聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/11/22 Ⅰコリント11章23~26節「祝いと歓迎の聖餐式」ニュー・シティ・カテキズム46

2020-11-21 12:59:08 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/11/22 Ⅰコリント11章23~26節「祝いと歓迎の聖餐式」ニュー・シティ・カテキズム46

 先週まで、洗礼の話をしてきました。洗礼を受けて、正式にキリスト者になると、もう一つの聖礼典、聖餐式に預かれるようになります。その聖餐式の話をしましょう。
第四十六問 聖餐とは何ですか? 答 キリストはすべてのクリスチャンに、感謝と共にキリストとその死を覚え、パンを食べ、杯から飲むことを命じられました。聖餐は神の臨在が私たちの只中にあることの祝いであり、神と、そしてお互いとの交わりに私たちを迎え入れ、私たちの魂に糧を与え養います。また、父の御国にてキリストと共に飲み、食べるその日を期待させるものです。

 聖餐は、パンを食べ、杯から飲むことです。今読みました、Ⅰコリント11章では、その始まりの主イエスがなさった「最後の晩餐」での食事の場面を思い起こさせています。
Ⅰコリント11章23節私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、24感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。25食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」26ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。

 この、一つのパンを裂いてともに食べ、一つの杯から飲む。そのことを通して、主イエス・キリストとその死を覚える、記念の食事が聖餐式です。
 主イエスが、十字架にかかる前、当局の人々に売り渡される直前の夕食で、イエスはパンと杯に託して、ご自身を与えてくださいました。聖餐式は、その時の
「これを行いなさい(行い続けなさい)」
という命令に基づく食事です。そして、私たちが主の死を覚えて、パンと杯をいただくことが大事なのですし、聖餐式を行い続けることを通して、私たちは主イエス・キリストが私たちのためにご自分を与えてくださったこと、主イエスの尊い死を周りの人に告げ知らせていくのです。それが、パンと杯の聖餐式です。
 ニュー・シティ・カテキズムでは、ここに聖餐の意味を三つ並べています。
 第一にそれは、神の臨在が私たちのただ中にあることの祝いです。イエスは、杯を「新しい契約」と仰有いました。聖書には「契約」という言葉が繰り返されていますが、それは「神が私たちの神となり、私たちは神の民となる」という関係を柱としています。
見よ。その時代が来る-主のことば-。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。…これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである-主のことば-。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 エレミヤ書31章33節

 神が、私たちの神となってくださり、私たちのただ中にいつまでもいてくださる。それが、この「新しい契約」でした。主イエスはそれをこの杯に託して、弟子たちに与え、教会に命じました。ですから、私たちは、パンと杯をいただくことを通して、主イエスが私たちのために十字架にかかったことで、神が私たちの神となり、私たちは神の民となったことを覚えるのです。イエスが十字架で私たちのために死なれたこと、それが十字架という想像を絶する痛ましい死であったことは厳粛な事実です。しかし、聖餐は沈鬱な、いかめしい儀式ではありません。そうまでして、主は私たちをご自分の民としてくださり、私たちを受け入れてくださったのです。ですから、聖餐は、厳粛であるとともに、喜び溢れるお祝いの食事、歓迎のレセプションでもあるのです。

 第二に、聖餐は、神とそしてお互いとの交わりに私たちを迎え入れ、私たちの魂に糧を与え養うものです。神との交わりだけでなく、お互いとの交わりもここにあります。一つのパンを集まったみんなで一緒にいただく。一つの杯をみんなでともに飲む。今日のⅠコリントの11章では、聖餐の教えのきっかけは、教会に分裂があったことでした。
Ⅰコリント11:20…あなたがたが一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはなりません。21というのも、食事のとき、それぞれが我先にと自分の食事をするので、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。
 これでは聖餐ではない、というのです。聖餐は、私たちもお互いに主によって一つ、神の民となったことの証しなのです。元々の主の晩餐は、主イエスが一つのパンを取って、みんなの前で裂いてそれを食べ、一つの杯をみんなで回して飲んだ食事です。私たちは衛生的な事情からしませんが、今でも回し飲みをしている教派も少なくありません。

 聖餐は、私たちがお互いにも交わりを親しく持っていることを証ししています。決して教会は愛や赦しや和解が溢れているばかりではなく、人間関係に悩んだり、ギクシャクしたりすることも多々あります。それでも、主が私たちを一つにし、愛の糧で養ってくださるのです。主イエスは、過去に十字架に死んで下さっただけでなく、今も、私たちに糧を与えて養い、支えて、ひとつのからだとして成長させてくださいます。

