聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/5/10 マタイ伝6章25~34節「苦労はその日その日に」

2020-05-09 13:28:18 | マタイの福音書講解
2020/5/10 マタイ伝6章25~34節「苦労はその日その日に」

「心配することはやめなさい[1]」
「空の鳥を見なさい」
「野の花がどうして育つのか、よく考えなさい」
「まず神の国と神の義を求めなさい」
と、忘れがたい言葉が詰まっている所です。
 「鳥好き」の私としてはいくらでも話したい箇所です。折角ですからぜひ皆さん、御言葉に従って、外に出て空の鳥をじっくり見てください[2]。
 今鳴門では雀(スズメ)や美しい鳴き声のイソヒヨドリが見られます。燕(ツバメ)は早すぎて目で追うのは大変ですし、雲雀(ヒバリ)は、囀(さえず)りは聞こえても見つけるのは難しい。また、鳥は
「種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。」
とありますが、中には、種を埋めるキツツキや、ハヤニエで備蓄をするモズなんて鳥もいます。また、燕は飛びながら雛たちにやる餌を捕まえます。ペットの鳥は体重の1割から2割の餌を、最も軽いハチドリなどは体重の2倍ほどの蜜を摂取します。ヒナは何もせずに口を開けて待っていますが、巣立てば自分の餌を見つけ、親になれば子どもの分の餌も集めるために、一日を送ります[3]。そういう能力も含めて、
「あなたがたの天の父は養っていてくださる」
なのですね[4]。
 また野の花が育つ様子に目を留めると、その不思議さ、美しさ、緻密さに驚きます[5]。その花一つは完璧に神に装われ、聖書で最も栄華を極め、贅を尽くしたソロモン王も敵(かな)いません[6]。
「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草」
でも、神はこんなに惜しみなく装う。ならば、
「あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか」
と主は言われるのです。それは必ずしも私たちの将来への保証を意味しません[7]。鳥も花も、長生きではありません。明日は地に落ち、炉に投げ込まれ、皆さんのお腹に入るかもしれません[8]。でも、鳥はそんなことを案じたりせず、空を飛びさえずっています。そんな鳥よりもあなたがたはずっと価値がある[9]。花よりももっと良くしていただけないはずがない。明日どうなるかは分からないけれど、今日、神が惜しみなく養い、心に留め、鳥より、ソロモンより花よりあなたに価値があると言われる。
31ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。32これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。
 「異邦人」というのは、この神、私たちの天の父となってくださった神を知らない生き方をしている人です[10]。だから、何を食べるか何を飲むか、明日も食べられるか、栄華を極めて、長寿を全うする生き方が幸せだ。そういう人生を、神様は二の次で送りたい。そういうことを切に求める生き方です。イエスは、天の父があなたがたの命を養っている、と仰います。神が天の父として、今日、私たちに必要なものを下さっている、という事実を思い起こさせます。生かされている事が恵みの奇蹟なのです。これに気づけば、私たちの求めや見方も根本から変わります。生かして下さっている神への信頼、感謝に根ざして、神の基準で生きるのです。
33まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。34ですから[11]、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。
 神の国(神が王である)ことは、マタイが繰り返して来たテーマです[12]。
「御国が来ますように」
と祈り、
「御心が行われる」
ことを願って生きる。そこにまた立ち戻る。自分が王になり、自分の小さな正義を貫こう、自分の人生が少しでも長く、少しでも保証されて、華やかで、装われたものになる。そういうことを求めて、かえって思い煩いや不安が増してしまう生き方から、イエスは解放してくださいます。神の国を求めなさい。私たちを生かして、養って、装ってくださっている天の父に気づきなさい。明日が大丈夫だろうかとやきもきするよりも、今日生かしてくださっている天の父に心を向けなさい[13]。それを忘れて心配してしまう私たちを
「信仰の薄い人たちだなぁ」
と笑い飛ばしてくださる。空の鳥をよく見なさい、野の花がどう育つかをよく考えなさい、そうすれば分かるじゃないか、とイエスは豪快に仰るのです[14]。
 「苦労はその日その日に十分あります」。
 天の父は毎日の必要だけでなく、苦労も下さっています[15]。その苦労だけ見て、また将来まで気に病んでクヨクヨ考えて、今日を生きていないことがあります。生かして下さっている神を知らず、生かされている恵みも知らずに思い煩い、物や保証や装いを求めてしまいそうになる。イエスは私たちに、今日いのちも身体もある。食べ物もある。鳥も鳴いていて花も咲いている。信仰が薄くて忘れてしまう私にも[16]、天の父はよくしてくださっている。その事に気づかせて、天の父への信頼に根ざして生きなさい、神の国と神の義を求めなさい、とイエスは言われます。
 それは、神に今日を生かされている恵みを尊び、苦労とともに、鳥や花とも共に、生き辛さを抱える人たちとも共に、今日を生きる生き方です。今日生きるのが本当に大変な人も、十分な苦労があっても今日を感謝して生きられるようになってほしい。その生き方そのものが、鳥の歌や花の可憐さにも優る賛美になるのだと思うようになっていきたい。そういう「神の国と神の義」を、毎日求めたいのです。

