族関係をくれたのです。イエスが示した言葉、聖書に記される神の御心は、神が私たちを神の家族にしたいと願う言葉です。周囲を見回して、主イエスが私たちにも手を差し伸べながら、こう仰有っている言葉を聞きましょう。
見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。

「すべての家族の呼び名の元である父よ。あなたが、ともに歩み、互いに支え合う、家族をお作りになります。今、主イエスにあって、神の愛によって、聖霊の交わりによって、家族への祝福を注いでくださることを感謝します。私たちの思い以上に素晴らしく喜ばしい、あなたの御心にいつも立ち戻りながら、互いを喜び、互いに育て合い、ともに恵みを祝わせてください」

脚注

[1] マルコの福音書三章の並行記事(31~35節)は、直前に「21…イエスの身内の者たちはイエスを連れ戻しに出かけた。人々が「イエスはおかしくなった」と言っていたからである。」を置いて、この母や兄弟たちの用件も、イエスの活動を留めて家に連れ戻そうという動機だったことを示しています。しかし、マタイはそのような書き方をしていません。そして、13章から新しい段落に入る前の、12章の結びとして、「だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」という宣言の積極的な重要性に焦点を当てています。

[2] 47節「ある人がイエスに「ご覧ください。母上と兄弟方が、お話ししようと外に立っておられます」と言った。」は、欄外中にあるように、無い写本が多く、むしろそちらが原典に近いようです。多くの翻訳が、47節自体を脚注としています。

[3] 母 マタイに24回。1:18(イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。)、2:11(それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。)、13(彼らが帰って行くと、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」14そこでヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに逃れ、)、20(「立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちを狙っていた者たちは死にました。」21そこで、ヨセフは立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に入った。)、10:35(わたしは、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです。)、37(わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。)、12:46(、47)、48、13:55(この人は大工の息子ではないか。母はマリアといい、弟たちはヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。)、14:8(すると、娘は母親にそそのかされて、「今ここで、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい」と言った。)、11(その首は盆に載せて運ばれ、少女に与えられたので、少女はそれを母親のところに持って行った。)、15:4(神は『父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言われました。5それなのに、あなたがたは言っています。『だれでも父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は神へのささげ物になります、と言う人は、)、19:5(そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。)、12(母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。それを受け入れることができる人は、受け入れなさい。」)、19(父と母を敬え。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」)、29(また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。)、20:20(そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、息子たちと一緒にイエスのところに来てひれ伏し、何かを願おうとした。)、27:56(その中にはマグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子たちの母がいた。)

[4] 兄弟(聖書協会共同訳「きょうだい」) マタイに31回。1:2(アブラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生み、ヤコブがユダとその兄弟たちを生み、)、11(バビロン捕囚のころ、ヨシヤがエコンヤとその兄弟たちを生んだ。)、4:18(イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。)、21(イエスはそこから進んで行き、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイと一緒に舟の中で網を繕っているのを見ると、二人をお呼びになった。)、5:22(しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。23ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、24ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。)、47(また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。)、7:3(あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。4兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。5偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。)、10:2(十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、)、21(兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。)、12:46(、47)、48、49、50、13:55(この人は大工の息子ではないか。母はマリアといい、弟たちはヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。56妹たちもみな私たちと一緒にいるではないか。それなら、この人はこれらのものをみな、どこから得たのだろう。」)、14:3(実は、以前このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。)、17:1(それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。)、18:15(また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。)、21(そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」)、35(あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」)、19:29(また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。)、20:24(ほかの十人はこれを聞いて、この二人の兄弟に腹を立てた。)、(21:28-31(ところで、あなたがたはどう思いますか。ある人に息子が二人いた。その人は兄のところに来て、『子よ、今日、ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。)はアデルフォスではなく、)、22:24(「先生。モーセは、『もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こさなければならない』と言いました。25ところで、私たちの間に七人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが死にました。子がいなかったので、その妻を弟に残しました。)、23:8(しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。)、25:40(すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』)、28:10(イエスは言われた。「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」)

[5] この「天におられるわたしの父」こそ、イエスの根本的なアイデンティティであり、イエスが私たちをも神とつなぎあわせ、「天におられるあなたがたの父」として示してくださった根拠です。マタイで11回。7:21(わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。)、10:32(ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。33しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。)、11:27(すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。)、12:50(だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」)、16:17(すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。)、18:10(あなたがたは、この小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい。あなたがたに言いますが、天にいる、彼らの御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。19まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。)、20:23(イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲むことになります。しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。わたしの父によって備えられた人たちに与えられるのです。」)、25:34(それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。)、26:29(わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」)

