聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

使徒の働き二六章1-18節「神にお帰りなさい」

2018-06-17 21:24:25 | 使徒の働き

2018/6/17 使徒の働き二六章1-18節「神にお帰りなさい」

 新約聖書の三割の著者で、最大の伝道者で神学者である使徒パウロが、以前は教会の最大の迫害者だった事実はそれ自体、最大級のメッセージです。だからでしょう、使徒の働きではパウロが迫害者だった真っ最中にキリストに出会った出来事が三度記されています。今日の箇所はその三回目、パウロが

忍耐をもってお聞きくださるよう」

と話し始める証しです。

1.若い頃からの望み

 パウロの話は三回とも微妙な所で結構違います。話す相手や状況に応じて、伝え方を変えています。いつも紋切り型の同じ話も悪くないでしょうが、パウロは相手に合わせてアレンジした人です。特に今日の所では、目が見えなくなった事や、アナニヤが来て祈ってくれて視力が回復した事は端折っています。では強調点はどこでしょう。それはパウロが今キリスト者として持っている

「希望」

だと思います。神が約束して下さった望み。23節の最後では

「光」

とも言い換えられます。「希望の光」です。そしてパウロはそれを、自分が若い時、パリサイ人として厳格に生きてきたときから待ち望んでいた約束だと言っています。更には、この弁明を取り仕切っているアグリッパ王も、ユダヤ人の慣習や問題に精通しておられるのだから、あなたにも分かるはずだ、と言っているのです[1]。いや、むしろアグリッパ王が、ユダヤ人の文化や聖書の知識にもかなり通じているからこそ、その聖書の希望を接点として、自分の証しをアレンジして、希望という切り口の話に仕上げて語りたい気持ちが伝わってくるのです。

 パウロ自身、今キリストから希望を頂いていますが、最初はそれが分からず、ナザレのイエスの名に対して、徹底して反対すべきだと考えていました。教会を猛烈に弾圧して、激しい怒りに燃えていた。そうしてダマスコへ向かう道、真昼に太陽よりも明るく輝く光に打たれて、「サウロ、サウロ」と自分に語りかける声を聞いたのです。

14「…サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い。」

15私が「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、主はこう言われました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

16起き上がって自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たことや、わたしがあなたに示そうとしていることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。

17わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのところに遣わす。

18それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。」

2.神に立ち返る歩みの始まり

 パウロは神を信じて聖書の希望を待ち望みつつも、その希望を成就してくださったのがナザレのイエスだとは信じられませんでした。だから一生懸命迫害していました。それをイエスは

「棘の付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い」

と仰います。これは「天に向かって唾を吐く」、つまり自分に帰ってくる、というような諺でしょう。キリストに反対するのは、結局、自分が痛い思いをすることでしかないのです。しかし主が現れたのは、パウロを責めたり怒ったりするためではありません。パウロがキリストを知り、キリストを信じる信仰によって罪の赦しを戴いて、その事を他の人にも伝えるよう、主はパウロを遣わすためだったのです。

 神は人間を

「闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ」

てくださいます。イエスを信じれば、罪の赦しだけでなく、多くの人と一緒に聖とされ、一緒に神の相続人にさえして頂くのです[2]。神は私たちに「お帰りなさい」と言って迎え入れてくださる方です。私たちが神に逆らい、神に唾を吐いたり蹴りつけたり不届きな生き方をしていても、神はキリストをこの世界に送ってくださいました[3]。22節23節では、預言者やモーセ、つまり聖書に書かれてあるのは

「キリストが苦しみを受けること、また、死者の中から最初に復活し、この民にも異邦人にも光を宣べ伝えることになる」

という知らせだと言っています。パウロは若い頃から聖書を学んで、聖書に厳格に生きようとしていました。しかし聖書でもっと大事なことは、神御自身が人間の所に来られて、苦しみを受けて、死にまで謙ってくださって、そこから復活されて、光となってくださる、というメッセージです。それこそ預言者やモーセの予告していた事です。

 そうして神の側から来られたキリストを信じて、神に立ち帰るのが「悔い改め」です。罪を反省する以上に、神に立ち帰ることです。そして、そうして神の元に帰る時、それに相応しい生き方が始まります。神がお帰りと言ってくださっている。自分には永遠の居場所がある。自分の闇も苦しみも、間違いも全部知った上で受け入れてくださる神がおられ、また、同じように神にお帰りと言ってくださる大勢の人たちの中に自分がいる。そう知った者としての相応しい生き方、新しい歩み方、人との関わり方を励ますのが、パウロの宣教でした。

3.私のようになってほしい

 二六章後半で、パウロの弁明を聞いていたフェストゥスもアグリッパ王も、パウロの言葉に激しく抵抗を見せますね。それに対してのパウロの最終的な答が29節にあります。

29…私が神に願っているのは、あなたばかりでなく今日私の話を聞いておられる方々が、この鎖は別として、みな私のようになってくださることです。」

 今パウロの前にいるのは王や総督たち、有力者たちです。彼らに対してパウロは

「私のようになってくださること」

を神に願っているというのです。パウロは鎖に繫がれた惨めな未決囚です。過去を振り返れば、教会を激しく迫害して、暴力的に御名を汚させたり徹底して多くの聖徒を苦しめた、消えない負い目を持っています。今でも自分は罪人の頭だと自認しています。それでも「私のようになって」ほしいと言います。そういう私にキリストが出会ってくださり、誰もが望んでいる希望を下さった。努力とか王や総督の地位や財力でも決して手に入らない希望を頂いた。それゆえパウロは「自分のようになってほしい」と思えました。

 断じて自分のように伝道して説教して、立派に生きて、という自慢ではないです。彼は自分の問題や悲しみにもとても率直です[4]。そういうのです。希望よりも怒り狂って生きていた自分にキリストが出会ってくださいました。自分の帰りを大喜びして迎えてくださる神と出会った、その一点です。立派な偉人とか道徳的に完璧とかではなくて、欠けも限界も、変えられない過去もあって、将来も失敗や間違いをせずには生きられない自分だけれど、そういう自分にも帰る家がある。お帰りと受け入れて下さる神がおられる。そうして神に立ち帰らせてもらった時、生き方も変わりました。かつては人を断罪して怒って責めなきゃという生き方でした。自分は異邦人でなくて善かった、という生き方でした。それがここで異邦人にも落ち着いて語り、心を込めてキリストとの出会いを願うように変わっています。「あなたのようでなくて善かった」という上から目線でなく、自分の失敗も後悔も鎖も差し出しながら「キリストの光をいただいた私のようになってほしいなぁ」と願うのです。

 誤解を恐れず言えば、キリスト者になると「私のようになってほしい」と思える人になるのです。神は私たちにそう思って欲しいのです。「『私のようになって』と言える立派なキリスト者になる」とは違います。立派ではなく、正直言えば、問題や傲慢も悩みもあります。鎖や病気や大変な目にも遭います。キリストに従い切れない自分に悩まずにおれません。でもそのままの自分を迎えてくださるキリストとの出会いが有り難い。その希望に立ってどんな問題にも絶望せずに向き合える。その鎖は別、あれやこれの「別にして」は沢山あっても、それでも本当にキリストと出会って善かった。それをどの人にも分かち合いたいと願って行きたいのです。

「主よ。あなたが私たちの人生をも照らして、最高の希望を下さいました。闇から光に立ち帰り、罪から神に立ち帰らせてくださいました。本当に有難うございます。キリストの苦しみと私たちへの光を深く味わわせて、この世界にあってこの世界のものではなく、光を心に戴いたものとして生かしてください。そうすることによって私たちをあなたの光としてください」



[1] パウロの弁明は、キリストが下さる望みが、キリスト者だけの特権や独占的なものではなく、ユダヤ人やアグリッパ王もよく知っているはずの希望だ、というアプローチを取っています。人の罪を責め、そこから神に立ち帰る、という「糾弾型」のアプローチではありません。「共通善」から説き起こし、その「善(希望)」こそ福音によって与えられるものである、という論法です。

[2] ユダヤ人だから救われるとか、善い行いをすれば罪が赦されるとかではない。神に立ち戻る人、教会に来る人なら良くして上げよう、というのではない。神の方から人間の所に来られて、あるいはパウロを遣わされて、神に立ち返らせてくださる。主を信じる信仰をもらって、もう罪を赦された者として、神が将来のご計画を相続させて下さる希望を持って生きるようにしてくださる。そういう神なのです。

[3] 神の光に背を向けて、世間の成功や幸せや楽しさを求めて生きています。サタンと言われるように、悪い力、間違った考えにどっぷり浸かっています。皆に希望を与えることも出来ないし、希望を下さる神がおられると伝える事もない、闇の中に生きているのです。

[4] 自分だけでなく、どの人にもそういう約束が届けられる。誰でもそういう希望に憧れているなら、キリストから頂けます。苦しい思いをしなくても、キリストが代わりに苦しんでくださってプレゼントしてくださるのです。

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