「天の父よ。御業はこの世界にも身の回りにも溢れています。私たち自身、お互いが、天の父の証しだとは、なんと驚くべき言葉でしょう。今日、ここに生かされ、今日一日分の苦労が十分にある。それをあなたに支えられて担い、互いに労い合いながら、歩ませてください。その私たちの苦労を果たす今日の歩みを、支え合う交わりが、御名を賛美する歌となりますように」
[1] 「心配する(メリムナオー)」は、ここで5回と10:19のみ。心配そのものが主題ではなく、神の国と神の義を求める、というテーマが別の角度から言われていることを裏づけます。
[2] この「見なさい(エンブレポー)」は、「よく見る、観察する」を意味します。注意深い観察です。
[3] 神学者ジョン・ストットによる優れた解説書『空の鳥を見よ』では、この言葉にまつわる三つの誤解が言及されています。①将来への備えを否定したのではない。ドングリキツツキはトチの実を蓄え、モズはハヤニエを作る。ヨセフは飢饉に備えて食糧を蓄え、イエスは費用の計算を命じた。②思いがけない出来事が起きないとは保証しない。雀が地に落ちることが必ずあるように。③神の御業を座して待っていれば良いのではない。神の養いは無償だが、私たちはそれを受け取らなければならない。鳥は体重の10~20%の食事を採り、ハチドリは体重の2倍以上の蜜を採取する。生きている時間の大半を、給餌に費やしている。食事を見れば目敏く獲物を捕る。しかし、見えない明日のことは案じない。 ありがちな誤解への訂正です。「アリとキリギリス」のようではありませんし、実際のキリギリスも、かなり働き者なのですが…。
[4] 「養う(トレペイ)」 6:26と25:37「すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。』」
[5] 「よく考えなさい(カタマンサノー)」は、聖書でここだけの動詞。よく考える。徹底的に考察する。
[6] ソロモンがもっと栄華を極め尽くしたら、花に優ることが出来た? いいえ、装おうとすればするほど、花から遠ざかる。
[7] 価値があることと、明日死ぬかもしれない、ということは矛盾しない。人間の極める栄華と、野の花一つの装いとは比べられない。よく「生きる価値がない」という言い方や、「使命が有る限り生かされる」というような言い方がされますが、聖書の生命観は、機能・使命とは別次元です。
[8] 30節の「炉(クリバノス)」は、こことルカ12:28平行記事のみ。ESVは「オーブン」と訳しています。そこから私は、家庭用のオーブンを連想して、今日の花が明日は料理になり、人の食事になるイメージを浮かべてしまいました。確かに、私たちが今日焼いて食べた野菜も、どれも昨日にはソロモンにまさる美しさを装っていたのです。
[9] 「価値がある(ディアフェロー)」 6:26、10:31「ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。」、12:12「人間は羊よりはるかに価値があります。それなら、安息日に良いことをするのは律法にかなっています。」
[10] 「異邦人が切に求めている」 7、8節とのシンクロ。「また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。8ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです」。異邦人は、私たちを知り、愛し、備えている天の父を知らず、神さえも自分の衣食を備えるための脇役に過ぎない。神を知っている私たちは、衣食より、神の王国(支配)と神の義(隣人愛・贖罪)を求める。それは、衣食や明日への保証をもたらすための保険ではなく、神が王であって、私たちは人である、という弁えを伴う生き方。
[11] この部分では、「ですから」が多くなり(22、23、25、31、34節)、前後の続きが強調されています。この部分だけを「思い煩いからの解放」という独立した主題説教のように扱うことは、本旨から外れてしまいます。
[12] 「御国」5:3、10、19(*2)、20、6:10、7:21。マタイでは勿論、この山上の説教でも要となる言葉。心の貧しさ、迫害、パリサイ人にまさる義、父の御心を行う者だけが入れる場所、それは父のようになる生き方、何かを成し遂げるとかではなく、父の養いに信頼して、今ここに生きる歩みのこと。
[13] 「心配しない(思い煩わない)」がゴールなのではなく、天の父を信頼し、神を神とする生き方を富とすることは、思い煩わないこととも繋がる、という別の角度からのアプローチ。いのちもからだも、天の父が養ってくださっている。天の父が、鳥をも養い、花をも装っている。そのことにフォーカスする。
[14] 目には見えない神を自分の信仰で信じるという精神論ではありません。見えている鳥や花や一つ一つに、神の目にも鮮やかな養いを観察せよ、という現実論であり、具体的なエクササイズなのです。
[15] 私たちの歩みも、働かなくて良い、計画性が要らないのではない。今日の苦労は引き受ける。
[16] 「信仰の薄い人たちよ」は、神が装って下さることと矛盾しない。信仰や、神の国を求める行為があれば、食べ物や着る物の必要は与えられる、ではない。神は、食べ物も着る者も、神の王国と神の義も与えてくださる父だ。