[6] 「あの御心」という言い方で、全般的な神の願い、意思、命令というよりも、強く特定しています。このことは特に、7:21「わたしに向かって「主よ、主よ」と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」で明らかで、そこでの説教で触れた通りです。これ以外にも、マタイで「みこころ(セレーマ)」は常に定冠詞がつきます。6:10「みこころが天で行われるように、地でも」、18:14「このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるわたしの父のみこころではありません」、26:42「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。」でも、「the will」という言い方が使われています。21:31も同様の言い方が、例え話の中の「父」の「願ったとおり」という意味で出て来ます。

[7] それは私たちが神のために何かをするとか、立派なキリスト者として生きるとか、そういううわべよりも深い、心の刷新です。

[8] エペソ3:14~21「こういうわけで、私は膝をかがめて、15天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。16どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。17信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、18すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、19人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。20どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、21教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン」

[9] あるいは、ここで「弟子たちの方に手を伸ばして」と言われていますが、この「弟子」とは46節で「群衆」、イエスの話を聞きに集まっていた人と同じなのかもしれません。マルコ3:34の並行記事では「そして、ご自分の周りに座っている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟です。だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」と対象は広く取られています。ルカの並行記事、8:19~21では「しかし、イエスはその人たちにこう答えられた。「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちのことです。」と、目に見える対象を提示しない言い方をされています。ただイエスの話に惹かれて、集まって、イエスが話す神の言葉、神の国の教えに耳を傾けていただけの群衆を、「父の御心を行っているわたしの家族」と言われたのだとすればビックリです。

[10] 家族でも、誤解をします。血がつながっている、小さい頃からよく知っている、そういう思いが、家族だからこそ、偏見となり束縛となり、窮屈な関係を生む。それが、イエスの家族でも起こっていました。家族からの誤解やもつれで悩む者は、イエスも誤解された事実を知って、ホッとするのではないでしょうか。「イエスの家庭生活について書かれた箇所はどれも、慰めというより心乱されることばかりです。カナでマリアが助けを求めたときイエスは、「わたしと(あなたは)どんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」(ヨハネ2・4)と言いました。後に、「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」という伝言を受けたとき、「わたしの母、わたしの兄弟とは誰か」(マルコ3・32~33)と返答しました。またついにマリアは、十字架の下に立たされることになりました。イエスは、母親と愛する弟子ヨハネを見ながら、母親にこう言いました。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」(ヨハネ19・26)。しかし、父ヨハネについての言及はありません。亡くなったのでしょうか。 崩壊した家族、別居や離婚、片親の子供、また子供の自殺願望や薬物依存に大きな不安を抱いている親たちがいる今の時代、まったくの機能不全に見えるイエスの家族は、いくらか慰めになるかもしれません。家族の一致、親への愛情、あらゆる犠牲を払ってでも家族で過ごすことを優先する、いわゆる家族の価値を、イエスは否定しないものの、矛盾した態度をとっているのは明らかです。ただし、教会が独身に高い価値を置くのは(とくに神に仕えたい人たち)、イエスの家族のひどく混乱した状態にルーツがあるとは思えません。…」 ナウエン、42~43頁

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2020/11/8 マタイ伝28章19~20節「はじまりの洗礼」ニューシティカテキズム44

2020-11-07 12:55:12 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/11/8 マタイ伝28章19~20節「はじまりの洗礼」ニューシティカテキズム44

 先週は、教会には洗礼と聖餐式という二つの「聖礼典」がある、という話をしました。聖書や説教だけでなく、儀式に参加することで、私たちは体で、キリストの恵みをハッキリ知ることが出来るのです。今日と来週は、聖礼典の一つ目、洗礼をお話しします。

第四十四問 洗礼とは何ですか?
答 洗礼とは父、子、聖霊の御名によって水で洗うことです。洗礼は、私たちがキリストにあって子となること、罪から清められること、そして私たちの主と、主の教会への献身を表し、確かなものとします。

 洗礼とは「洗う」と書くとおり、水を使って、行います。その水を少し額につけたり、手ですくって頭にたっぷりかけたり、あるいは、体が入るぐらいの水を用意して全身を沈めたりします。聖書に出てくる洗礼は、ヨルダン川という川で行われていました。川や海で、全身を沈める洗礼も多く行われています。いずれにせよ、水を使うのですが、それは何を表しているのでしょうか。洗礼とは何でしょうか。

