2018/6/10 ハ信仰問答126「赦し以上の幸せ」マタイ18章21-35節
今日のマタイの福音書では、「赦さなかった家来のたとえ」のお話を読みました。一万タラントの借金を赦してもらった家来が、自分が100デナリを貸していた人を赦さなかった、というのです。
一万タラントはどれぐらいかというと、二十万年分のお給料だそうです。100デナリは100日分のお給料です。三ヶ月チョット働いて返せる額です。でも、一万タラントは二十万年かかる、べらぼうな大金です。つまり、返せるわけがない大金です。それだけの莫大な借金をどういうわけか、無謀にも作ってしまった人だというのです。それだけの借金を、清算しなければならなくなっても到底返せませんから、王様は自分も家族も持ち物も全部売り払うよう命じました。それだって、1万タラントには全く足りないでしょうが、せめてそれが精一杯だということでしょう。
今日のお話は、主の祈りの第五祈願です。
「私たちの負い目をお赦しください」
で始まる、主の祈りで最も長い文章です。古い言葉では「罪」と言っていましたが、正確には「負い目」という言葉です。もっと正確には「借金」という言葉です。今日の「赦さなかった家来のたとえ」でもイエスは「赦し」を借金に例えていました。そして、第五の祈願について教えている解説の殆どで、この「赦さなかった家来の譬え」が引用されるのです。私たちも、神に到底返せない借金を負っているもの。それを赦して頂いたのだから、私たちも互いに赦し合うことを、この譬えはよく教えてくれています。
問126 第五の願いは何ですか。
答 「私たちの負い目をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦します」です。すなわち、わたしたちのあらゆる過失、さらに今なおわたしたちに付いてまわる悪を、キリストの血のゆえに、みじめな罪人であるわたしたちに負わせないでください、わたしたちの内にあるあなたの恵みの証しとして、わたしたちもまた真実な思いをもってわたしたちの隣人を心から赦しておりますから、ということです。
「私たちの負い目をお赦しください」
と祈る。新改訳2017になって、これはハッキリしました。文語訳では何かまず「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く」と自分が誰かを赦すことを持ち出してから、「我らの罪をも赦したまえ」と願うかのような文でした。元々の言葉はもっとハッキリしています。
「私たちの負い目をお赦しください」
です。イエスはここで「私たちに負い目があれば」とは教えません。「負い目がない」と言える人はいません。「負い目をお赦しください」と祈るよう、イエスは例外なく命じられたのです。私たちには
「あらゆる過失(実際の間違った行動)」
があり、更に
「今尚私たちに付いて回る悪」
があります。神様からお預かりして委ねられた人生や生き方、心、様々なものを、無駄にしたり壊したりしてしまうものです。どうしたって、神に対して借りのない生き方など出来ません。とりわけ、人間はアダムとエバの堕落以来、罪を持っています。その歪んだ自己中心のせいで、沢山の間違った行動を取って、とりかえしがつかないことをしてしまいます。本当にひどい事をしてしまう事さえあります。そういう大きな問題はなかったとしても、神の前にはその根が人間の心にある事の方がずっと深刻な問題です。私たちは、神に赦して頂かなければなりません。
しかし、その赦しは
「キリストの血のゆえに」
キリストが十字架で死んでくださった償いのゆえに、いただける赦しです。神が下さる赦しなのです。そうではなく、私たちが償ったり何か別の事で埋め合わせをしたりして赦していただけるでしょうか。いいえ、それは先の一万タラント借金がある家来が
「もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします」
と言ったのと同じです。彼は自分でもまた闇雲に口走っただけか、あるいはどうせ返せないのだから、ダメ元で踏み倒せたら儲けものだと口から出任せを並べ立てたのか、どちらかでしょうか。それでも、そんな無責任な事しか言えない家来を王様は憐れんで、一万タラントの借金を全部免除してしまったのです。家来の本気に免じたとか、泣き落としに引っかかったとか、そういう事ではなくて、ただただ可哀想に思われたからですね。借金の損は自分が引き受けるから、今度こそ借金から自由な生き方をしてほしかった。返しきれないほどの借金を抱えるような生き方ではなくて、もっと大事な、本当に新しい生き方をさせてあげたかったのですね。つまり、赦しは、赦し以上の憐れみがあるから与えられるのです。赦しが与えられたのは、赦しだけではなくて、赦し以上の新しい生き方が与えられたのです。
イエスが私たちのために十字架に架かって下さったのは、罪を赦すためだけではありませんでした。十字架は、自分のことしか考えず、罪を罪として見つめない生き方から方向転換して、神との和解に生かしてくださるためでした。イエスの十字架に、私たちは罪の赦しだけでなく、神の愛を見ます。神御自身が私たちを罪人として怒り、罰するお方ではなく、私たちのために御自身の命を犠牲にする事も厭わず、私たちを愛してくださるお方でした。その命を私たちはもらったのです。ですから私たちは、自分の借金を認めて、返しきれない負債を更に重ねる愚かさを肝に銘じつつ、神の大きな恵みの世界で生きるのです。その恵みを私たちは既に頂いている。ただ
「自分が赦されて善かった、得をした」
だけで
「人の事は赦さない、ただじゃ済ませない」
そういう生き方では勿体なさ過ぎるのです。人との過去のしがらみで、苦々しい思いを抱えた心も、癒やして頂いて、憎しみや赦せない心を手放す。そういう生き方を戴いていくのです。
ですから、決して
「赦す」
とは「不問に付す・大目に見る」という事ではありません。罪は罪として責め、間違いは間違いとして認めるのです。また、その問題の解決のために先走らずに、丁寧になる必要もあるでしょう。直ぐに喧嘩や暴力沙汰になる関係は、距離を置く必要があるかもしれません。深い傷がある人は、まず十分に安心できる環境で、十分にケアされなければなりません。それぐらい罪は深いものだからです。それを認めないまま、安易に問題に蓋をしようとするのは、赦しとは全く逆です。罪は、二十万年架かっても返しきれない負債以上のものです。神はそれを指摘なさいます。しかしそれは、私たちを責めるためではありません。赦しを用意しておられるからです。罪や罰以上の幸せがあるのです。赦しは困難なプロセスですが、その長いプロセスをかける甲斐のある、素晴らしい幸いがあるのです。赦しはその幸いを戴くための扉なのです。