Ⅰ.神の民の集い
 招  詞      詩篇100篇
 祈  り
*賛  美      讃美歌26「心を傾け」①②
 主の祈り
 罪の告白      招き(詩篇130:3-4)・祈り・沈黙
 赦しの確証    イザヤ書57章15、18節
 平和のあいさつ
*賛  美      讃美歌26 ③④
Ⅱ.みことばの宣教
 聖  書      マタイの福音書6章25~34節
 説  教      「苦労はその日その日に」
Ⅲ.みことばへの応答・献身
*賛  美      讃美歌465「嬉しき朝よ」
 ささげもの
 報告・牧会祈祷
Ⅳ.派遣
*信仰告白
*賛  美     讃美歌540「御恵み溢るる」
*派遣・祝福


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020/5/3 Ⅰ列王記19章1~7節「旅はまだ長い 一書説教 列王記第一」

2020-05-02 09:50:54 | 一書説教
2020/5/3 Ⅰ列王記19章1~7節「旅はまだ長い 一書説教 列王記第一」

 月に一度の「一書説教」を、「列王記第一」からお届けします。列王記は第一が22章、第二が25章になりますが、元々は一つでした。その前のサムエル記上下とも合わせて、四巻物の大きな歴史絵巻[1]。列王記第一だけでも120年の歴史の記録ですし、第二まで含めると400年にも及ぶ時代を眺めます[2]。日本で今から四百年前と言えば、江戸時代が始まって鎖国や「島原の乱」などの大昔。徳川幕府から今のIT時代まで、と思えば、この列王記の中身の濃さも実感できるかもしれません。実際、列王記はダビデ即位の頃とは似ても似つかない、イスラエルが南北に分裂して、周囲の国と闘ったり同盟を結んだりする波乱の歴史が描かれます。
 そんな列王記第一には、沢山の印象的なエピソードが鏤められています。ソロモンが知恵を求めた祈りや[3]、神殿奉献の祈り[4]、シェバの女王の来訪[5]、そして、南北に分裂した時のドラマの数々。そして、北王国最悪の王アハブと妻イゼベル、そして預言者エリヤが対決する17章以降[6]。18章では、天から火が降って、主こそ神であることが力強く立証されるのです。
 しかし、その続きの19章はどうでしょう。それほどの奇蹟があったのだから、形成が一気にひっくり返った…とはなりませんでした。アハブ王の妻イゼベルの脅しに、エリヤは逃げ去るのです。天から火が降る奇蹟を目にして民衆も大興奮したのに、そんな盛り上がりはアッという間に冷めてしまう[7]。エリヤは果敢に立ち向かうどころか、打ち拉がれて逃げていく。
19:4…彼は、エニシダの木の陰に座り、自分の死を願って言った。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」
 こんな崩れ落ちた姿です。
 私たちも大きな出来事があれば「これで善くなるだろう」と思ってしまう。期待しては裏切られてガッカリ、どっと疲れが出る。生きるのも嫌になる。でも、大きな出来事や上辺の立派さは何も保証しない、という事こそ列王記のテーマかもしれません。印象的な出来事もありますが、ダビデが死ぬ前にソロモンに命じた粛正とか、預言者同士のやりとりとか、これは良いことなのか犯罪じゃないのか、と理解に苦しむ出来事もある[8]。ソロモンの若き日の繁栄や贅沢や神殿建設も、手放しで評価されてはいません[9]。先のサムエル記でも、
「人はうわべを見るが、主は心を見る」
とありました[10]。それに続く列王記は、イスラエル社会がもっと大きく複雑な組織になって、人は上辺の出来事しか見えませんが、主はこの世界をもっと違う目で見ておられるのだと思わされます[11]。むしろ私たちに、上辺を見て「これは素晴らしい」「ダメだ」と、安易に白黒をつけなさんなよ、見た目の行動を無理矢理変えようとしても解決にならないんだよ、と弁えさせるのが、列王記かもしれません[12]。天から火が下るような奇蹟があるとか、金の立派な神殿を建てて、人は変わったように見えるかもしれない。しかしそれは上辺だけで、人の心は変わらない。エリヤも期待を大きく裏切られて疲れて、逃げ出し、あまり居心地も良さそうでないエニシダの木の下で惨めに横になっていました。
19:5彼がエニシダの木の下で横になって眠っていると、見よ、一人の御使いが彼に触れ、「起きて食べなさい」と言った。6彼が見ると、見よ、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水の入った壺があった。彼はそれを食べて飲み、再び横になった。