 まず「私たちがキリストにあって子となること」です。イエス・キリストご自身が、そのお働きの最初に、洗礼を授かりました。ヨルダン川に行き、洗礼者ヨハネに洗礼を授けてほしいと願い出ました。そして、イエスが洗礼を受けた時、天から声がしました。
「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」マタイ3:17

 イエスは、神の子で、聖なるお方です。洗われなければならない罪など全くないのに、イエスはまず、洗礼を受けました。それは、洗ってもらわなければならない罪がある人間と等しくなるための、限りない謙りでした。その洗礼の時に、「これはわたしの愛する子」という声が響いたのです。イエスの洗礼は、神の父親宣言の時でもありました。そのイエスが洗礼を受け、弟子たちを派遣する時にも洗礼を授けるよう、命じました。

マタイ28:19ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、…

 この時命じたバプテスマは、イエスご自身もヨハネから最初に授かったのです。ですから、私たちがキリスト者として最初に洗礼を受ける時、私たちはイエスに結び合わされます。そして、私たちも天の神が私たちの父となってくださった。イエスにあって、私たちも神の子どもとされたことを確信することが出来るのです。
 キリストも授かった洗礼を私たちも受ける時、私たちはキリストと一つとされ、神の子となったことを確信します。そしてイエスは私たちのために、洗礼を受けただけでなく、完全に人として歩み、十字架に死にまで謙って、私たちのすべての罪を負って、死んでくださったこと、そして、そこからよみがえって、私たちを贖ってくださいました。洗礼は、私たちをキリストに結びつけ、キリストが私たちに結びついてくださったことを表しているのです。ですから、まだイエスを知らなかった人が、教会に来たり、聖書を読んだりして、キリストに出会い、私もイエスを信じたい、キリストの言葉に与りたい、と思うなら、洗礼を授かって、正式なスタートを切るのです。「洗礼なんてただの儀式だ」と思わず、キリストご自身が定めて、正式なスタートとしての洗礼をもうけてくださったのですから、洗礼によって、公式に神の子どもとされるのです。
「さあ、何をためらっているのですか。立ちなさい。その方の名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。」使徒22:16

 次に洗礼は「罪が清められたこと」を表します。私たちは、水で手を洗ったり、うがいをしたり、お風呂や食器を洗います。洗礼で水を使うのは、イエスが私たちの罪を清めてくださったことを表しています。洗礼によって罪が清くなるのではありません。このことは来週詳しくお話ししますが、洗礼の水に特別な力があるのではありませんし、洗礼という儀式に罪をきよめる力があるのでもありません。もしそうだとしたら、有り難いようですが、私たちは罪に責められる度に、洗礼を受け直さなければならないでしょう。しかし、その逆に、洗礼は一度だけ授けられるのです。洗礼を受けて、キリスト者となった後も、私たちは罪を犯します。洗礼の水が私たちの心を清くするのではないのです。まだ心も、言葉も行いも不完全で、とても清くはなりません。しかし、それでも失敗する度に、洗礼を受け直すのでは無く、むしろ、イエスがこの私の罪を赦し、滅びから救ってくださった、という事実に立ち戻るのです。

 いわば、洗礼は、神の子どもとして歩み出すスタートです。キリスト者としての冒険に踏み出す旅立ちです。キリストの教会という大きな旅の一段に、自分も仲間入りして飛び込んだのです。その途中で、私たちは旅人であることを忘れたり、仲間との諍いに疲れたり、他の旅に惹かれたりするかもしれません。その時、私たちがすべきことは、何でしょうか。双六なら「ふりだしに戻る」がありますが、本当の旅もスタート地点のふりだしに戻るのでしょうか。いいえ大事なのはスタートに戻るより、ゴールに向かう事、前に向かって旅を進めることです。むしろ、洗礼は、私たちが既に罪を赦され、神のものとされた旅を始めたのであり、戻る必要がないことを思い出させてくれます。宗教改革者マルチン・ルターも、沢山の問題の中で心が弱くなって酷く落ち込むことがあったそうです。その都度、ルターを支えたのは、自分が洗礼を受けた、という事実でした。イエスが私に洗礼を授けてくださった。私は罪をきよめられ、神の子どもとして歩んでいる、と思い出させてくれるのが、洗礼という水の洗いなのです。

