聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

使徒の働き十一章19-30節「恵みを見る喜び」

2017-11-12 20:41:05 | 使徒の働き

2017/11/12 使徒の働き十一章19-30節「恵みを見る喜び」

1.「初めて、キリスト者と呼ばれるようになった」(26節)

 「キリスト者」

は英語では「クリスチャン」。これをそのまま使って、私たちは「クリスチャン」と言いますが、日本語としては「キリスト者」です。その始まりは、人から

「呼ばれるようになった」

 渾名でした。「あの連中は、口を開けばキリストのことだ。いっそ、キリスト者(キリスト党、キリストオタク、キリスト馬鹿)」と呼んでやれと、揶揄を込めた呼び名でした。それを弟子たちは「失礼な」と言わず、受け入れた。やはりそこに自分たちの特徴が言い当てられていると思ったのです。私たちも初々しい思いにさせられる出来事です。

 19節にある

「ステパノのことから起こった迫害」

は八章の最初にあった出来事です。迫害でエルサレムから散らされたことから、サマリヤやダマスコに伝道が広がりました。その間に迫害者サウロの回心や異邦人への救いの広がりに驚かされる出来事があったのですが、ここではシリアの首都アンティオキアで教会が誕生した出来事が書かれています[1]

 そして、そこで初めて「キリスト者」と呼ばれるような特徴の集まりが出来たのです。それまで弟子たちはユダヤ人の中の一グループでした。ユダヤ人もキリストを待ち望んではいましたが、ユダヤ民族を中心にした運動でしたから、他の民族には他人事でした。キリスト者自身も、フェニキアやキプロス島、アンティオキアまで500kmも北上しながら、ユダヤ人以外の人に御言葉を語ることは思い及ばずにいました。そうした中、20節で、ある(無名の)キプロス人とクレネ人が何人か、ギリシャ語を話す人たちにも語りかけ、主イエスの福音を宣べ伝えました。この場合の

「ギリシャ語を話す人」

とは当時の共通語だったギリシャ語を話した人、普通の人という意味でしょう。ギリシャ人にも限りませんし[2]、ギリシャ語を話せるほど教養ある人でもありません。話が通じる人と会話しながら、自分の信仰を分かち合いたい、知って欲しい、と思ったのです。それは「救霊の情熱」や使命感ではなく、無名のキプロス人たちの内側からの情熱でした。「伝えなければ、信じなければ」ではなく、「伝えたい、知って欲しい、信じて欲しい」と思えたのがミソです。すると大勢が福音を信じて、主に立ち返りました。その出来事がエルサレム教会に届いて、驚きながら彼らはバルナバをアンティオキアに派遣したのです。

 ユダヤの弟子や使徒にはまだまだ他民族との関係に戸惑っていました。迫害の収集も途中だったでしょう。北に逃げたあの兄弟たちはどうしたろうか、と案じていたら、何と遙か北で、無名の弟子たちが分け隔てなく福音を語って、異邦人の新しい教会が出来ちゃったという知らせが届いた。予想もしない方向から、考えもしなかった展開を聴いて驚かされた出来事でした。

2.心を堅く保ち、主にとどまっていなさい

 バルナバは

23神の恵みを見て喜んだ」

とありますがどういう事でしょうか。喜びや祝福や素晴らしい出来事や奇蹟もあったかもしれません。しかし何よりも「恵み」とは

「相手の価値によらない無償の好意」

です。こちらが相応しいからではない。もしそれが大事なら恵みとは言わないのです。「素晴らしいですね。あなたの普段の行いがよっぽどいいからですね」と私たちはつい言いがちですが、それでは「恵み」とは違うのです。普段の行いに関わらず、本当に主が良いお方で憐れみ深いから私たちを愛し、様々な良い物や慰めや回復を下さるのです。

 単刀直入に言えば、ここでバルナバが見たのは本当に分け隔てのない、ユダヤ人もギリシャ人も民族を超えた集まりでした。その人たちがただ主イエスの福音を受け入れて、主イエスの福音によって一つに集まっていました。主イエスの恵みがなければ到底あり得ないような新しい共同体がありました。自分たちも待ち望んでいたメシヤ(キリスト)が来られて喜び、キリストにある新しい共同体の祝福を戴いていましたが、ユダヤ人ではない人にもその祝福が与えられていることに、本当に福音を見て、神の恵みなのだなぁと痛感した、ということでしょう。この恵みの主に留まるのが

「心を堅く保っていつも主に留まっているように」

という励ましです。主イエスの一方的な恵みによって集まったのに、いつしか恵みでないものが入り込まないよう、主ならぬものに目を奪われないよう、心を守る必要があります。民族や生まれで壁を造ったり、批判したり、居づらいような規則を持ち込まないよう、心を堅く保つのです。自分の意志や信仰の努力で、主に必死にしがみつく頑張りとは逆です。そのために、心を主に向けて祈り、力を抜いて主の恵みの中に安らぎ、静まって、主イエスの福音を味わうことが大切です。

 バルナバは立派な人物で大勢の人を導く働きをしました。しかし彼はあのサウロを捜しにタルソへ行きます。反対もあったでしょう。なんと言っても19節の

「迫害」

の中心的リーダー、主犯格の一人でした。サウロにひどい目に会わされた人もいたでしょう。しかし、ステパノはそうした隠せない過去を持つサウロの再出発を願いました。ユダヤ人も異邦人も、昨日の敵(加害者と被害者)もともに、神の恵みを見る教会を考えました。恐らくタルソで一人何も出来ないでいたサウロを、アンティオキアに迎え入れ、働きの場を与えました[3]。サウロが教える能力を生かせるとともに、サウロ自身が受け入れられ、役に立ち、愛され、その共同体に神の恵みを深く実感して慰められたでしょう。そのような傷あるサウロの存在そのものを通して、そこにおれた人も多くいたでしょう。知識や立派さで集まるのでなく、普段の行いや心の闇を抱えた論外な人も、神が恵みで迎え入れてくださる、というキリストの福音を体験したのです。

3.早速の救援活動

 この生まれたばかりのアンティオキア教会が、27-30節で大飢饉に襲われたユダヤの教会のために救援物資を集めて、バルナバとサウロの手に託して送ったのです。これもエルサレムの教会にとっては思いもかけない有り難いものだったでしょう。福音を伝える眼中にさえなかった人たちの教会から、救援物資が送られてきて助けられるのです。大飢饉は世界中と言われるぐらい大規模で[4]、アンティオキアも楽ではなかったでしょうに、彼らは持っているものを分かち合い、困っている貧しい人を助けました。エルサレム教会は最初から分かち合いをしていました[5]。今それが500kmも離れたアンティオキア教会との間でも実践され、自分たちが助けられる側になりました。キリストは自分たちだけでなく、他の人にも働いていた。こうして「自分はユダヤ人。彼らは何人」でなく

「私たちはキリスト者」

と呼ばれるのが一番シックリ来る。神の恵みに根差す教会、そこから離れないよう心を堅く保つ大切さを、エルサレム教会もまた改めて、アンティオキア教会からしみじみ教えられたのです。

 これはエルサレム教会が計画もせず準備もしていなかった展開でした。それは、私たちが陥りやすい狭い生き方を打ち破る、新しい繋がりがあり、助け合いの始まりでした。自分たちだけで盛り上がって遠い所での大飢饉や災害に無関心、ではありませんでした。あるいは「そんな災いは異邦人を見下した傲慢への神の裁きだ」とも言いませんでした。ただ、それぞれの力に応じて、救援の物を送ることを決め、実行しました。勿論アンティオキア教会を美化や理想化したら、恵みは見えなくなります。問題はあったでしょう。初めてヘブル語聖書を知らない教会の礼拝でした。また人種の坩堝での教会形成は試行錯誤の連続だったはずです。そのここでの経験が、サウロが後々に書くローマ書やエペソ書や様々な手紙で書かれている勧めの原点なのです。人間関係への洞察、違いの受容、正直で責任ある関係作りの勧めや心構えはここで産み出されたのです。何よりその土台はキリストの恵みです。主イエスご自身が、人種や文化や言葉やあらゆる違いや、人間関係や後悔や課題を含めて集めてくださった。助け合わせてくださる。キリストの十字架の愛と復活の希望に望みを置いて集まるのです。違いも含めて、同じ

「キリスト者」

です。端からは滑稽に見えほどの、このキリストにある交わりなのです[6]

「主よ。あなたは今に至るまで、私たちを思いもかけない形で導き、予想を超えた恵みを現されます。アンティオキアに生まれた教会のように、新しい出会いや関係、助けや励ましをどうぞ今も見せ、私たちを通して現してください。あなたご自身が十字架において恵みを与えてくださいました。いつも主を仰ぎ、主に倣い、互いを通して輝いている恵みを戴かせてください」



[1] 同時に、8章最初からの流れに戻りつつ、その間に起きた、迫害者サウロの回心という大事件も、ここにサウロが登場して絡んできますし、異邦人コルネリウスたちの救いという十章から十一章18節まで詳しくじっくりと書いてきました出来事も別の角度から裏付けるような出来事として、アンティオキアに新しい異邦人中心の教会が誕生した、という出来事が今日の箇所です。また、中心人物がペテロからサウロ(パウロ)へと徐々に移行していくことにも気がつけます。

[2] これは、「新改訳聖書」と「聖書新改訳2017」とでの変更点です。

[3] サウロがすぐアンティオキアに来たのは、タルソでの働きがすぐに離れられるような状況だったから、でしょう。ここまで数年、サウロは故郷タルソで何をして過ごしていたのでしょう。どんな思いでいたのでしょう。そこにバルナバが来て、アンティオキアでの働きに加わり、大勢の人を教え、成長に関わることで、サウロ自身どれほど慰められたことでしょう。

[4] ここに名が上げられている「クラウディウス帝」は在位が紀元41年から54年。その間に、ローマ帝国全体を襲った飢饉という史実は記録されていませんが、46-47年にユダヤ地方を襲った飢饉はあったのです。

[5] 使徒の働き二44-45、四32以下など。

[6] ガラテヤ書二章の、テトスが同行しての訪問は、この時のことかとも考えられています。

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問94「神だけを礼拝する幸せ」マタイ4章1-11節

2017-11-05 20:32:59 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/11/05 ハ信仰問答94「神だけを礼拝する幸せ」マタイ4章1-11節

 私たちの生活に、キリストはどのような教えを下さっているでしょうか。聖書全体が神から与えられた、生活の規範ですが、その中心にあるのは「十誡」です。今日からこの十誡を、第一戒から順番に一つずつ、繙(ひもと)いていきましょう。第一戒は

「あなたはわたし以外に他の神々があってはならない」

です。主以外に神があってはならない。

問94 第一戒で主は何を求めておられますか。

答 わたしが自分の魂の救いと祝福とを失わないために、あらゆる偶像崇拝、魔術、迷信的な教え、諸聖人や他の被造物への呼びかけを避け逃れるべきこと、唯一のまことの神を正しく知り、この方にのみ信頼し、謙遜と忍耐の限りを尽くして、この方にのみすべてのよきものを期待し、真心からこの方を愛し、畏れ敬うことです。すなわち、わたしが、ほんのわずかでも神の御旨に反して何かをするくらいならば、むしろすべての被造物の方を放棄する、ということです。

 読んで分かるように、ここでは聖書が示す、まことの神である主以外のものを礼拝したり、信仰の対象としたりすることを厳格に禁じています。そして、

「真の神を正しく知り、この方にのみ信頼し、謙遜と忍耐の限りを尽くして、この方にのみすべてのよきものを期待し、真心からこの方を愛し、恐れ敬うこと」

と言っています。

 これだけを読むと、こう思う人も多いでしょう。「キリスト教は排他的だな。他の宗教や神々を認めないなんて、独善的だ」。そう嫌悪する方もいるでしょう。確かに、そう言われるような面もあります。何しろ聖書は、世界にある沢山の宗教の一つ、人間が考え出した神々の一つとしての神ではなく、世界をお造りになった神、人間をもお造りになった神を神としているからです。この神が、すべてのものを創造されて、私たち人間との生きた関係を始めてくださった、と聖書は語っているのです。この神以外の「宗教」や「神々」は人間が自分なりに考え出したり造り上げたりした神なのです。

 ところが、聖書にはそのおかしな事をし始めた人間の物語が書かれています。聖書の始まりから終わりまで、そこに書かれているのは、本当の神から離れてさ迷い出す人間の歴史です。神に背いてしまう人間を取り戻すため、世界に来て、関わってくださる神の謙遜と忍耐の限りを尽くす物語が、聖書なのです。

 今読んだマタイの福音書四章には、イエスがキリストとしての働きを始めた最初に、荒野で受けた悪魔の誘惑が書かれていました。極限状態の中、悪魔はイエスに三つの誘いかけをしました。その三つ目は、第一戒に関わる誘惑でした。

マタイ四8今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、

言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」

10イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」

 悪魔は、イエスに全世界の国々とその輝かしさを見せて、自分を拝むなら、これを全部上げようと言いました。これをイエスは、神ならぬものを拝むなんてことはしないと拒まれたのです。これは考えてみればアタリマエの話です。イエスが、サタンを拝むだなんておかしな事です。サタンも奇妙な取引を持ちかけたものだ、というのは簡単です。でも、サタンの経験則からすると、確かに人間は、自分の欲しいものを手に入れるため、簡単にサタンにひれ伏し、悪に流されてしまうのです。最初のエデンの園で、人間に神を疑わせて、神に従うより自由に生きた方が幸せそうだと思い込ませるのに、サタンはまんまと成功しました。それ以来、人間は、簡単に主を捨ててしまいます。神ならざるもの、力や権力、欲望やうまい話にコロッと騙されて、神に背を向けてしまうのです。主が素晴らしい恵みを下さったら有頂天になるけれども、何かあると遅かれ早かれ、神から離れて、神ならざるものに飛びついてしまう。それが人間の姿です。でもそれがどんなに人間の習い性で、無理もないとしても、それでも神ならざるものが神に代わる事はありません。神が下さる「魂の救いと祝福」はないのです。

 ここでは大胆にこう言っています。

「わたしが自分の魂の救いと祝福とを失わないために」。

 これが第一戒の最初に確認されます。エデンの園以来、人間の心には神への不信感が根を下ろしています。神は私たちの幸せよりも、自分への服従を求める、と考えます。しかしここでは、自分の救いと祝福を捨ててでも神だけを拝むべきだとは言いません。人は、自分の救いと祝福のためにこそ、神ならぬものを避け、真の神を正しく知り、この方にのみ信頼するのです。勿論誘惑や戦いはあります。一時的に幸せを諦めたり楽を拒んだりすべき時はあります。イエス御自身が、サタンの誘惑と戦われました。イエスは十字架の苦しみでも、人間に嘲笑われ、苦しめられ、呪われながらも、その人間のために十字架に留まる道をイエスは命がけで守り通されたのです。真実に生きる道とは、決して簡単ではありません。神の御旨に従うことを選ぶため、目の前にぶら下げられたニンジンを我慢することも必要でしょう。いいえ、ここで最後に言われているように、

「すべての被造物の方を放棄する」

こと、お金儲けや成功のチャンスを拒否したり、時には自分の命をも捨てて殉教を選んだりすることさえあるのです。

 いつもお話ししているように、私たちが自分の努力や信仰で魂の救いや祝福を得るのではありません。イエス御自身が私たちの罪の救いのために、すべてをしてくださいました。御自身が人となって、あらゆる誘惑に打ち勝ってくださいました。御自身が

「謙遜と忍耐の限りを尽くして」

くださり、神を私たちの天にいますお方として信頼するよう結び合わせてくださいました。イエス御自身が、私たちのために御自身の楽も名誉も命さえも放棄してくださいました。それが本当の神です。その神を、私たちが人間と同じように考え、他のものと取り替えようとするとはなんと愚かなことでしょう。

 その愚かから救われていく途中に私たちはあります。真の神は私たちを救い祝福するために、惜しみなく犠牲を払い、今もともにいて、導いておられます。そうして、私たちがこの方だけを神として信頼し、この方のみを神とする幸いな生き方を導かれています。ですから、私たちも主を愛し、主以外のものを恐れたり神のように崇めたり慕ったりしないよう、心から願うのです。誘惑に遭うときには、賢明に勇気をもって負けることないよう助けてください、日々、神のみを神として歩ませてくださいと祈るのです。

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使徒の働き十章34-48節「聖なる感染」

2017-11-05 15:03:55 | 使徒の働き

2017/11/05 使徒の働き十章34-48節「聖なる感染」

 先々週23節までを読み、ペテロと異邦人コルネリウスがそれぞれに幻を見させられて、出会わされていく経緯を見ました。ペテロがコルネリウスのいたカイサリアに向かい、家に迎えられて、両者の経緯説明を交わしたのが、23節から33節まで幻を繰り返して記されています。

1.イエス・キリストはすべての人の主

 コルネリウスの説明と、実際彼の親族や多くの人が集まっている様子を見たペテロは、

34そこで、ペテロは口を開いてこう言った。「これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきする方ではなく、

35どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。

36神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました。このイエス・キリストはすべての人の主です。

と言います。そういって彼はイエス・キリスト、ナザレのイエスのことをコルネリウスに紹介するのです。ここでペテロは、特に神がイエスをキリストとして任職されたことを強調しています。神が聖霊と力を与え、イエスが良い業をなさり、悪魔に虐げられている人たちを癒やされた。それは神がイエスと共におられたから、と言います。コルネリウスは、真の神を恐れて正しく生きている人でしたが、まだイエスが主だとは知りませんでした。ペテロは、その真の神が、ナザレのイエスを通して平和の福音を宣べ伝えてくださった。イエスが良い業をなさったのも、あなたが恐れかしこんでいる神がいつもともにおられたからだ、とコルネリウスの信仰をイエスに結びつけています。そして39節以下、ナザレのイエスを人々は殺したけれども、神はこの方を三日目によみがえらせ、私たちに現れさせてくださった。私たちはその事の証人(目撃者、証言者)として、この方をあなたにお伝えするのです、と語ったのですね。

42そしてイエスは、ご自分が、生きている者と死んだ者のさばき主として神が定めた方であることを、人々に宣べ伝え、証しするように、私たちに命じられました。

 誤解しないでください。ここを

 「十字架で死んだイエスが、実はすべての人の裁き主なんだ、この方を信じなければ滅びるのだ」

と読むことも出来ますが、むしろ逆です。神が定めた裁き主、怖しく厳しく堪え難い審判者と思われた主とは、実はこのイエスだった。律法を守らない者を裁き、異邦人なんて一掃するとユダヤ人は思い込んでいたのに、神が示した裁き主は、実は、良い業を行い、虐げられた人を癒やされ、木にかけて殺されるのも厭わないイエスで、弟子たちはそのイエスと飲み食いしたと証言できる。本当に神はイエスによって「平和」「和解」をすべての人に語ってくださった。ここで言われているのは、そういう「実は」なのです。

2.なおもこれらのことを話していると

 そういう事をペテロが話しているまだ途中で、聞いていたコルネリウスや一緒にいた全ての人に聖霊が下ったと44節にあります。ペテロと一緒に来た人々はひどく

 「驚き」

ました。ただ吃驚とか不意を衝かれたより強い「驚愕した。肝を潰した。訳が分からなくない」という全く理解を超えた驚きです[1]。彼らは

 「割礼」

を受けていたとわざわざ確認されています。割礼は男性の体の皮を一部切る儀式で、神の前に聖別された証しでした。それをしていない異邦人は、言わば「汚れた」状態で聖なる神とは縁がない。聖なる神が異邦人に触れるなんて論外と思っていたのです。ペテロもまだこれから彼らに、イエスを信じて悔い改め、洗礼を受け、割礼も勧めるつもりだったでしょう。敬虔なコルネリウスでさえそうで、まして彼の親族や友人は尚更だったでしょう。でもその前に、聖霊の方が先回りして異邦人に、コルネリウスだけでなくそこに集まっていた異邦人全員に下った。数年前のペンテコステの日、使徒の働きの二章で教会が聖霊を注がれて異言を語り、人々が肝を潰したと同じように、異邦人に聖霊が下り、自分たちが肝を潰す側になりました。聖なる神が下ってしまって、開いた口が塞がらない。

46…するとペテロは言った。47「この人たちが水でバプテスマを受けるのを、だれが妨げることができるでしょうか。私たちと同じように聖霊を受けたのですから。」

 悔い改めてイエスを信じよ、と勧める前に、聖霊ご自身が異邦人に下ったのです[2]。彼らに洗礼を授けることは誰にも妨げる資格はない、と言います。聖なる神が、異邦人にも下られて、神の民としてくださった。その事を、言わば「追認」する形で、洗礼を授けました。[3]

 次の11章1-18節でこの話が続きまして、エルサレムの教会がこの出来事を聞いて、やっぱり憤慨するのです。「割礼のない人と食事をするなんて聖なる神の民として許されない」と。これに対してペテロが出来事を丁寧に繰り返した結論は、16節以下でこう語られます。

十一16私は主が、『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは聖霊によるバプテスマを授けられる』と言われたことばを思い起こしました。

17ですから、神が、私たちが主イエス・キリストを信じたときに私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが、神がなさることを妨げることができるでしょうか。

 神ご自身が人に分け隔てなく働いて、聖と見なしてくださったなら、人がそこにまだ何か条件をつけケチをつけ神のなさることを妨げてはならない。神は既に人間の先を進まれる方です。

3.最も聖なる方に触れられる

 ペテロは天からの動物の幻でどうしたことかと不思議がり、コルネリウスの歓迎と御言葉を聴こうとする熱心にハッキリと分かり、自分が説教をしている最中に聖霊が下ったことでビックリ仰天しました。彼はイエスの証言者で、イエスとともに過ごし、十字架と復活を目撃し、一緒に食事もし、ここまでの宣教で多くの恵みを体験してきました。それでも彼はコルネリオたちに表された恵みの事実を目の当たりにして驚かざるを得ません。福音を語って、神の恵みの力を信じて語っていながらも、実際の主のなさることはもっと豊かで驚かされるものです[4]

18人々はこれを聞いて沈黙した。そして「それでは神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って、神をほめたたえた。

 神が

 「いのちに至る悔い改め」

を下さるのです。異邦人とか民族や階級の区別は全く関係がありません。むしろ人が「こんな人には神も触るはずがない」と思う人にこそ、神は触れてくださり、新しくし賛美を授けてくださる。そこに神の神たる所以(ゆえん)があります[5]。人間が病気や汚染されたものに触れば汚染されます。病原菌の方が強いからです。神の聖も汚れた異邦人には触れるはずがない、これが当時のユダヤ人の発想でした。キリストの弟子たちさえそう思い込んでいました。その彼らを笑うように、聖霊はユダヤ人の見ている前で異邦人に下りました。彼らを聖別し、力や賛美を下さいました。病気が人間に感染するのとは逆に、神はご自身の聖によって人に触れて下さることで、人間がその聖なる恵みに感染してしまうのです。いいえ、神がイエス・キリストによって善い感染に預からせてくださることだけが[6]、私たちの変化や希望、悔い改めや心からの賛美になるのです。私たちもイエスの恵みを染してもらいましょう。

 イエスは人間に回心や善行を脅して強いる裁き主ではなく、良い業、癒やし、喜び、罪の赦しを与える裁き主です。いのちさえ投げ出して私たちに与え、良い感染をなさり、差別や偏見を打ち壊してくださる主です[7]。それは軍人であったコルネリウスにとってどれほど慰めであったでしょう。

 「平和の福音」

や、イエスが

 「すべての人の主」

という信仰は深い意味があったはずです。自分の力や他人とのパワーゲームが全てでなく、問題や偏見よりも大きく神が働いておられることが支え、救いとなって、彼の毎日を、仕事への取り組みを一変したでしょう。今も主は、私たちにも周りの全ての人々にも働いておられます。驚くほど受け入れがたい程、慈しみ深く働いておられる。その事に心を開いて、一緒に主を賛美するばかりです[8]

「すべての人の主であるイエスよ。あなたが働いておられるこの世界で、私たちの心や思いも広げてくださり、あなたの恵みに目を留めさせてください。自分の小さな思いで裁き、決めつけてしまう私たちよりも、あなたは遙かに大きな方です。先立ってくださるあなたに心を開いて、すべての良い物にあなたの御手を、よいご計画を見抜き、賛美しつつ歩ませてください。」



[1] 「驚く」エクシステーミは、二章のペンテコステ、八章のサマリヤのシモンで出て来た、神の御業への周囲の驚愕でした。それが九章で、パウロの回心に全ての人が驚き、この一〇章を挟んで、一二章でペテロの脱獄に教会が驚くという運びになります。

[2] 日本語では、38節の「油を注ぎ」と45節の「聖霊の賜物が注がれた」がかぶりますが、原文では「油を注ぐ」は一語ですので、同じ動詞ではありません。この「油注ぎクリノー」が「キリスト」の語源です。しかし、聖霊が上から注がれた様子は、確かにキリストと異邦人とでオーバーラップします。

[3] 洗礼を受けることによって聖くなるのではなく、聖くされたからこそ洗礼を受けるのです。

[4] そして、そのような神だからこそ、誰もが神との和解を頂けるのですね。聖く生きる人、神に喜ばれるような生き方を人間がするから、神の裁きを逃れられる、という事だと絶望です。

[5] ハガイ書二章10-14節の有名な箇所には、人が汚れたまま、聖なるもので何かに触れても、それは聖とはならず、汚れた人が何かに触れるなら、それは汚れる、という描写が出て来ます。しかし、これは当時の人の霊的な状態を表したものです。むしろ、神の聖は人の汚れよりも強く、「聖」にしてしまう、という描写は聖書に散見されます。

[6] 「良い感染」については、C・S・ルイス『キリスト教の精髄』(新教出版社)第四章で論じられています。

[7] 十一18 コルネリウスが優れていて悔い改めたのではなく、聖霊が下られて、悔い改めも与えられたのだ。この話で、コルネリウスもまた徹底的に受け身であることに注目。

[8] ペテロの説教は聖書からの演繹的な結論ではなく、キリストを体験し、十字架に驚かされ、復活に生々しく出会ったことと、今目の前に異邦人が救われたことを通して至る、冒険的な告白でした。神の聖なる力や福音は私たちが理解しているよりも大きく強いのです。私たちが十分理解しておらず、疑っているとしても、すべての人の主であるイエスは生きて働いておられます。人のうちに信仰や悔い改めを起こしてくださいます。神を恐れ、正義を行う人が神に受け入れられるのは、神を恐れる心、正義を行う生き方自体が、神がお与えになるからです。私たちの心に、病んだ思いがあり、まだ罪や傲慢や誤解や疑いがあるにも関わらず、聖なる神は私たちのうちに働いてくださいます。

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