聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

はじめての教理問答28~33 Ⅰヨハネ3章4-11節「神様の求めること」

2018-09-02 18:13:53 | はじめての教理問答

2018/9/2 Ⅰヨハネ3章4-11節「神様の求めること」

はじめての教理問答28~33

 「はじめての教理問答」からキリスト教信仰の土台を確認しています。先週は「いのちの契約」のお話しでした。神が人間をエデンの園に置かれた最初に、人間に園を耕し、守り、生み、増え、世界を祝福するように命じられました。それは人が神に喜んで従うことで永遠に生きるための関係でした。そしてその中に「善悪の知識の木」からは取って食べてはならない、という1つの禁止が与えられていました。今日は、その続きです。

問28 アダムはいのちの契約を守りましたか?

答 いいえ。アダムは神さまに対して罪を犯しました。

 アダムは「いのちの契約」を守りませんでした。でもそれはただ1つの禁止をうっかり破ったというようなことではありませんよ、それは「罪を犯した」ことですよ、とここから「罪」とは何でしょうか、と話を「罪」に絞るのです。

問29 罪とはなんですか? 

答 罪とは、神さまの定めた律法に合致しないこと、またはそれを逸脱することです。

 「罪」とは何か、と言われて皆さんはどんなことを思うでしょう。ここには、神の定めた律法を基準に書いていますが、しかし私たちの頭の中には、どんなイメージがあるでしょうか。私は牧師になるための勉強をする直前まで、罪とは「後味が悪いかどうか」で決まると思っていました。やった後で、自分の気持ちが落ち着くなら、罪ではないと思っていました。どうでしょうか?

 ある人は、「罪」とは法律に違反する事だと思うでしょう。捕まるようなことはしていないから、自分は罪とは無関係だと思うかもしれません。あるいは、罪というと暴力や泥棒を思う人もいます。また、お酒を飲んだり、男女関係を持ったり、妊娠することが罪だと考えている人もいます。「一番の重い罪は同性愛」だと言う人もいるようです。そうした何か特定の行為を考える人は、少なくありません。その反対に、自分の心にある欲望や恥ずかしい考えが全部罪だと思っている人もいます。罪とは悪い心だ、ということです。

 そうした考えを意識しつつ、この教理問答が聖書から教えている「罪とは何ですか」を考えてください。それは

「神様の定めた律法に合致しないこと、またはそれを逸脱すること」

なのです。私たちの心が後ろめたいか、後味が良いか悪いか、は問題ではないのです。また、人間の作る法律が基準でもありません。そして、自分の心にある欲望や恥ずかしさも、基準ではないのです。大事なのは、神様の律法です。神様の考えです。

 聖書の元々の言葉で「罪」はハマルティアといいます。このハマルティアという言葉は最初「的を外す」という意味だったそうです。弓矢やダーツゲーム、矢を「的に当てる」遊びがあります。野球でもピッチャーはストライクゾーンを狙ってボールを投げます。それが、ストライクゾーンに入らないなら、「的外れ」です。それではゲームが出来ません。罪も、神様が人間に下さった律法から外れてしまうことです。神様が守りなさいと言われた律法に合致しない、あるいは逸脱すること。

 続きをサッと見ます。

問30 律法に合致しないとは、どういうことですか?

答 神さまのもとめるものとならないこと、または、神さまのもとめることをおこなわないことです。

問31 律法を逸脱するとは、どういうことですか?