 最後に聖餐は、父の御国にてキリストと共に飲み、食べるその日を期待させるものです。主イエスは、最後の晩餐の席でパンとぶどう酒の杯を制定された最後にこう言われました。
「わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」(マタイ26章29節)
 私たちは杯を戴きながら、主イエスご自身は、私たちとともに新しく飲む天の御国の食卓を用意して、待っていることを約束されています。この約束を聖餐の旅に確かめて、私たちは期待することが出来ます。将来を仰いで、希望を持つことが出来ます。聖餐のパンと杯は、かつての十字架と、現在の養いと、将来の御国の祝宴という豊かな主イエスの養いを、一緒に、味わって覚える恵みなのです。

「主よ、あなたはいのちのパンです。私たちは主を崇める忠実なしもべとして聖餐にあずかります。ふさわしくないままパンと杯を取ることのないよう、私たちは悔い改めと信仰をもってあなたの食卓に近づきます。私たちに罪を犯した者を赦すことができますように。特に、共にパンと葡萄酒を食す兄弟姉妹たちを赦す信仰を与えてください。この食卓にあずかることを通して、あなたの救いの死の御業と、それなしでは生きることすらできなかった私たちの弱さを証しすることができますように。アーメン」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020/11/22 マタイ伝13章1~9節「種を蒔く人のたとえ」

2020-11-21 11:22:40 | マタイの福音書講解
2020/11/22 マタイ伝13章1~9節「種を蒔く人のたとえ」[1]



前奏 
招詞  マタイ11章28~30節
祈祷
賛美  讃美歌93「御神の恵みを」
*主の祈り  (週報裏面参照)
交読  詩篇23篇(1)
 賛美  讃美歌234A「昔、主イエスの」①②
聖書  マタイの福音書13章1~9節
説教  「種を蒔く人のたとえ」古川和男牧師
賛美  讃美歌234 ③④
献金
感謝祈祷
 報告
*使徒信条  (週報裏面参照)
*頌栄  讃美歌541「父、御子、御霊の」
*祝祷
*後奏




 このマタイの福音書13章には、七つの「例え話」が収録されています。その最初がこの「種を蒔く人の譬え」です。18節以下ではイエスご自身が弟子たちに解説を語っている、とても分かりやすい譬えです。その冒頭で「種を蒔く人の譬え」と言われます。焦点は、種を蒔く人です。種や土地も大事ですが、中心は「種を蒔く(蒔き続ける)人」です。また、
16しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。
17まことに、あなたがたに言います。多くの預言者や義人たちが、あなたがたが見ているものを見たいと切に願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと切に願ったのに、聞けませんでした。
 そんな「幸い」をイエスは強く語っていました。その幸いを念頭にこの譬えを読みましょう。
3…「見よ。種を蒔く人が種まきに出かけた。
4蒔いていると、種がいくつか道端に落ちた。すると鳥が来て食べてしまった。
 勿体ない!と思いますが、当時の種まきは今の農業と違い、穴を空けた袋に種を詰め込んで、人や家畜に運ばせ、ポロポロと種を零(こぼ)れ落とす。その後で、土を耕す、という農法でした。当然その途中では、種があっちの道端に落ち、こっちの岩地に零れ、そっちの茨の上に飛んでしまうのです。そこで、種が鳥に食べられたり、芽を出しても枯れたり塞がれたりする。種を蒔く人はその事で文句を言いませんし、やり方を変えはしません[2]。無駄に見える種はあろうとも、
8また、別の種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。
9耳のある者は聞きなさい」[3]
と閉じられます。この「種を蒔く人」の譬えを、惜しまず種を蒔き続けて、豊かな収穫を見る譬えを「聞きなさい」なのです。18節からの解説でもイエスは「聞きなさい」と言われます。
19だれでも御国のことばを聞いて悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪います。道端に蒔かれたものとは、このような人のことです。
 「御国のことば」とあります。もう少し丁寧に訳すと「王国の言葉」というニュアンスで、主イエスが王であり、どのような支配をなさるのか、イエスが王である国とはどんな国なのか、それはイエスがここまでずっと語ってこられた教えですね。その王なる神の言葉を聞いても悟らない。「いい教えだ」と思うだけだったり、「自分には関係がない」と思ったりして、聞き流していれば、忘れたり慣れたり、何か悪い者が来て奪っても不思議ではありません。
20また岩地に蒔かれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
21しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
 すぐに喜んで受け入れるのは、底が浅いからで、困難や迫害への反応も早い。苦しみの中でも神の御支配を信じるより、まだ自分の人生の舵を自分で握っている、とも言えます。そして、
22茨の中に蒔かれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いと富の誘惑がみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
 この「思い煩い」については6章25節以下
「心配してはなりません」
と丁寧に教えられていたように、私たちの心を占める、大きな悩みです。神が天にいます私たちの父として支配してくださる。支え、配慮してくださる。そう知らされていながら、必要以上に心配して神を見失うのです。あるいは、富の誘惑。豊かさとか楽しみとか確かさとか、それ自体は良いものだとしても、神以上に依存して、御言葉よりも世間の言葉やコマーシャルの台詞が頭を締めてしまう。御国のことばを聞いても、まだ自分で舵取りをしようと懲りないのです。それでも、
23良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。
 種を蒔く人は、無駄な種を気にするより、種を蒔き続け、その種は必ず実を何十倍にも結ぶのです。それが「天の御国」です。御国の言葉は無駄にはならず、豊かな実を結びます。

 この19~23節で
「蒔かれたもの
「このような人」
と言われています。私たちは、「蒔かれた場所」に自分を重ねて、道や石地や茨ではダメだ、良い地にならなければダメだ、と読むことが多いでしょう。それはそれで、私たちは経験に懲りて、学ぶに超したことはありません。しかし、読み方をここにある通りにグルっと変えて、道端に蒔かれたもの、種や蒔かれた状態を自分だと考えてみてはどうでしょう。
 私たちが御言葉を聞いても悟らなかったり、一時的に喜ぶだけで何かあれば躓いて、心配事やこの世の風潮や流行、世間の言葉に流されたりすることは絶えずあります。それでも尚、種を蒔く人は種を蒔き続けており、やがて豊かな実りが必ず来ます。主は、懲りもせずに尚も私たちにみことばを聞かせ続け、私たちを種としてこの地に蒔き続けます。そして、私たちの足りなさや、困難や誘惑よりも強い、神ご自身の支配を現されます。豊かな、希望に満ちた、惜しみない御国を現してくださいます。
 だから私たちは希望をもって悔い改め、そのたびにみことばから慰められ、励まされ、諭されて、主に自分の舵をお返しし、自分のなすべき分を果たしてゆくのです[4]。耳のある者は聞きなさい。



「種を蒔き続け、恵みを実現なさる主よ。あなたの御国を知る幸いを私たちにも与えてくださり感謝します。心の頑なさや二心ぶりは悔い改めるばかりですが、その事を通しても、私たちを治めるのは、他の何でも誰でも自分でもなく、ただあなただけだと仰ぎます。力強く、恵みに満ちた主よ。あなたの良き御支配を告白し、憐れみを待ち望みます。なお握りしめ支配したがる手を開いて、あなたにすべてをお委ねし、みことばを受け入れます。御国が来ますように」

脚注

[1] 参照、バーバラ・ブラウン・テイラー『天の国の種』(平野克己訳、日本キリスト教団出版局、2014年)。これは、従来の「四つの種」の理解に対する偉大な挑戦です。

[2] 土地が問題なら、蒔いた農夫のやり方が間違っているだろう。違う蒔き方をしたらいいのであって、土地のせいではない。道や岩地や茨があろうと、そちらの損を取り上げるより、良い地に落ちて確実に実を結ぶことに、農夫は満足を見出している。

[3] この「耳のある者は聞きなさい」は「聞き続けなさい」のニュアンスの現在形です。一度きっぱりと聞きなさい、という「不定過去(アオリスト)」ではありません。ここからも、この「聞く」ことが決定的な事というより、継続的なことだと分かります。

[4] 神がすべてをしてくださるのだから、私たちが何をしても良い、というのではありません。私たちは、御国のことばに耳を傾けて聴く必要がある。それは、私たちが聴いていることが幸いだと、見ていることが神の業だと、積極的に受け止め、神の力を小さく考える生き方から変えられることです。自分の聴き方のまずさや頑なさ、誘惑への弱さによって、台無しにしてしまえるかのような弱い言葉ではなく、神の力は必ず実を結び、私たちはその幸いの中に入れられていることを教えられ続けること。神の支配を小さく考えて、自分の力・支配・操作を握りしめてしまう悟りのなさを捨てていくこと。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする