聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

「永遠の人」伝道者3章1~11節

2018-08-12 16:31:34 | はじめての教理問答

2018/8/12 「永遠の人」伝道者3章1~11節

はじめての教理問答16~21

 夕拝では「はじめての教理問答」からお話ししています。今日はその四回目ですが、最初にお話しした問1は「あなたを造ったのはどなたですか? 答 神さまです」でした。今日は神がどのように人間をお造りになったのか、を問16から21でお話しします。

問16 わたしたちの最初の祖先はだれですか?

答 アダムとエバです。

問17 神さまはどのようにしてひとを造りましたか?

答 神さまは、ご自身のかたちにしたがって、ひとを男と女に作りました。

問18 神さまはわたしたちの最初の祖先を、なにから作りましたか? 答 神さまはアダムの体を地のちりから作り、エバの体をアダムのあばら骨から作りました。

 ここで言われている事は、聖書には神さまが最初にアダムとエバを創り、神さまご自身のかたちに、神さまに似たものとしてお造りになったことが書かれています。これは、学校の理科の授業で学ぶ内容とは随分違うと思うかもしれません。

 確かに、科学では神はあまり扱いません。そして、神を語らずに世界が今までどのように形作られてきたのか、宇宙の始まりから今に至るまでの出来事を研究しています。人間は、神が造られたのではなく、原始的な生物から進化して、今の姿になったのだと考えています。一方、聖書は神が世界を造られて、人間をどのようなものと見ておられるかを詳しく書いています。中には、聖書を信じる創造論が真実か、神なしの進化を語る科学が本当か、二つの意見を対立させて、裁判をしたり激しく争ったりしている人たちもいます。それはとても悲しいことだと思います。

 それと同時に、神を信じるキリスト者で科学の最先端の研究をしている人たちもいます。そうした人たちの本が日本語でも読めるようになりつつあります。私は進化論だけで人間の誕生を説明することが出来るとは思えませんが、科学を十分に調べて研究している人たちのことも尊敬したいと思います。そして、科学の発見も驚いたり楽しんだりしながら、科学だけでは分からない聖書のメッセージに気づいていくことは出来ると信じています。そして、聖書は神が人間を、ご自身に似た者として、特別にお造りになったことを記しています。

 人間は、神さまが特別な関係にお造りになり、神さまの形に従って創造されました。それは、男と女に作る、という在り方でした。ですから人は、男と女同士、お互いを大切にしあわなければ、神のかたちを壊すことになります。そして、神さまは人間を作るのに、何から作られたでしょうか。男性を「地の塵」から作られ、女性をその男性の肋骨から作られたとあります。これは、人間が世界との関係、世界に対する切り離せない責任や使命を持っている、ということですし、男性と女性との関係もとても強いことを教えているのです。地の塵なんて詰まらないとか、男性よりも女性の方が劣っているとか、そういう優劣や競争の関係で考えるのは、本来の神の意図では全くありません。その何よりの証拠は、神が私たちに体だけでなく、永遠に続く魂を下さるという、特別なプレゼントに現れています。

問19 神さまはアダムとエバに、体のほかに何を与えられましたか?

答 神さまはふたりに、永遠に続くたましいを与えました。

問20 あなたにも体のほかにたましいがありますか?

答 はい。わたしの魂も永遠に続くものです。

問21 どうして、あなたの魂が永遠に続くことがわかりますか?