 そして、その旅に加わった以上、私たちは「私たちの主と、主の教会への献身」コミットメントもあります。教会の一員として、互いに責任を持ち、関わり、助け合い、奉仕や献金で教会の運営の一端を担うことも始まります。洗礼は、同じように洗礼を受けた多くの人とのつながり、共同体であることも表すのです。この鳴門キリスト教会の会員となり、また世界の教会とも主にあって結ばれている。その確かさを、洗礼は私たちに表してくれます。また、自分ではなく他の人の洗礼を通しても、私たちは自分が神の子どもとされ、罪を赦され、神の旅に入れられている事実を豊かに教えられるのです。



「私たちをきよめてくださる神よ、私たちはあなたに近づかなければ、罪にまみれた自分自身の心を洗うことはできません。水による洗礼を与えてくださってありがとうございます。洗礼が私たちを救うのではありません。しかし洗礼は、救いを見える形にし、神の養子とされた兄弟姉妹である私たちを一つにします。アーメン」
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2020/11/8 マタイ伝12章38~42節「イエスが与えたしるし」

2020-11-07 12:30:51 | マタイの福音書講解
2020/11/8 マタイ伝12章38~42節「イエスが与えたしるし」

前奏 
招詞  ヨハネの黙示録19章5~7節
祈祷
賛美  讃美歌85「主のまことは」
*主の祈り  (週報裏面参照)
交読  詩篇130篇(31)
賛美  讃美歌495「イエスよこの身を」①②
聖書  マタイの福音書12章38~42節
説教  「イエスの与えたしるし」古川和男牧師
賛美  讃美歌495 ③④
献金・感謝祈祷
報告
*使徒信条  (週報裏面参照)
*頌栄  讃美歌539「天地挙りて」
*祝祷
*後奏

 イエスが人々の中で、神の国を教え、病気を癒やしたり悪霊を追い出したりなさっていた時のことです。当時の宗教家、律法学者やパリサイ人、イエスに批判的だった権威筋の何人かがイエスに言いました。
「先生、あなたからしるしを見せていただきたい」。
 既に十分、イエスの力は見せられていました。それ以前も以降も、たくさん奇跡や癒やしはありました。それでも、彼らは「いや自分はもっと違う証拠を見せてくれ、あなたが本当にメシアだというなら、それを自分たちに納得させるだけのしるしを見せてみろ」と言うのです[1]。これに対して、
39…イエスは答えられた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません[2]。ただし預言者ヨナのしるしは別です」。
 ヨナは旧約聖書の預言者の一人です。主はヨナを憎い敵民族の町ニネベへ遣わしました。ヨナは従う所か、無視して逃げます。怖いより、ニネベの人なんか滅んでほしかったのです。そこで逆方向に行く船に乗った所、嵐に襲われ、大きな魚に呑み込まれてしまいます。そして、
「三日三晩、大魚の腹の中にいた」
のです[3]。それは、神はヨナが滅びを願ったようなニネベの人々をも愛し、罪の中で滅びることを望まなかった出来事であり、そのために、ヨナを三日三晩大魚に呑み込まれたまま運ばせてでも、ニネベにお遣わしになった出来事でした。魚に呑み込まれて生き延びた仰天ニュースとか、その魚を見てビックリさせて信じた、という以上に、神がヨナや私たちと断絶している人々の救いをも望まれて、逃亡や溺死さえ選んだヨナをご自身の器として用いられ、ニネベの人々を回心させた出来事でした。
 そのヨナのように
「人の子(イエス)も三日、地の中にいる[4]」。
 世界で神から離れ、お互いにも敵対しあい、退けて、相手の滅びを願うような、そういう人間の中に来られたのです。
 「中」という言葉は「心(ハート)」で、「地の心・中心」というユニークな表現です[5]。この地の表面でなく、奥底に-さばき合い、憎み合い、自分を守ろうとする心、そういう力のしるしを求めるこの地の、最も奥深い心にイエスは低く来られました。力強いしるしや奇跡や証拠を見せるのとは逆に、十字架に裸でかけられ、最も惨めで無防備になり、苦しみも恥も敵意も引き受けました[6]。私たちが「罪あり」とされて受けるべき責めを、ご自身が引き受けてくださいました。パリサイ人や人が願う特別なしるしの代わりに、世間が蔑む庶民や外国人、罪人や売国奴のため、イエスは恥を背負い、罵られ、無力だとあざ笑われて死に、葬られました。ヨナを敵に遣わした主が、ご自身、最も低くなって、地の心を癒やし、蔑視された人々に回復を下さったのです。
41ニネベの人々が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります。
 「ここ」イエスの周りには、もう既に病気や学のない弟子や何も持たない人々が集まっていました。イエスの言葉に心触れられた人々が集まっていました[7]。それ自体が
「ヨナにまさるもの」
 ニネベの回心にもまさって神がどんなお方かを雄弁に示すしるしでした。続いて、南のアフリカの女王がソロモンの知恵を聞くためにやってきた出来事も引かれます[8]。
42南の女王が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります。
 ニネベやアフリカ、どちらもパリサイ人や律法学者、生粋のイスラエル人にとっては「異邦人」として退けられた人々です。でも彼らは、主の民に勝る悔い改めや礼拝をしました。それに勝るものをイエスはご自身も、三日、地の中におることを通して始めてくださったのです。
 ヨナをしるしとされた主ご自身がヨナのようになりました。力あるしるしを見せるより、すべての力も権威も捨てて人となり、力ない者となり、地の奥深い、傷ついた心に来られました。そのイエスに出会って、人が神に立ち返る。私も、私たちにとって受け入れがたい人も、神に立ち返らせていただく。それこそが主イエスが与える、唯一のしるしです[9]。他のどんな奇蹟より、このイエスの死と復活によって、人も地も新しくされることが一番のしるしなのです。
 ヨナが三日三晩大魚の腹の中にいたことは、古い自分に死んで新しく生まれ変わらされる象徴です[10]。しかし実際のヨナは、その後も、ニネベへの罰を撤回した神に怒りました[11]。時間は掛かるのです。主は時間をかけて私たちの心を扱われます。しかし、それ以上に大事なのは、主イエスご自身が、ヨナのように低くなり、私たちの所に、また同じようにすべての人の所に来て下さったことです。私たちの心の狭さ、冷たさ、赦し受け入れられない限界を超えて、主ご自身が深く深くご自分を献げてくださったのです。そうでなければ、誰も救われることは出来ません。
 私を救われた主が、あの人もどの人も、愛し、ともにおり、新しい心を与えてくださる。そして、私たちにも下さるその新しい思いを、じっくりと戴いていきたいのです[12]。

「主よ、あなたが豊かなしるしをもって私たちに十分ご自身を示し、御業を行っておられることを感謝します。あなたご自身が限りない謙りをもって、この世界の底に下り、私たちにも立ち帰りを賜ったことを本当に感謝します。その十字架と復活の御業が多くの人にありますように。私たちもあなたに倣い、謙り、自分を献げ、御業に仕える心を、歩みをお与えください」

脚注:

[1] 私たちも、自分の信仰がぐらついたり、人に信じてほしい時に決定打になるような奇跡があればと願ったりします。この問いや言い訳自体、熟考し、自問する価値があります。

[2] 「姦淫」とは、この場合、神に対する関係に不実であることです。神と人間との関係は、結婚関係になぞらえられる、愛と信頼、深い献身の関係です。(参照、ティム・ケラー『結婚の意味』)それを裏切ることは、神に対する「姦淫」なのです。人間の姦淫、夫や妻が相手以外の人と深い関係を持ってしまう。その時にも、人はしるしを求めるのかもしれません。愛している証拠を見せろ、それがないから不倫だってするんだ。でも本当に深い関係は、しるしを求めたり、足りない所を論ったりすることからは始まりません。しるしを求めること自体が悪い時代のしるしです。

[3] 参照、ヨナ書。旧約聖書の最後の方にある、短い四章の預言書です。聖書プロジェクトでは、The Book of Jonahはまだ邦訳はありませんが、大まかに流れを振り返ることができます。

[4] 正確には「三日目」、金曜の夕方から日曜の朝までですから40時間位、三日三晩ではないですから、ここで言いたいのも、ヨナと同じくとは、「三日三晩」という時間というより、ヨナが大魚に呑み込まれた意味とご自分の葬りとを、三日という数字の語呂合わせで重ねているのです。この、ちょっと無理があるような数字遊びは、マタイ1章の「十四代」の三回でも見られた、つじつま合わせです。

[5] 「地の中」ἐν τῇ καρδίᾳ τῆς γῆς 前半の「大魚の腹の中ἐν τῇ κοιλίᾳ τοῦ κήτους」は別の言葉が使われています。ここ以外に、このような「中」という意味で原語カルディアが使われている箇所は、新約聖書にはありません。

[6] この事は、マタイ四章で「荒野の誘惑」においてサタンが投げかけた、「石をパンに変える」奇蹟への誘惑と、それを退けたイエスの決断と直結しています。

[7] 直接には、22節の「悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが癒やされたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。」という出来事がありました。それでもパリサイ人立ちは「この人が悪霊どもを追い出しているのは、ただ悪霊どものかしらベルゼブルによることだ」と、ケチをつけたのです。その言葉に対するイエスの応答(25~37節)に、ばつの悪さを覚えて、38節がある、という見方も出来ます。

[8] 参照、Ⅰ列王記10章。私は「アフリカ」と言及することで、黒人差別への聖書の反証を意図しています。

[9] 「苦悩と死を通して新しい命を得ること、それこそが良き知らせの核心です。イエスはその解放への生き方を私たちに先立って貫かれ、それを偉大なしるしとしました。人間とは、いつになってもしるしを見たがるものです。厳しい現実から少しでも気をそらしてくれそうな、驚くべき、並外れた、興奮させられる出来事を求めます。天に輝く星(スター)であろうと、そこに人々が注目し続けるのは理由なしとしません。目を見張るような何か、例外的な何か、平凡な毎日の生活を中断させてくれる何かを見たくてたまらないのです。そのようにして、わずか一瞬でも、わくわくする隠れんぼをして遊びたいのです。しかし、「先生、しるしを見せてください」と言った人々に、イエスはこう答えました。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」。 ここから分かることは、何が本物のしるしかということです。それは、耳目を集める奇跡というものでなく、イエスの苦悩、死、埋葬、そして復活です。偉大なしるし、しかもイエスに従おうとする者だけが理解できるのはヨナのしるしです。ヨナも現実逃避しましたが、困難な任務を果たすために呼び戻されました。顔を背けることなく苦難と死を直視し、神がくださる新しい命への希望を抱き、それを通り抜けること、それがイエスのしるしであり、イエスに倣って霊的生活を指導したいと望むすべての人々のしるしです。それは十字架、すなわち苦難と死という、全面的に新しくされることの希望のしるしです。」ヘンリ・J・M・ナウエン『ナウエンと読む福音書』(小渕春夫訳、あめんどう、2008年)94頁

[10] もう少し言えば、ヨナ自身は、荒海に放り込まれて、やけっぱちに死ぬつもりだったようです。しかし、ヨナ二章で告白するように、死ぬと覚悟したところで、助け出されました。この意味でも、ヨナは一度、死に、主によって新しくいのちを与えられたのです。

[11] それに対する主の説得をヨナが素直に受け入れたかどうかも、読者に委ねられています。

[12] 聖書は、ヨナや南の女王、パリサイ人の姿さえ通して、人を深いところで変えられる主の業を証ししてくれています。また、この聖書、特にイエスの十字架と復活以降に書かれた聖書そのものが、その証拠です。新約聖書の大半を書いたのは、異邦人、おそらくは憎きローマ市民のルカです。次に大半を書いたのはパウロで、ここに出て来たのと同じパリサイ人でした。この福音書を書いたのは、取税人として蔑まれていたマタイ。次の福音書を書いたのは、臆病者の逃亡弟子マルコ。また、福音書と手紙と黙示録を書いたヨハネは、自分たちに協力しない人たちは雷が落ちるよう祈りましょうか、と言って憚らなかった短気な人物。そういう人々が、主イエスによって変えられて、証しをしたのが、この新約聖書なのです。そして、私たち自身もまた、この私のために主イエスが、この世界に深く謙って来られ、死んで、三日葬られ、よみがえってくださった事を信じる者です。ヨナを遣わされた主が、この地の底に来られて、私たちを新しくしてくださる。しるしを求める生き方から、心を開く生き方へと変え続けてくださるのです。

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2020/11/1 ハバクク書2章1~4節「信仰による生」一書説教 ハバクク書

2020-11-01 23:57:20 | 一書説教
2020/11/1 ハバクク書2章1~4節「信仰による生」一書説教 ハバクク書

前奏
招詞  イザヤ書57章15、18節
祈祷
賛美  讃美歌83「恵みの光は」
*主の祈り  (週報裏面参照)
交読  詩篇100篇(24)
賛美  讃美歌533「奇しき主の光」①②
聖書  ハバクク書2章1~4節
説教  「信仰によって生きる ~ 一書説教 ハバクク書」古川和男牧師
賛美  讃美歌533 ③④
献金・感謝祈祷
報告
*使徒信条  (週報裏面参照)
*頌栄  讃美歌546「聖なるかな」
*祝祷
*後奏