 御使いは、エリヤの不信仰を責めたり悔い改めを迫って説教したりせず、パン菓子と水を下さり、また眠らせてくださる。そして、もう一度戻ってきて、こう言います。
7…彼に触れ、「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから」と言った。
 この旅の道のりはまだ長い。神は脅して無理に変えようとはなさらない。むしろ、神は、人の心を深く取り扱っていく長い道のりを惜しまれないのです。聖書協会共同訳はこう訳します。
「起きて食べなさい。この道のりは耐え難いほど長いのだから」と言った。」
 神は、長い道を厭われません。分裂王国では、北は離反者で、善い王は皆無で、エルサレムのある南がダビデ王の直系で、正統で、最終的には百年長続きします。でも列王記で神は、より罪の重い北イスラエル王国との遠回りの道を厭われません。罪を繰り返して責めつつも[13]、預言者を送り、働きかけ、愛し続け、語りかけてくださる。主ご自身が長い道のりを、堪え難い思いをしながら、でも堪え続けてくださる。それを、エリヤにも知らせているのです。
 色々な出来事が起こり、中々物事がうまく進まず、イライラし疲れ、他人を変えようとして、罰則や暴言で封じ込めようとして、ますますギスギスしています。神様ならもっと手っ取り早く、近道を作ればいいのに、と思いたくなりますが、神にはそういう考えはなく、長い遠回りをなさり、人に関わってくださる。型にはめたり罰で脅したりしても、人は変わりません。そうした解決を焦るやり方を手放して、まず自分の心が何に動かされるか、何を求めているかに気づきましょう。主は、私たちを責めも脅しもせず、安請け合いも語らずに、食べ物や眠りを与え、道は長い、と淡々と励ましてくださいます。それがイエスが示した道です。その長い道を通して、主は私たちを導き、心に触れてくださると信じて、旅を続けていくのです[14]。

「王なるイエスよ。旅の道のりはまだまだ長いとしても、あなたがともに歩み、ともに堪えてくださいます。温かい食べ物を与え、眠りなさい、と仰って、今日を迎えています。本当にありがとうございます。その愛によって、私たちを心から変えてください。あなたご自身が、私たちの上辺ではなく、心を憐れみ、慈しみ、慰め、成長させてくださいます。この困難な中でこそ、私たちがお互いを思いやり、主の言葉に支えられて、ともに旅路を進んでいけますように」