答 神さまの禁じることをおこなうことです。

 神様がしなさいと言われることをせず、してはいけないと言われることを行う。そのどちらでも、神様が人間に仰った目的・ゴールから外れることです。ところで、神様の求めることとは何でしょうか。それは、イエスが仰った通り、私たちが神を愛し、互いに愛し合うことですね。神を愛し、互いに愛し合う。それが神が定めた律法の、一番大事な戒めです。そこに向けて生きるようにと、私たちは作られています。そして、そこに向けて私たちは練習中です。完璧に愛せる人はいません。完璧でない人をも愛して下さるのが神の愛です。神は、私たちに「完璧に愛せ、愛の的を外したらそれは罪だ」などとは仰いません。そういう意味での「的外れ」ではないのです。

 罪とは「愛する」的を外してしまう、という的外れではありません。愛するという的を狙わずに、自分の勝手なゴールを的に狙って生きていることです。私たちを作り、私たちを愛し、治めて下さる神がおられるのに、神を忘れた生き方を的にして生きている。それが罪です。そしてそれが、善意であるか、真面目であるか、とても熱心であるとしても、そういう生き方が、神の律法から離れているので罪なのです。

 先ほどの絵で言えば、国の法律と神の律法とは違う場合があります。以前は、日本の国では天皇陛下を神として礼拝しなければ「不敬罪」で殺されることがありました。正しいことをした結果、逮捕されて牢屋に入れられる国もあります。でもそれが、クリスチャンとしても悪いこと、恥ずべき、避けるべきこととは限りません。

 暴力や泥棒は確かに悪です。でもそうした事をする人が悪くて、自分はそんなことをしていないから罪がないと思うなら、それは神様が求める生き方とは違います。心に色々な思いがあります。でも「罪人」だというのは人間の心が醜くて、罪に汚れている、という自己嫌悪とは違います。私たちの心や生き方が、神の下さったゴールに向いていないことが問題なのです。「こんな心が汚れた人間が神様を愛しても喜ばれるはずがない」と思うなら、聖書が言っているのは逆だと思い出してください。先のⅠヨハネ3章で、

あなたがたが知っている通り、キリストは罪を取り除くために現れたのであり、この方のうちに罪はありません。

キリストにとどまる者はだれも、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見たこともなく、知ってもいません。

 キリストは罪を罰するためではなく、放置するためでもなく、取り除くために来たのです。罪に汚れた心を聖めるというよりも、神の定めた「愛する」という目的に向かっていない私たちを、その他の的を狙い続ける生き方から、本来の生き方へと向かわせるためでした。確かに私たちの心には欲があり、間違った思いがあります。でもキリストはそういう私たちを、神を愛し、互いに愛し合う生き方へと向かわせてくださっています。そして私たちはそういう生き方へと変わりたいと願っています。的外れな罪の生き方から、神が求める生き方へと変えてくださるキリストの約束に望みを置いています。

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ヨハネ伝13章1-15節「互いに足を洗い合う 5つの愛の伝え方②」

2018-09-02 17:58:06 | 愛を伝える5つの方法

2018/9/2 ヨハネ伝13章1-15節「互いに足を洗い合う 5つの愛の伝え方②」

 「5つの愛の伝え方」をテーマにお話しする3回目。言葉、仕える行為、贈り物、充実した時間、スキンシップ。今日は「仕える」についてお話しします。まず主イエスの洗足から、主が私たちに仕えてくださったことを見ます。そしてここにある模範と、仕えるという祝福にまつわる大きな誤解も解きほぐされながら、自由に仕え合うことを確認したいと思います[1]

1.主が足を洗われたように

 ヨハネの13章は、17章まで続く、主イエスの「最後の晩餐」の教えの始まりです。その後、18章でイエスは捕まり、裁判で死刑を宣告され、十字架に死なれます。その前夜、イエスはご自分の最期を予感された上で、弟子たちと食事をともになさいました。その夕食の席で、