 先週は宗教改革記念礼拝でローマ書1章16-17節を読み、昨日10月31日は宗教改革記念日でした。先週のローマ書に
「義人は信仰によって生きる」
と「信仰義認」を語り、引用されていたのが今日のハバクク書2章4節です[1]。今日はそのハバクク書の一書説教とします[2]。
1:2いつまでですか、主よ。私が叫び求めているのに、あなたが聞いてくださらないのは。「暴虐だ」とあなたに叫んでいるのに、救ってくださらないのは。
 こうして主に疑問をぶつける言葉から、ハバクク書は始まっています。旧約の時代の末期、神の民も滅茶苦茶で、まもなくバビロンに侵略され、捕囚となる直前頃でしょう。預言者エレミヤも既に活動していたはずが、人々は耳を貸さない、政治の汚職も、祭司の形式主義的な礼拝も、道徳的な退廃も酷くなる一方。荒(すさ)んだ状況でした。ハバククは、神になぜ祈りに応えてくださらないのか。暴虐や不法を、黙って眺めているのはなぜか、と問うのです。

4…みおしえは麻痺し、さばきが全く行われていません。
悪しき者が正しい者を取り囲んでいるからです。
そのため、曲がったさばきが行われているのです。

 こんな悪をなぜあなたは放置しているのですか、という率直な疑問からハバクク書は始まります。これに対する主の答が5~11節で語られます。その答にまたビックリしたハバククがもう一度、強烈な疑問で主に問いかける言葉が、1章12節から2章1節です。特に強烈なのが、

1:13あなたの目は、悪を見るにはあまりにもきよくて、苦悩を見つめることができないのでしょう。
なぜ、裏切り者を眺めて、黙っておられるのですか。
悪しき者が自分より正しい者を呑み込もうとしているときに。

 こんなストレートな疑問を主に向かって直球でぶつけている。これもハバクク書の特徴です。あなたは聖すぎて、悪の現実を見えないのか。その訴えに対する主の答がこの2~4節です。
3この幻は、定めの時について証言し、
終わりについて告げ、偽ってはいない。
もし遅くなっても、それを待て。必ず来る。
遅れることはない。
4見よ。彼の心はうぬぼれていて直ぐでない。
しかし、正しい人はその信仰によって生きる。

 主の言葉は直接ハバククの疑問には答えません。神の答は、人間の求める回答やスッキリした理屈は与えません。神を信じていても、正しい人が悪しき人に圧倒され、理不尽な苦しみを味わい、神よなぜですか、見えていないのですか、と言わずにおれない現実はある。そこで正しく生きることはもう無理に思えます。自分自身の善意とか良心とか、自分の正しさや信仰深さなど頼りになれません。旧約聖書で一番どん底の時代、ますます終わりが近づく時代、正しく生きるなんて無駄じゃないか、神は何をしているんだ」と言われる時。そこで、主が語られた「幻」-主の約束、将来へのご計画、神の言葉を待て、と主は言われます。神が語る幻が必ず来る、遅れることなく来る。その御言葉によらなくしては、正しい人は生きられない。聖書の言葉、神の約束を見上げ、それを待つ信仰を神は下さって人を正しく生かしてくださる。私たちは、神の言葉に支えられて生きることが出来るのです。正しい人が悪しき人に囲まれて、どうすればいいのか、と重ねて問うた末に、ここで「信仰によって生きる」と言うのです[3]。私の救い(いのち、希望)は自分の内からでなく、私の外から来るという信仰です。その根本的な告白は、バビロン捕囚前の最も絶望的な状況で、最も人の罪があらわになり、同時に最も自分の罪に絶望するしかないような時に、私たちへの希望として語られているのです[4]。

 三章は「預言者ハバククの祈り」です[5]。主が語られたさばき、ハバククが最初に嘆いていた地の暴虐を終わらせるための御業に腹を括りながら、その先には民を救って、新しくしてくださることを切望しながら歌う、信仰の祈りです。その最後の17節以下を読みましょう。
3:17いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木には実りがなく、オリーブの木も実がなく、畑は食物を生み出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。
18しかし、私は主にあって喜び躍り、わが救いの神にあって楽しもう。
19私の主、神は、私の力。私の足を牝鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。
 ハバクク書の真ん中ごろにあった
「正しい人は信仰によって生きる」
がこの最後で
「私は主にあって喜び躍り」
と大きく膨らんでいます。主なる神が私の力となり、私を支え、歩ませてくださる。この主だから、私たちは信頼を置けますし、その信仰によって生きることが出来るのです。周囲は分からない出来事が沢山、世界には矛盾や不条理があって、どうしようもない時も、それよりも大きく、真実な主が、正しくこの世界に働いて、差配しておられます。人には分からなくて「どうして」と思ったり、他人は自惚れ投げ出して、自分も信じ切れず、後悔や罪悪感に駆られたりしても、神は真実であられる。私たちはその事を信じることが出来ますし、その主に、正直な疑問や叫びを率直に神に訴えることも許されています。
 そして、すべてを失って不毛に見える瞬間にも、喜び踊らせてください、楽しみ、高い所を歩ませてください、と祈るよう導かれるのです[6]。

