2018/9/9 創世記3章1~11節「悲しむ神」はじめての教理問答32~33
先週は「罪」について聖書が何を言っているかを「はじめての教理問答」から知りました。聖書が言う罪、キリスト教が言う罪とは、私たちの心が悪いとか、人間社会での法律を破るかどうか、が基準ではありません。神様が人間に求めておられることが基準です。その神様の求めておられる目的(ゴール・的)から外れていることが罪です。神様の目的では無い、違う的を狙っている「的外れ」を「罪」というのです。
今日はその続きです。人間が神の求める生き方から外れる時、その罰は何でしょうか。
問32 あらゆる罪にふさわしい罰とはなんですか?
答 神さまのいかりとのろいです。
問33 わたしたちの最初の祖先の罪とは、どういうものでしたか?
答 禁じられた木の実を食べたことです。
問34 だれがアダムとエバを誘惑して、このような罪をおかすようにしむけたのですか?
答 サタンがまずエバを誘惑し、さらにエバを使ってアダムを誘惑しました。
罪にふさわしい、つまり、神の求めることに応えなかった結果、自分に跳ね返ってくる「罰」は、神の怒りと呪いです。神が人間にご自身を信頼して、心から神に従うことをお求めになります。人間がその神の言葉に背いて、神に従わない時、神は怒り、私たちは呪いを身に招くことになります。そういう結果になるような約束破りを、最初の人間、アダムとエバはしてしまいました。つまり、禁じられていた木の実を食べたのです。
神はエデンの園で、ありとあらゆる種類の豊かな木の実を下さり、園の中央に2本の木を植えられ、その片方、たった一本の木からは
「取って食べてはならない」
と禁じられていたのです。それが神と人間との
「いのちの契約」
でした。その禁じられた木の実を食べたことが、最初の人間の罪でした。「たったそれぐらい!」と思う人もいます。しかし約束は約束です。「少しぐらい破ってもいいでしょう」では、約束をする意味がありません。約束は守ることが、神の人間に求められている応答なのです。しかし、そこに蛇がやって来ました。これは蛇の姿を取った、サタンだと聖書では明らかになっていきます。その蛇がエバを誘惑し、エバを使ってアダムを誘惑して、禁じられた木の実を食べるようにそそのかしたのです。ここには、神が私たちに求められる契約を破らせよう、背かせよう、人間を神から引き離そうとする力が働いていることが示されています。そうした誘惑、悪い力があるので、私たちは賢く、用心深くなる必要があります。
サタンは
「食べても決して死にませんよ。食べたら、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知ります。神はそうだと知っているんですよ」
と言いました。それに騙されて、また神を疑って、アダムとエバは、約束を破って、食べてしまいました。つまり、ただ約束を破っただけで無く、神を疑い、食べたら目が開かれて、神のように善悪を知るようになると期待して、食べたのですね。それは、サタンの誘惑があったにせよ、アダムとエバが自分から選択して、禁じられていた木の実を食べた、誰のせいにも出来ない過ちでした。食べた時、二人の目は開かれましたが、神のようになって善悪を知ったのでしょうか。いいえ、彼らの目が開かれて分かったのは、自分たちが裸であるという事実でした。神のようになるどころか、自分たちは裸である事実が見えて、その事実を、イチジクの葉を綴り合わせて隠す、という実に愚かしい行動をするのです。
その後、神が近づいて来られたと知ると、二人は神の顔を避けて、隠れます。これも愚かな行動です。そして、
「あなたはどこにいるのか」
と呼びかける神に対して、彼らは
「私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています。」
と言いました。すると主は
「あなたが裸であることを、だれがあなたに告げたのか。あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか」
と言われます。皆さんはこの言葉を聞いて、どんな主の思いを聞きますか。これは、主が人間の約束違反、的外れ、罪が明らかになった時に、初めて発せられた言葉です。主のどんな思いが伝わってくるでしょうか。
読みようによっては、神は人間が契約を破って、あの樹の実を食べ、目が開かれて裸だと知ってしまったことに愕然として、爆発寸前、とも読めます。そういう意味で神は怒っておられるのだと読めます。しかし人間が裸である事は、2章25節でも既に触れられていました。裸であっても恥ずかしいと思わなかったのです。ですから、ここで主が仰っている
「あなたが裸である事を、誰があなたに告げたのか」
は、犯人捜しでは無く、
「わたしではないか」
という言葉なのですね。
「人が裸である事を告げたのは、わたしではないか。だから、あなたが裸であることを恐れて、わたしから身を隠しているのはどういうことか。食べてはならないとわたしが命じた木から食べた、ということではないのか」
と言っているのでしょう。そして、その事で神は一方的に怒り狂うのでは無く、人間が自分のしたことを認めるよう語りかけます。そしてこの後も、神は人間に、神との約束を破った責任の重さを自覚できるよう、出産や仕事の苦しみを増やします。でもそれは神との関係をよくも裏切ったなと怒りに任せて呪った、というようなものではありません。それは人が自分の間違いを認め、味わい、責任を引き受けるための罰です。
人との約束を破れば、その人との関係は大いに傷つきます。暑いものに触れば火傷をします。無駄遣いをしたお金は帰って来ません。太陽を見れば目が潰れます。同じように、いのちの基である神に逆らえば、私たちの命は大いに傷つき、神は決して平気ではおられません。神に背く罪には、神の怒りと呪いという罰が当然の報いとして、相応しいのです。しかし、その「神の怒り」は人間に対する神の真剣さ、情熱です。この世界の小さな人間と、真剣に関わられて、約束を守ろうとなさり、約束が破られた時には悲しまれ、大いに嘆かれるからの怒りです。その呪いも、人間と真剣な関係を作るための結果責任であって、神は最後には神の子イエスの犠牲によって、呪いを祝福に替えるおつもりでした。
罪にふさわしい罰は、神の怒りと呪いです。人間の小さな罪を、神が必要以上に怒るのではありません。私たちの罪は、決して小さなことではないのです。そして、私たち以上に、神ご自身が激しく悲しみ、最後には神の子イエスが十字架で呪いを引き受けることによって解決するしかないほど、神ご自身にひどい傷をもたらすのが罪なのです。