答 聖書がそう教えているからです。

 この聖書の箇所の一つが、先に読みました伝道者の書三章です。

11神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」

 神は人の心に永遠を与えられた。体は死にますが、心は永遠を与えられています。神になるわけではありませんが、神は人を永遠に続く魂、心を持つ存在としてお造りになったのです。それは私たち皆に言えることです。あなたにも体だけでなく、魂が与えられており、それは永遠に続くものなのです。いつまでも続くものです。私たちは、いつか必ず死にます。それがいつ、どんな形であるかは誰も予想できません。しかし、それは私たちにとっての終わりではありません。体は朽ちても、いつか新しい体を与えられて、永遠に歩むようになる。そう聖書は教えています。人間の魂には永遠が与えられているのです。ですから、私たちの命にはとてつもない価値が与えられています。私たちの毎日は、永遠の中での貴重な一頁です。永遠があるから、一日ぐらいどうってことない、ではなくて、一日をどう過ごしたかの記録は永遠に残るのです。それがどんな歩みだろうと変えたり消したりすることは出来ません。ただ、どんな過去であっても、それを挽回したり、反撃してもっと大きな物語の一部にしたりすることは出来ます。そして、神様はそうさせてくださるのです。

 ここでも、人の心に永遠を与えられた、の前に大事なことが言われていました。それは

「神のなさることはすべて時にかなって美しい」

という言葉です。

 神はこの世界を作られて後は放っておくお方ではありません。世界を長い時間を掛けて、作られて、整えて来られたお方です。科学は、その神の世界に対する壮大な関わりを発見しています。その中で、人が生まれ、植えたり泣いたり出会ったり別れたり、様々な出来事が綴られていきます。私たちは精一杯生きて、考えて、行動を起こしますが、そういう人生を与えてくださった神は神で、長い時間をかけて、神様のご計画を進めておられるのです。人間から見える世界と、神が教えてくださる世界の見方と両方があるのです。科学と聖書は、それぞれに大事なことを教えてくれます。そして、科学が明らかにするように、神は世界を長い時間をかけて作り出しておられます。

 神は人に永遠を与えられました。その永遠をかけて、私たちは神がなさる

「時に叶って美しい」

御業を観ていきます。神はその永遠を賭けて紡いでいく美しい物語に、私たちも参加させるために、私たちを作られたのです。だから私たちは今を大切にします。今がどんな時でも希望を失いません。一人では難しくても、神が一緒に歩ませてくれる教会や家族や友人たちと、それを励まし合っていきます。そのような神への信頼と、お互いとの日々を積み重ねていきます。それが、長い時間をかけて何一つ無駄なくされていく。その末に、永遠をかけて神の美しい物語が作られていくと聖書は語っています。

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イザヤ書43章1-4節「愛を届ける言葉」

2018-08-12 16:21:46 | 愛を伝える5つの方法

2018/8/12 イザヤ書43章1-4節「愛を届ける言葉」

 今日から新しい説教シリーズです。ここ数年、聖書が語っている物語を全体像で捕らえようとするアプローチが盛んです[1]。長老教会の関係でも『神の大いなる物語』が出ています[2]。これを取り上げたいと思っていました所、先月の小会で「愛を伝える方法」(のテーマを「説教でも話してほしい」と言うことになりましたので、ここを切り口に始めて行きたいと思います。

1.『愛を伝える5つの方法』

 イエス・キリストは「最も大事な戒め」を聞かれ、

「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」

「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」

と仰いました[3]。私たちを愛される神を私たちも愛し、互いに愛し合う。それがキリスト教の最も重要な柱です。ではその愛をどのように表していけば良いのでしょうか。立派な答よりも、教会で、またそれぞれの家庭、夫婦、親子でさえ愛の伝え方が分からないということは多くあるのではないでしょうか。私はこの『愛を伝える5つの方法』で随分助けられました。著者は牧師で結婚カウンセラー、夫婦のコミュニケーションを「愛の5つの方法」という切り口で整理しています[4]

 具体的には、肯定的な言葉、充実した時間、贈り物、助ける行為、スキンシップです。大きく分けて愛にはこういう豊かな方法があります。私たちはお互いに違う者ですが、こうした表現を用いて愛を伝え、受け取っているのです。詳しくは来週から見ていきますが、肯定的な言葉をかけること、一緒に時間を過ごすこと、何かプレゼントをすること、お手伝いをすること、手を繫いだりハグをしたりする。そうした形で、見えない思いを届けることが出来ます。

