2018/8/5 「神さまと私たち」出エジプト記34章6~10節
はじめての教理問答6~10
皆さんは「神さま」にどんなイメージを持っているでしょうか? また聖書に書かれている神さまって、どんなお方だと思っていますか? あなたと神さまとの関係はどんな関係ですかと聴かれたら、どんな答をするでしょうか?
最近『神様イメージと恵みの世界』という本が出て、読んでみたいと思っています。人はどんな神さまイメージを持っているか、それがその人の生き方や人との関係と大きく関わっているというのです。
思い切った言い方をしますが、私たちが持っている神さまイメージは全部本当の神さまとはかなり違うはずです。考えてください。誰かが皆さんについて持っているイメージは、あなたが知っている自分とはかなり違うはずです。あなたが誰かに対して持っている考えも、本人にはビックリで、遠慮したいものかもしれません。それは私たちが互いに違う人格だからです。自分とは別の心を持っている存在です。人はお互いを、どこまでも違う存在として、大事にし合わなければなりません。まして、私たち人間と、世界を造られた大いなる神との関係にも、自分とは別の人格とは当てはまることなのです。私たちの神様イメージと本当の神様との違いを心得ることを忘れないでいたいものです。
「はじめての教理問答」、今日の6~11は神様と私たちとの関係を教えます。
問11 神さまを見ることはできますか?
答 いいえ。見ることはできません。でも神さまはわたしをいつも見ています。
問12 神さまはすべてを知っていますか?
答 はい。神さまから隠せることはありません。
問13 神さまはすべてのことができますか?
答 はい。神さまは聖なるご意思をすべておこないます。
問14 神さまを愛し、神さまにしたがう方法は、どこに教えられていますか?
答 ただ聖書のなかにのみ教えられています。
問15 聖書はだれが書いたのですか?
答 選ばれたひとたちが、聖霊によって霊感を受けて書きました。
神は目には見えないお方です。では見えないからいると思えなくても仕方ないのでしょうか。こう考えてはどうでしょう。あなたは写真を見るとします。
その写真には景色がすべて映っています。でも、カメラは写っていません。ではカメラが写っていないから、カメラはなかったのでしょうか? いいえ、写真があること自体がカメラがあったことの証拠です。カメラがなければ写真は残せません。同じように、見えるものがすべてあるのは、それを造られた神様がおられるからです。神様が見えなくても、見えるものの存在そのものが、造り主がいなければあり得ないのです。そして、見えるものをお造りになった神様は、世界のすべてを見ておられます。私の事もいつも見ておられます。すべてのことをご存じで、神様から隠せることは何一つありません。それは私たちにとってあまり居心地の良くないことかもしれません。でもそれは、とても大切で、新しい始まりです。神様は、私たちの理解やイメージをはみ出す、別の人格のお方です。
世界は自分を中心に回ってはいません。私よりも大きなお方である神様がおられ、私とは別の一人一人と生きているのです。血が繋がっている親子も、兄弟も、夫婦も友だちも、私もここにいる誰もが、皆それぞれに違う存在です。世界には、七六億人の、それぞれに特別な人がいます。そして、その七六億人にとっても、あなたは特別な人です。神様もあなたを、特別な一人として造られ、私たちと向き合われ、私たちに語りかけられます。神様はすべてのことがお出来になり、神様ご自身の聖なる御意志をすべて行われます。「すべてのこと」といっても変なことや無理なことは神様はなさいませんよ。神様ご自身の聖なる御意志を行われるのです。その神様の聖なる御意志とは、何かスゴイことや変な事ではなく、私たち人間を造られて、私たちが神様を愛し、神様に従うように働きかけることなのです。私たちを脅しつけたり、訳の分からないことをしたりしているような神様イメージを持っている人は多いとしても、本当の神様には「聖なる御意志」があります。全てを見ておられ、私たち一人一人に働きかけ、語りかけ、神様を愛し、神様に心から喜んで従うようにと働きかけておられるのです。
私にはそういう神様のことを絵に描くことは出来ませんし、聖書も神様をイメージにしてしまうことを禁じています。それは、実際に神様をみることは出来ないからですし、どんな絵でも神様の豊かで大きな測り知れない素晴らしさは全く表現できないからです。神様が曖昧で捉え所がないからではなく、その反対です。あまりに具体的で、現実的で、測り知れないから、到底絵には描けないのです。その代わりに、神様がどんなことをなさったかを思い起こさせるような、美しい絵や心に届くようなイラストをお見せしたいと思っています。神様を見ることが出来ませんが、見える美しいものを通して、その全てを造られて、それを全部合わせたよりも大きな神を想いたいのです。
しかし、神様は自然の中に語るだけでなく、私たちに聖書を与えてくださいました。これも、神様が私たちを人格として尊んでくださっている証拠ですね。簡単な命令や条文ではなく、私たちが聖書を読み、味わい、考えて、神様の御言葉に聴いていく、そういう対話で、私たちとのコミュニケーションを図られるのです。神は、私たちに語りかけ、私たちが聴き、受け止め、応答するのを待たれるお方です。今日の御言葉でも、
出エジプト記三四6主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、
7恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」
とモーセに語られました。大いなる神様が、黙って聴け、と命じるよりも、私たちとの関係をこの上なく大事になさって、モーセに語りかけました。神は今も私たちの人生に関わり、聖書を通して語りかけ、心に問いかけ、私たちの応答を待っておられます。
聖書を通し、イエスを知る時、自分の中にある「神様イメージ」に気づき、本当の神様はそれよりももっと大きく、もっと楽しく豊かで、繊細で熱い神だと気づかされます。このイエスに生涯掛けて出会いながら、神に造られた自分や他の人を見る目も変わります。それがイエスの与えてくださった「神を愛し人を愛する」という新しい生き方です。