「大いなる主よ。あなたが偉大すぎて、私たちには御心が見えず戸惑い、疑うことがあります。その時こそ、あなたが神であり私たちの救いであることをつくづく思い知ります。ハバククの生きた真っ暗な時代に語られたように、今私たちにも語りかけて、あなたの御真実への信頼を湧き上がらせてください。今、あなたが神であり王であり私たちの力であることを感謝します」

[1] このハバクク書2章4節は、ローマ書1章17節の他、ガラテヤ3章11節「律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。」、ヘブル10章38節「わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。」の2カ所でも引用されています。

[2] 「ハバクク書は3章からなる短い書物ですが、内容としては四つに区分されます。第一の区分は1章1節から11節で、神に助けを求める訴えとカルデヤ人による暴虐の意味の問いかけ、それに対してカルデヤ人を通してユダの罪を指摘するためという神の応答が記されます。第二の区分は1章12節から2章4節で、重ねて契約の神の真実への訴えと問いかけ、それに対して神の救いを約束する応答が記されます。第三の区分は2章5節から20節までで、主なる神に信頼せずに歩む者たちへのさばきの言葉が繰り返し語られていきます。そして第四の区分は3章1節から19節で、ハバククの祈りが記されます。そこではまず神のあわれみを求める祈りがささげられ、神の大いなる救いの御業が明らかにされ、神のさばきの厳かさと、なお救いの神をほめたたえる信仰が告白されています。」徳丸町キリスト教会 聖書の概説ハバクク書

  ハバククとは「抱きしめる」の意。珍しい名前ですが、戦史では「ハバクク計画」というものがありました。それを題材にした漫画『マスターキートンReマスター』に「ハバククの聖夜」という感涙のストーリーもオススメです。

[3] 1:4「そのため、みおしえは麻痺し、さばきが全く行われていません。悪しき者が正しい者を取り囲んでいるからです。そのため、曲がったさばきが行われているのです。」、13「あなたの目は、悪を見るにはあまりにもきよくて、苦悩を見つめることができないのでしょう。なぜ、裏切り者を眺めて、黙っておられるのですか。悪しき者が自分より正しい者を呑み込もうとしているときに。」という流れで、「…しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」と語られている、この流れに注目。

[4] つまり、行いに依らず信仰による、という事実は、旧約の物語が、最初からずっと張り巡らして、新約に手渡していくテーマだったのです。だからこそ、新約でもパウロがこの言葉を引いて、行いや自分の正しさや何かではなくて、神への信仰による救いを強く訴えたのです。

[5]  ハバクク書2章後半は、不正や暴君や偶像崇拝を「わざわいだ」と繰り返し読んでいます。それは今の現状ではまだ盛んになされていますが、悪は悪として「禍だ」と言う。そして「しかし主は、その聖なる宮におられる。全地よ、主の御前に静まれ。(20節)」と閉じます。

[6] リチャード・フォスターは、古いユダヤの話を繰り返している。ある少年が預言者のところへ行って尋ねた。「預言者さん、あなたには見えないの? もう十五年も預言をしているのに、何も変わっていないよ。なぜ預言をし続けるの?」すると預言者は言った。「知らないのかね、ぼうや。私は世界を変えようと思って預言をしているのではない。世界が私を変えてしまわないように預言しているんだ。」 宇宙的視点を完全に理解することはできないかもしれないし、誰でも、この世界のもつ大きな矛盾に押しつぶされそうになることがある。ヨブのように、詩篇の記者たちのように、ハバククやエレミヤのように、私たちは神の知恵や力や愛に疑問を唱える。時間に縛られている私たちは、歴史を秒ごとに、分ごとに、時間ごとに見る。預言者たちは私たちの注意を、空恐ろしい現在の歴史の現実を超えて、永遠のながめへと、神の支配が地を光と真理で満たすときへと向けさせる。ハバククが有名な言葉、「正しい人はその信仰によって生きる」で意味したのはそれである。私たちは、たとえ世界がばらばらに崩れても、神は良い方であるという信仰にしかがみつくのだ。」フィリップ・ヤンシー『イエスが読んだ聖書』、260頁。

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