 そして厄介なことにその伝え方も人それぞれです。方法は原文ではランゲージ(言語)。日本語と英語、スワヒリ語と中国語といった外国語はお互いに全く違います。愛の伝え方は5つだけでも、大事にしている方法が違えば会話にならないのです。親が「子供のために一生懸命働いて稼ごう、一緒にいられなくてもお金や必要なものは買えば分かるだろう」と思っても、子供は「うちの親はお金をくれるばかりで一緒にいようともしないから自分のことは愛していないのだ」と孤独であることがあります。夫が何かと妻を誉めても、妻は「家事を手伝って欲しいのに口ばっかり」と怒ることがあります。かとおもえば、口べたな夫が「妻のためならどんな犠牲も厭わない」と思っていて、妻が「あの人は何も話したり手を繫いだりしてくれない」と傷ついている。そういう悲しいすれ違いがあり、大きな断絶になることもあるのです。

2.神の愛の伝え方も

 そのすれ違いを解決する話の前に、人との関係も大事ですが、愛の源泉は神ご自身です。神の愛の豊かさを十分に味わい切れていないとしたら、そこから始めようではありませんか。今日のイザヤ書43章4節

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

はよく知られて愛されている箇所です。この言葉がこれほどよく使われるようになったのは40年も経たないのではないかと指摘されていますし[5]、前後を読むとイザヤ書当時の歴史的な複雑な事情も伺えます。しかしそのような文脈はさておいて、この言葉が取り上げられて、頻繁に引用されること、そして実際本当にこの言葉を瞑想すると深い慰めや力をもらえる事実は、主が聖書で私たちに愛の言葉を語って下さっている証しです。聖書には主の愛が沢山語られています。肯定的な励ましや希望が語られています。「価値はないけれど愛している」ではなく「高価で尊い」という言葉があります。そうした希望の言葉が聖書に貫かれています。

 では「充実した時間」はどうでしょうか。ここでは

あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。

と言われています。どんな時も主はともにいる、と言われます。同じイザヤ書46章には

ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。

と語られています。マタイの福音書はイエスをインマヌエル(神は私たちとともにおられる)と紹介して、最後28章20節をイエスの

「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

の約束で結んでいます。

 「贈り物」は…贈り物だらけ、です。この体も命も、食べ物、家族や友人、自然や健康、美しい音楽、爽やかな風。私たちを支えるもの、必要なもの、私たちを喜ばせ、成長させてくれるものはすべて神からの贈り物です。イザヤは天地の造り主なる神を繰り返して語りますし、山々や木々や鷲や羊が神のメッセージだと語っています。イエスは太陽も雨も神の惜しみなく無条件のあわれみだと言いました。何よりイエスご自身が贈り物で、聖霊も贈り物です。[6]

 また、

「神は私たちの助け」

です[7]。私たちを背負い、執り成し、万事を益となるよう[8]働いておられます。罪の汚れを洗い去り、逃れの道を備え、髪の毛も数え、心の呻きも拾い上げてくださいます。イエスは私たちに仕えるために世に来ました。礼拝もサービスといいますが、人が神にする奉仕ではなく、まず神ご自身が私たちに仕え、十字架の贖いによって、私たちを今ここにおらせてくださる。しもべとなって私たちを助け、支えてくださる神への礼拝なのです。

 最後のスキンシップもイエスを思い起こしましょう。イエスは私たちと同じ肉体を持つ人間となりました(受肉)。言葉だけで癒やせるのに、病気の人の肌に触れました。子どもたちをハグして祝福されました。今も「主の聖晩餐」という触って味わう儀式で体感させてくださるのです。

3.愛ならぬものでなく愛を

 私はこの5つの視点で神の愛がグッと身近になりました。そして、神の愛を豊かに味わう時、その愛が本当に一方的な愛、無条件で無制限で、聖なる愛だと確認しました。私たちが人に伝えるのもそのような愛、主イエスが下さった愛を土台とする生き方であるはずです。神の無条件の愛を土台として夫婦や親子の関係も本当に「相手を愛したい、大事にしよう。それでもうまく行かない」という時は「5つの方法」はヒントになります。しかしその前に、私たちが神の愛から離れて鈍感になっている問題があります。自分が神に愛されている者、色々あっても「高価で尊い者」ではなく、努力や業績、時には嘘や力尽くででも価値を手に入れなければ愛されないと思い込まされています。大事な夫婦や親子、教会の中でも「愛を伝えたい」はずなのに、愛のようで神の愛とは違うものを届けてしまう事が多いのです。愛してくれない寂しさや非難の方が大きくて、かえって関係をこじらせてしまう事が多いのです。あなたには愛がないとか、何か良いことをして条件を満たせば愛される、というメッセージは愛ではありません。人の生き方を土台として神の愛がもらえるのではなく、神の惜しみなく一方的な愛が土台になり、だからこそ罪を捨てて、神の家族として生きていこう、それなら愛のメッセージです。

 聖書は、神の愛から離れて、お互いにも傷つけ合っている人間の歴史が記されています。しかし、その人間をも神が愛されて、神の愛に気づかされていく歴史です。その愛に気づくことで、人も互いに愛し合い、赦し合い、ともに歩むようにと招かれる物語です。その1つの手がかりとして、皆さんは自分がどんな方法で愛を表しているか、どんな方法で愛を一番感じられるか、また皆さんの周りの大事な(でもちょっとぎこちなくなっているかもしれない)人が自分とは違う表現の人ではないか、考えてみてください。そして、お互いの違いを残念だと思わずに、その違うお互いが神に愛され、イエスの愛を注がれている者として見るようにしていただきましょう。違う私たちが、お互いの違いを受け入れ、不器用ながらも愛し合うようになっていく。そういう小さな見えない所での回復によって、神の国がまた一頁前進するのです。

「大いなる、そして本当に細やかで惜しみない愛の主よ。あなたが私たちを愛して、言葉や時間や贈り物を下さり、私たちに仕えてくださっていることを感謝します。まだまだあなたの愛を知り、気づくに足りない私たちが、十字架と復活の主を仰ぎ、その恵みを至る所に見ながら、お互いの関係をも育てていくことが出来ますよう、知恵と恵みの聖霊によってお導きください」



[1] ベルンハルト・オット『シャーローム 神のプロジェクト』(いのちのことば社、杉 貴生 (監修)、 南野 浩則 (翻訳)、2017年)、子供向けには、サリー・ロイドジョーンズ『ジーザス・バイブルストーリー 旧新約聖書のお話』(いのちのことば社、廣橋麻子訳、2009年)。また、W・ブルッゲマン『預言者の想像力 現実を突き破る嘆きと希望』(日本キリスト教団出版局、鎌野直人、2014年)も。

[2] ヴォーン・ロバーツ『聖書の全体像がわかる 神の大いなる物語』(いのちのことば社、山崎ランサム和彦訳、2016年)。本書の出版は、日本長老教会のグレースシティチャーチ東京のプロジェクトによるものです(あとがき「本書について」参照)。

[3] マルコ伝12章29-31節。

[4] 本書は、アメリカ長老教会の牧師ティム・ケラーが『結婚の意味 わかりあえない2人のために』(いのちのことば社、廣橋麻子訳、2015年)の第五章で引用しています(187、218、221頁以下)。なお、以下のサイトには、本書の「5つの言葉」のどれが自分の「第一言語」かのテストがあります。http://www.ijcchawaii.org/message/The%20Five%20Love%20Language/The%20Five%20Love%20Languages.htm

[5] 後藤敏夫『神の秘められた計画 福音の再考 - 途上での省察と証言』(いのちのことば社、2017年)113頁。

[6] ルカ伝十五31「父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。』」もどうしても見ておきたい言葉です。

[7] 詩篇四六1「神は われらの避け所 また力。 苦しむとき そこにある強き助け。」他。

[8] ローマ八28。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」

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