イエスは…立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。

 当時、街を歩いてきた人が、家に入って食事をする時に足を洗うのが習慣でした。外の埃、泥、家畜の糞にまみれた足を、正式な食事の前に洗ったのです。それは奴隷の仕事、最も身分の低い者の役割だったようです。この時、足を洗ったのはイエスでした。つまり、弟子たちは誰も自分が皆の足を洗おうとは思わなかったのでしょうか。自分が一番格下だなんて思いたくない。そう考え合っている中で、主イエスが立ち上がって、上着を脱ぎ、弟子たちの汚れた足を一人一人拭き始められたのです。常識外れのことでした。ペテロはたじろいで「主よ、あなたがた私の足を洗ってくださるのですか。…決して私の足を洗わないでください」と言います。しかしイエスがお答えになったように、これはただの習慣や親切以上に、イエスが私たちの罪を洗ってくださること、また神としての栄光を脱ぎ捨てて低くなったことの象徴でした。イエスはこの後、十字架に架かって、私たちの罪を洗い清めて、神の民としてくださったのです[2]。恐れ多くて遠慮した方がいいことではない。イエスが私たちのために謙って、足も心も聖くして、切れない関係を下さったのです。洗礼はそのことの象徴でもあります。しかしそうした宗教的な意味だけでもありません。主は本当に汚れた弟子の足を洗いました。その後、

14主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。

15わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。

と仰ったのです。文字通り足を洗う、という意味以上に、お互いに仕え合い、プライドを捨てて謙って、互いに助け合う。それがイエスを主とするキリスト者の生き方なのです。

2.助けすぎない

 この後34節で「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われるようにイエスの真意は愛すること。言い換えると「足を洗う」「仕える」なのです。

子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。[3]

 教会の人間関係や対外的な宣教、家庭の夫婦、親子、社会の関係で、お手伝いをする、出来る助けをする、手を貸していく。そうした行動が必要な場合がたくさんあります。口先や気持ちで大事に思っているのを、行動で伝えることです。出来る事を協力する、困っている時に出来る事で助ける。助けをもらう。そういうやり取りが出来ることは、本当に嬉しいことです。

 しかし、それだけに仕えることは現実の問題や誤解も大きい課題です。現在もボランティアでは「助けすぎない」「何もせずに佇む方が助けになる」が大事だとか[4]。イエスの洗足も少し丁寧に見ていきましょう。

 何よりもイエスはここで弟子たちを愛されて足を洗ったのです。自ら進んで、低くなったのです。私たちを愛して、私たちに必要なものを与え、罪や過去の汚れがどんなにあろうとも、変わらず尊いと仕えることで示してくださったのです。私たちは、その愛をいただいています。そして「仕え合う」ことを通して、この愛を贈り合うのです。主が自ら尊く扱ってくださって、その主が私たちにも「互いに尊び合い、それを行動で示しなさい」と仰るのです。一方的に仕えるのでなく「仕え合う」です。「人の役に立たなきゃダメだ」とか「ボロ雑巾のようにこき使われても我慢せよ」ではありません。愛されている者として仕え、仕えることで相手も自分もともに、神からいただいた命を豊かにすることを願うのです。自分も助けをもらうことも遠慮無く、感謝して受け取る。助けすぎて、甘やかすのは、助けになりません。また、人を助けるためには自分自身の体調管理も大事です。食事、睡眠、休みが必要です。自分の心と体のケアは後回しで人助けをする人もいますが、まず自分を十分大事にする時、他の人も生き生きとなれるのです。イエスの洗足は自由でした。弟子たちに命じられたから洗ったのでもないし、「自分がやらないと悪いな」とか、「全身洗って」と言われたら喜ばせるために洗ったりもしませんでした。イエスは自由をもって仕える方です。

3.模範を示す愛

 1節にはイエスが十字架を前にして、最後まで弟子たちを愛された、とあります。それは、イエスが弟子たちの足を洗っただけではありません。それを弟子たちへの模範として、弟子たちにも足を洗い合い、助け合う生き方を生きるようお命じになった。そこまでが、イエスの示した愛です。自分が仕えるだけでなく、相手にも仕える生き方を始めさせる。それがイエスの愛です。そして私たちが仕えるのも、一方的に仕えるのでなく、周りにも仕える生き方が広がっていき、いわば、仕え合う生き方に巻き込んでいくのです。自分の限界も認め、相手にも助けてもらい、相手のしてくれることを喜び、感謝していく。何でもしてあげるのが愛なのではなく、相手の持っている力を励まし、相手の貢献を認めて、相手の可能性を信じる。そうやって生かし合って、仕え合う関係へと、まずイエスは模範を示されたのです。

 イエスが立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとい、たらいに水を入れて、弟子の足を洗い、腰の手ぬぐいで拭き始められた…この様子はいかにも慣れた感じがします。普段から人の足を洗ったり、しもべたちの動きに目を留めたりしていたことを思わせます。私たちはまだ不慣れなことが多い。こんなにスムーズには出来ません。だから、教えてもらう必要があります。お互いに何が必要か、具体的に伝える事も必要かもしれません。「何がしてほしいか」を聞くのも大事でしょう。失敗もしますし忍耐も必要でしょう。でもそうやって助け合うようにと神は私たち人間をお造りになりました。一人では生きられず、他者を必要とする者として、でもそれぞれに何かが出来る者として、決してべったり共依存しなくても生きられるように作られました。そういう自分の価値を、お互いの助け合いや衝突を通して、確認しながら成長していくのです。それが、イエスが自ら模範を示して与えてくださった愛です。

 誰もが大事にされる必要があります。でも誰もが人に仕え、人を大事にする力を必要としています。そして一人一人が違っています。そこにはすれ違いや誤解、やり過ぎややらなさすぎが付きまといます。あなたがしなさすぎていたら何かをして見てください。しすぎていたら、遠慮無く立ち止まってください。主の御心は一方的な犠牲とは違います。疲れた時には休んでよい。知恵や勇気や励ましが必要です。でも、そういう人間らしさを取り戻して、限界を弁えた人の存在こそ、本当の助けになる場合も多いのです。

 イエスが足を洗ってくださったことを黙想しましょう。そうして私たちも「仕方なく」でなく、主に足を洗ってもらった同志、主のパンをともに分かち合う同志として、人に出来ることをしたいと思います。キリストが測り知れない謙りで自ら足を洗い、十字架に架かって示して下さった模範に、少しずつ少しずつ従わせていただきたい。その大変さに勝る喜びや祝福を味わわせてくださる主の憐れみを祈ります。

「私たちの助け手である主よ。あなたが私たちに仕え、永遠に仕えてくださるから、私たちは生きてゆけます。本当に感謝します。その喜びから、心を込めて出来ることをさせてください。鈍感で気づきにくい私たちを助け、教えて、必要だと思う事より少しだけ余分に親切に。罪悪感や計算からも少しずつ自由にされて、驚き、喜び、感謝して、生かし合っていけますように」



[1] ゲーリー・チャップマン『愛を伝える5つの方法』では、具体的に以下のような「サービス行為」が(特に、夫から妻への?)サービス行為としてリストアップされています。「料理を作る、食卓の準備をする、皿を洗う、掃除機をかける、タンスの整理をする、洗面台の髪の毛を取り除く、鏡の汚れを拭き取る、車のフロントガラスをきれいにする、ゴミを出す、子どものオムツを替える、寝室のペンキ塗りをする、本箱のほこりをはらう、車の整備をする、車を洗って掃除機をかける、車庫を掃除する、芝生を刈る、庭木を刈り込む、落ち葉をかく、ブラインドを掃除する、犬を散歩させる、ネコのトイレを掃除する、金魚鉢の水を替える…」(121-122頁)

[2] 特にヨハネの福音書では、「カナの婚礼」の水瓶(二章)、「サマリヤの女」の井戸端の会話(四章)などなど、「水」がずっと象徴的な役割を果たしてきました。

[3] Ⅰヨハネ三18。

[4] 香山リカ『迷える社会と迷える私』で紹介されるエピソードです。ブログ「一キリスト者からのメッセージ」より孫引き。http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=1359

 

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