[1] サムエル記とのつながり。エリへの予言の成就(2:27)や、12:16の分裂の歌が、Ⅱサムエル20:1の反復であること、など。
[2] 南ユダ(BC1000-587。400年)、17人の王と3人の傀儡。北イスラエル(BC922-722。200年)、19人、8王朝。Ⅰ列王では70年。同じ時期に、北は9人、南は5人の王。
[3] Ⅰ列王記3章。
[4] 8章。
[5] 9章。
[6] そんな中にある有名な御言葉をいくつか挙げると、Ⅰ列王記3章9節「善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、この大勢のあなたの民をさばくことができるでしょうか。」、8章27節「それにしても、神は、はたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。」、46~51節「罪に陥らない人は一人もいません。ですから、彼らがあなたの前に罪ある者となったために、あなたが怒って彼らを敵に渡し、彼らが、遠くであれ近くであれ敵国に捕虜として捕らわれて行き、47捕らわれて行った地で我に返り、その捕囚の地であなたに立ち返ってあわれみを乞い、『私たちは罪ある者です。不義をなし、悪を行いました』と言い、48捕らわれて行った敵国で、心のすべて、たましいのすべてをもって、あなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖にお与えになった彼らの地、あなたがお選びになったこの都、私が御名のために建てたこの宮に向かって、あなたに祈るなら、49あなたの御座が据えられた場所である天で、彼らの祈りと願いを聞き、彼らの訴えをかなえて、50あなたの前に罪ある者となったあなたの民を赦し、あなたに背いた、彼らのすべての背きを赦し、彼らを捕らえて行った者たちの前で彼らをあわれみ、その者たちがあなたの民をあわれむようにしてください。51彼らはあなたの民であり、あなたがエジプトから、鉄の炉の中から導き出された、ご自分のゆずりの民だからです。」、17章14節「イスラエルの神、主が、こう言われるからです。『主が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」、18章21節「エリヤは皆の前に進み出て言った。「おまえたちは、いつまで、どっちつかずによろめいているのか。もし主が神であれば、主に従い、もしバアルが神であれば、バアルに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。」などを挙げます。
[7] バアルの預言者らとの戦いは、ひとつのクライマックスだが、それで局面は変わりはしなかった。イエスも、天から火を下しましょうか、といきり立った弟子たちを窘める(ルカ9:54-55)。また、黙示録でも13:13では偽預言者側で、天から火を下す威力が演じられる。ここでも「火の中に主はおられなかった」(19:12)と言明されるのだ。主は「火の後に、かすかな細い声」がある。それが、主の声。私たちは、自分のいきり立つ声や、力尽くの奇跡に頼ることを戒められている。罪人を裁き、上から断罪する時、私たちも罪人に似ていく。
[8] 最初から、これはどうか?が多い。ダビデの暴力性、ソロモンの粛正、大神殿の建設(階段で作ることは禁じられていたのに)とその倍近い年数かけての宮殿建設、などは、正当化する必要はありません。13章の奇妙なエピソードも、南からヤロブアムを責めるために北上してきた預言者が、ヤロブアムを一方的に断罪することは出来ない、南ユダ王国の住民の霊的な事実を物語っていると言えます。
[9] それが間違っていたことは、レハブアムの登場直後に民から出たのが、ソロモンの統治下のくびきだったことから分かる。
[10] Ⅰサムエル記16章7節「主はサムエルに言われた。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」
[11] ヤロブアムの幼い子アビヤの死も(14章)悲しい事ではあるが、ヤロブアムへの罰とは言われません。むしろ、その子(だけ)が良かったと言われ、悲しまれて墓に葬られるのはアビヤだけだ、と言われるのです。14:13「全イスラエルがその子のために悼み悲しんで葬るでしょう。ヤロブアムの家の者で墓に葬られるのは、彼だけです。ヤロブアムの家の中で、彼だけに、イスラエルの神、主のみこころにかなうことがあったからです。」
[12] 「罪にもかかわらず」とか「(前王の良き業にも)かかわらず」とか「父母ほどではなかった」(Ⅱ列王3:2)など、微妙な言葉も多い。単純に、勧善懲悪では測れないことが明らか。
[13] 「ヤロブアムの罪」は列王記で繰り返される特徴語です。10回。16:31、Ⅱ3:3、10:29、13:2、11、14:24、15:9、18、24、28。「ヤロブアムの道」15:34、16:2、19、26、22:52、5回。歴代誌には出て来ない。
[14] 私たちは、表面的なことだけ変えようとして、強いたり責めたり命じたりする。しかし、それでは内面がますます腐り、澱む。人の成長を望むなら、行動を強いたり脅したりするよりも、愛すること、励ますこと、自分も正直に接すること。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする